尾関 きみか

第54話 最悪のタイミング




 今日で風邪を引いてから3日目。今回はいつもより回復が早くもうすっかりよくなっていたけど、あんなさんからの言いつけをちゃんと守り、一日中家から出ずにしっかりと体を休めた。



 数年に一度私が体調を崩すと、いつもあんなさんはやりすぎなくらい面倒を見てくれる。



 普段は私をからかい倒して、それを酒のあてにするくらい私で遊んでるけど、心底私のことを心配して大事に思ってくれているこの世で唯一の人だと感じて、弱り気味の私は実はちょこちょこ隠れて感極まっているくらい嬉しかった。





 ピーンポーン……





 夜の10時半になろうとする家中に、大きなインターホンの音が鳴り響く。



 また来てくれた。昼に作ってくれたハンバーグを食べてからもう8時間以上が過ぎた。夜はまたステーキを焼きに来てくれるって言うから、それを楽しみに何も食べないで待ってたけど、もう空腹は限界をとっくに越えていた。



「はーい!」



 あんなさんとステーキの到着が嬉しくて、勢いよく扉を開けた。



「きゃっ!!」



 勢いのよすぎた扉に驚いた顔をするその人を見て、理解が出来ないままとりあえず危ない目に合わせたことを謝った。



「す、すみません…!」

「ううん、大丈夫!むしろ元気そうで安心した!店長が言ってた通りだいぶ良くなったみたいだね…よかったぁ…!」

「…あの……すみれさん……どうして…?」



 その時、もう音を出す力さえ残っていないようなお腹の音がグォォ……と小さく鳴った。



 香坂さんはクスッと笑い、「今すぐ作るね!」と言って自分の家のようにサッと靴を脱ぐと、「お邪魔しまーす」と玄関の低い段を素早くあがった。



 呆気にとられているうちに、片手に持っていたスーパーのビニール袋を床に置き、急いだ様子で今度はまた別の袋から新品のエプロンを取り出す。



「家に寄る時間ないからこれも買って来ちゃった!スーパーで売ってたやつだからあんまり可愛くないけど」



 少し照れながら大きな花が散りばめられた少し古めかしいデザインのエプロンを身に着ける。



 どうゆうこと…?もしかしてこないだの奈央みたいにあんなさんが自分の代わりに香坂さんに頼んだ…?



 ……いや、そんなはずない。あんなさんが香坂さんにそんなこと頼むわけがない。



 すっかり治ったつもりでいてもまだ頭が働いてないのか、空腹がそうさせるのか、混乱から抜け出るのに少し時間がかかった。



「体調どお?お腹鳴ってたし、食欲はある?」

「……体はもう大丈夫です…食欲は風邪引いてもなくなることないので……」

「よかった!具合悪いのにお肉ってどうなんだろうって思ったんだけど、前にきみかちゃんうちに来た時、風邪引いててもかたまり肉食べたくなるって言ってたでしょ?だからボリュームのあるお肉買ってきたの!あ、でもちゃんと野菜もあるよ!お肉だけじゃなくて、野菜も食べてね!」



 間髪入れない言葉の襲来に、早くどうにかしなきゃと焦った。



「あの、すみません!どうして今日は突然家まで?」

「……あっ…いきなりでごめんね。…でも、今日約束してたでしょ?次のバイト上りに話しようって。お休みだからまた次の機会だなって思ってたんだけど、店長からもうだいぶ良くなったって聞いてね、だからごはん作るのも兼ねて来たの。きみかちゃんの話、待ちきれなかったから……。でも、お腹空いてるだろうし、とりあえず先に作っちゃうね!話はその後で聞かせてね!」



 早速キッチンに向かって料理の準備を始めようとする香坂さんを制止しようと、その背中に向かって大きな声を出した。



「待って下さいっ!!」



 私の異様な雰囲気に香坂さんはゆっくりとこっちを振り返る。



「心配してくれるのは有り難いんですけど、正直、。突然こうやって家に来られるのは困ります」



 いつになくはっきりと言った。今の香坂さんにはもう、少しの曖昧さも混ぜちゃいけない。



「……迷惑だった…?……きみかちゃん、喜んでくれると思ったのに……」



 急激に落ち込む香坂さんを前に大きく静かに一度深呼吸をした。



「……ちゃんとはっきり言います。……誤解させちゃったかもしれないけど……私が好きな人は、すみれさんじゃないんです。好きな人は他にいて……話っていうのはそれを伝えたくて…」

「……どうゆうこと…?」

「……そんなつもりはなかったんですけど、結果的に誤解させるようなことして本当にごめんなさい。すみれさんのことはもちろん人として好きですけど、恋愛感情とかではなくて。そうゆう目で見たことは一度もないです」



