倉田 奈央
第51話 大丈夫だから
尾関先輩と言い合ってしまった次の日、バイトは休みだった。
顔を合わせないで済むことにほっとする気持ちと、なんとなく決まりが悪いままでまたしばらく会えないことに落ち着かない気持ちを抱えながら、昼過ぎに近所の喫茶店へ出かけた。
読書をして2時間ほど過ごした夕方の帰り道、店長から電話があった。何をしてるか聞かれ喫茶店から家に帰るところだと伝えると、時間があるならちょっとだけ店に寄ってくれないかと言われた。
商店街を店へと向かって歩いていると、かなり遠くからでも目立つ髪の色の人が、その風貌に似つかわしくないほうきとチリトリを持って歩道を掃除しているのが見えた。
「店長ー!」
「おー!来てくれたー?ごめんね!休みなのに」
「いえ、特に何もしてなかったですから。どしたんですか?」
「実はさ、今日尾関から風邪引いたって連絡きて、あいつ休みなんだけどさ…」
「えっ!先輩が風邪!?珍しいですね…てゆうか、休んだとこ一回も見たことないかも…」
「3年に1回くらいかな?あいつが休むの。いつもバカみたいに丈夫だけど、そのくらい周期でツケが回ってきて、ドカッて体調崩すんだよね。今回は夜勤でだいぶ無理させたから、それがきたみたい」
「そうなんだ…全然知らなかったです…」
「前回の時は倉田ちゃんも休みの日だったのかもね。それでさ、これ持ってってやろうと思ってたんだけど、面接入ってたの忘れてて行けなくなっちゃってさ」
店長は店の敷地に畳まれた空の納品ケースの上から、しっかりとした作りの保冷バッグを取るとそれをそのまま私に差し出した。
「なんですか?コレ」
私はあまり考えもせず流れるようにそれを受け取った。
「あいつのお見舞い。めちゃくちゃ弱ってるから元気出る食べもの買ってやったの」
「うわっ!店長が先輩に優しい!」
「なによ?私はいつだってあいつに優しいでしょ」
「いや、先輩からしたら店長はほぼジャイアンですよ」
「でもジャイアンも根っこはいいヤツだから」
「たしかに…」
「で、倉田ちゃんにお願いなんだけどさ、これ尾関に渡してくんないかな?」
「渡すって……」
「尾関んち行ってさ…」
「えー!?ダメダメダメ!!ダメですよ絶対!私が家なんか行ったら絶対拒絶されますって!」
「そんなことないって!むしろ私が行くより喜ぶから!倉田ちゃんの顔見たら一気に元気になるよ」
「…それはないですよ……それなら香坂さんに頼んだ方が……」
「あ。だめ、それは。逆にもっと寝込むこんじゃう」
「…なんで?」
「とにかく!玄関先でパッと渡すだけでいいからさ!せっかく買ったのに持ってかないと悪くなっちゃうし、他に頼める人いないんだよ!緊張事態だからお願い!!」
「……はぁー……分かりましたよ…」
「ありがとー!助かるよ!」
「……はい」
私が渋々承諾すると、店長はそうなることを見越していたようにポケットの中からメモをサッと取り出して私に渡した。そこには、先輩の家への行き方の地図が簡略的に書いてあった。
「じゃあ尾関には私から連絡しとくから!よろしくね〜!」
ほうきを片手に大きく手を振って見送るご機嫌な店長を背に、私は地図の通りに歩き出した。
昨日はほとんどケンカみたいな状態のまま帰っちゃったし、今も正直色々ともやもやしたままだし、先輩とどう接したらいいのか分からなかった。
店長から言われたように、玄関先で
こんな近かったんだ……
わざわざ自転車で出勤するほどの距離じゃない。先輩は出勤時間をなるべく短縮出来るように、
4年近くも一緒に働いてて、初めて先輩の住むアパートを見た。思っていたよりも古い建物だけど、どこの部屋も扉だけは違和感満載に新しかった。メモに書かれた部屋番号のプレートを探そうと目の前の扉から見ると、そこがもう先輩の部屋だった。
今この中に先輩がいるんだと思うと、なんだかんだで緊張の波が押し寄せてきた。私は悔しい気持ちになりながらも、バッグから鏡を取り出して前髪を直し、軽くメイク直しまでしてからインターホンを押した。
しばらくすると、静かな部屋の奥からこっちに向かって足音が聞こえてきた。
「あんなさーん?」
え?私が疑問を抱いたと同時にガチャッと扉が開き、上下グレーのスウェット姿の先輩が、イワトビペンギンのような寝グセのまま出てきた。