 しっかりと伝わるようしっかりと目を見て言った。そんな私から目をそらさずに、その顔はみるみるうちに泣き出しそうな表情へと変わっていく。



「………どうしてそんなこと言うの?……私のことを抱きしめたくせに……」

「あの、それは…!」

「あの夜、すごく強く抱きしめられて、だから私……きみかちゃんは私のことを好きでいてくれてるんだって思ったのに…じゃああれはなんだったの?」

「……本当にすみません…。本当に最低ですけど……私にはそうゆう記憶なくて……。たぶん寝てるまま、無意識に抱きついちゃったんだと思います。あの時近くにいたのがすみれさんじゃなくても、誰だったとしても同じことしてたんだと思います」

「……じゃあ、このハートのピアスは?!どうしてこんなのくれたの!?」



 左耳のピアスに触れながら、訴えるように私を問いつめる。



「……それは、バイトしてるライブハウスの打ち上げのビンゴ大会で当たって…、自分ではそうゆうのつけないから誰かにあげようって思った時、知り合いの中で一番そうゆうのを着けそうだなって思ったのがすみれさんで…。ちょうどバレンタインのお返しとタイミングが重なってたのもあったから……。……本当に、色々とごめんなさい……」



 そこまで言うと香坂さんはうつ向いて何も言わなくなった。こうなると、どう終わればいいのか分からず、私も黙り込んでしまった。



 しばらく沈黙が続き、壁掛け時計の秒針の音がまるで音量を上げたかのように、やけに大きく耳に響いた。



「………私、一人でずっと勘違いして舞い上がってたんだ……きみかちゃんはきっとそんな私に困ってたのに……みっともなくて恥ずかしいよね……ほんとバカみたい……」



 ようやく顔を上げた香坂さんは溢れそうな涙を目に留めて、自分を嘲笑うように小さく笑った。



「…そんなことないです!誤解させたのは私だから!すみれさんは何も悪くないし、みっともなくもないし、そうゆう風に思っても仕方ない状況にさせた私が全部悪いんです!」

「………本当にそう思ってる?」

「……はい。本当に心から申し訳ないと思ってます……私のせいで…傷つけて……」

「………そうだよね。綺麗だ綺麗だなんておだててきて、たかがバレンタインのお返しにこんな高そうなハートのピアスくれて、挙げ句に好きな人がいるって言いながら抱きしめられたら、誰だって勘違いするよね?」

「…………」



 本当に何も返す言葉がなくて、間違いを一つも言っていない香坂さんから逃げるように視線を外した。



「結局、私って誰にも愛されない人間なんだ……。……だからあの人も、まどかも、みんな私から離れてって………」



 香坂さんは顔を覆ってついに完全に泣き出してしまった。




「…もう消えたい………」



 願望のように漏らしたその言葉を聞いて、自分のしてしまったことの罪の深さが重くのしかかる。



「そんなこと言わないで下さい…!離婚して落ち込んでる状況でそんなこと言っても皮肉にとられるだけだと思ってずっと言わなかったけど、初めてすみれさんと一緒に色々過ごして、改めてすごく素敵な人なんだなと思っいました!…だから、今はすごく辛いだろうけど、きっとこの人は幸せになれる…って、そうゆう人と出会える人だって本気で思ってました!」

「……そんな慰めなんていいよ。そんなこと言われても苦しいだけ…。どうせきみかちゃんだって私を必要としてなかったんだから…」

「………ごめんなさい…」



 もうそれしか言えなかった。



「…そんなに謝らなくてもいいよ、きみかちゃんだって悪気があったわけじゃないんだし。……でも、本当にきみかちゃんが悪いことしたって思ってくれてるなら、一つだけお願い聞いてくれる……?」

「………………なんですか…?」

「私のこと、今ここで抱いてほしい……」

「えっ……」

「今、すごく辛いの……。自分が本当にこの世界で誰にも必要とされてない、いらない人間みたいに思えて……。だから、嘘でもいいから、体だけでも必要としてほしい……」



 そう言って香坂さんはエプロンを外すと、涙を浮かべたままの目で、私をじっと見つめながらゆっくりと近づいてきた。



「ちょっ、ちょっと待って下さい!」

「……罪滅ぼしもしてくれないの?きみかちゃんが悪いのに…?」

「……それは、本当に申し訳ないと思ってます……本当にすみませんでした……」 



 目の前まで迫ってきた香坂さんを前に私は微動だにせずただただ謝った。



「……もう恥かかせないで…?」



 香坂さんはそんな私を憎むような目つきで、上質な白いシャツのボタンをゆっくりと外し始めた。



「こっ、香坂さんっ!」

「………ひどいな……すみれさんでしょ?」

「あ……あの…すみれさん、その……何してるんですか?」

「…そうゆう気になってくれないかなって……。きみかちゃん、私のこと綺麗だって何度も言ってくれてたよね?もしかしてあれも嘘だったの?」

「…それは……嘘じゃ…ないですけど……」



 上から3番目のボタンが外れ、薄いピンクのレースと白い谷間が見えた。私の一瞬の反応を見逃さず、香坂さんはもっとよく見えるように指でシャツを開くと、物欲しげな顔をして、すでに近すぎる距離をまた数cm縮めた。



「これでもだめ?何も感じてくれない?やっぱり私なんかじゃそうゆう気になれないの…?」

「……そうゆうことじゃなくて……ほんとに、こんなことやめましょう…」



 私はあらわになった肌と胸元を隠そうと、香坂さんの開いたシャツを勝手に閉じた。すると、目線を下げたその時、するりと首に両手を回された。



「ねぇ、お願い……。…きみかちゃん好きな人いるんだよね…?その人とはこうゆうことしたいって思ってるんでしょ?……私はその代わりでもいいから…きみかちゃんの好きなように何してもいいから…」



 そう耳もとで囁かれた時、奈央の笑顔が浮かび、私は香坂さんの両肩を掴んで力づくでその体を引き離した。



「ごめんなさいっ!!」



 強く押されて弾みで後ろに下がった香坂さんは足元にあったスーパーの袋を踏んだ。一瞬でツルッと滑り、受け身を取る間もなくそのまま後ろに倒れていく。



「危ないっ!!」



 私はとっさに香坂さんの後頭部に左手を回し、右手で体を抱き込むような姿勢をとった



 ダンッ!!

 


 まるでプロレスのリングの上のように、キッチンの床へ体を打ちつけて二人で倒れ込んだ。



 香坂さんの頭をかばった左手に激痛が走る。



「っ……だ、大丈夫ですか?!」



 覆いかぶさった体勢のまま、あまりの痛さに顔を歪めながら聞いた。



「どうしてかばうの?」

「頭打ったら…大変だから……」



 無事な右手を香坂さんの顔の横について、その力だけで起き上がろうとする。



「…左手……怪我したの?」

「……大丈夫です」

「嘘。すごく痛そうな顔してる……」

「今はぶつけた直後だから……でも別に大したことないです…」

「……私のことなんかどうでもいいくせに、そうやっていつも優しくするきみかちゃんがいけないんだよ……」



 香坂さんはそう言って私の両頬にそっと両手を添えると、片手だけで不安定な私のバランスを簡単に崩した。



 その直後、唇に小さくやわらかい感触を感じた……



 同時に、玄関の方から鍵穴に鍵をさす音がかすかに聞こえてきた。





 ガチャ……




「えっ…ええーーー!!!!?」



 

 大きな声に反応して振り向く。するとそこには、目と口を大きく開いたあんなさんと、その後ろに無表情の奈央が立っていた……



 慌てて香坂さんから離れたその時、奈央と目が合った。



「あの、これは…」



 話し出す私から目をそらした奈央は、シャツのはだけたままの香坂さんを見ると、表情を変えず、声も出さずに静かに出ていった。



「奈央っ!!!」



 立ち止まってくれることはないと分かりながら叫んだ。

 香坂さんは焦りながらシャツを引っ張るようにして体を隠し、固まっていたあんなさんはゆっくりと後退あとずさりをした。



「とりあえず閉めるわ!」




 バタンッ……




「…奈央………」



 

 私は誰もいなくなった扉の先をずっと見つめ続けていた。



「……きみかちゃんの好きな人って……なおちゃんなの……?」



 私の背中に向かって香坂さんが尋ねる。



「………近すぎて…失うのが怖くて……ずっと好きだって言えなくて……でも、やっと伝えようって……思ってたんです……でも、もう……」



 誤解だと説明すれば、また分かってくれるかもしれない…。だけどきっとこれはもう取り返しのつかないことなような気がした。




「………私………ごめんなさい……こんなこと……」




 壊れたように玄関の扉の前から動かない私に、香坂さんは涙声で謝る。



「……私が悪いんです。全部自分のせいでこうなったんだから…」

「違うよ…!私がおかしくなって、きみかちゃんの優しさを歪んでとらえたから……きみかちゃんはただ純粋に哀れな私に優しくしてくれてただけだったのに……」



 床の上で崩れたまま我に返って自分を見つめ返す香坂さんの方へ、ようやく振り返る。



「違うんです。すみれさんのことほっとけなかったのも、笑顔になってもらいたかったのも、全部自分の為だったんです。……私に、人を想う優しさなんかないんです…」

「…………きみかちゃん……」




 それだけ言ってまた私は玄関に向き直った。



 この扉から奈央が現れることはもう二度とないかもしれない…。



 そんなことを考えながら、二日前にこの部屋で二人で過ごしたあの幸せな時を思い出していた。



















 



 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る