「えっ!?なんで奈央!?」
そう言いながら焦った様子の先輩は、手ぐしなんかじゃ何一つ変わるわけがないその強力な寝グセを必死に直そうとしている。
目はトロンとして、ほっぺは赤く、なるほど確かにこれはあきらかに具合が悪そうだとひと目で分かった。大変な状態なのに不謹慎にも初めて見るその姿が無性に可愛いくて、こっちまで頬が赤くなりそうだった。
「店長から連絡きてないですか?」
「きたけど……今から行くって…」
「……ジャイアンめ…」
「え?」
「店長から頼まれて来たんです。面接で来れなくなったから、代わりに渡してきてって…。これ、店長からのお見舞いです」
「あ……ありがと」
手さげの保冷バッグを手渡す時、かすかに指が触れて思わず目が合った。
「……じゃあ、お大事に…」
私は動揺を隠して、予定通りのスムーズさで帰ろうとした。すると、
「待って!……少し上がってけば?」
突然の意外な先輩の言葉に、胸がぎゅっとなる。昨日あれだけ言い合いして、そもそも信用もなくなった人にまだしつこくそうなる自分が情けなくなってくる。
「…でもほんと具合悪そうだし、部屋に入られるのとか苦手だろうし、私なんかに気使わなくていいですよ」
自分でも可愛げがないなと自覚する言い方をしてしまった。
「……もし奈央が嫌じゃないなら……私は上がってってほしいんだけど…。来てくれて嬉しいし…」
熱のせいか、先輩は素直すぎた。そんなに素直に言われたらなんて言ったらいいのか困ってしまう。
「……あ、てゆうか、風邪うつったら大変だよね!ごめん、勝手なこと言って…」
「あっ……あの、やっぱり…少しだけお邪魔してもいいですか?せっかくだから…」
私は完敗して自分も素直になった。先輩はぱぁっと明るい顔を見せた後、すぐにしゃがんで私のために玄関の靴を端に寄せた。
「お邪魔します……」
靴を脱ぎ上がらせてもらうと、すぐそこはキッチンのあるちょっとしたスペースになっていた。
「イス、これしかなくて…ここ座って」
「ありがとうございます…」
先輩は私にイスを差し出し、そのままそこから続いている奥の部屋へと入っていった。元は和室なのか、
その部屋には机やギター、備えつけではないクローゼット、たんすなど、先輩の持ち物は全てこの一室にまとまってるくらいに物だらけの部屋だった。
キッチンスペースからつながる部屋は右側にもう一つあって、そっちは引き戸が1枚の入口になっていた。その引き戸も開いたまま丸見えで、そこには向こうの部屋とは正反対に、右の壁に寄せたベッドが一つ置かれているだけで他には何もなかった。
「今どきオール和室なんだよね、ここ」
戻ってきた先輩が、興味津々な私に気づいて補足する。マスク姿を見てマスクを探してたんだと分かった。
「そうなんですね、でもあんまり分かんない感じですね…」
さりげない振りを演じていたことが逆に恥ずかしくなった。
「一応綺麗にリフォームはしてくれてんだよね、でも和室はそのままかよ!って感じだけど」
二人だけの空間で、しかも先輩の家の中で、私は座ってるだけでも息がしづらいくらいなのに、先輩はいつもと全く変わらないどころか、自分の家だからかいつもよりリラックスしてるように見えた。
「そうだ、お茶!……こんなんしかなくてごめん」
そう言って冷蔵庫から出したペットボトルのお茶を出してくれた先輩は、会話の調子とは違ってふらふらと力ない動きをしていた。
「大丈夫ですか?気使わなくていいですから、寝てて下さい。病人なんだから…」
「うん…ありがと。体調もそうなんだけど、昨日バイトから帰ってからなんも食べてなくて普通にお腹空きすぎちゃって……」
「えっ!?なんでですか!?食欲なくて食べれないんですか!?」
「食欲はめちゃくちゃある……でも、食べるものが家になくてさ……あんなさんが買ってきてくれるってさっき言ってたんだけど…」
「あっ!さっきの保冷バッグ!元気が出る食べものって買って来たって言ってましたよ!これ、早く食べましょう!いいですか?開けちゃって」
「うん……」
カッチリと留められたプラスチックのボタンを外して急いで中を見ると、そこには高級ステーキとステーキソースが瓶ごと入っていた。
「………病人にステーキって…」
「ステーキ!?食べたい!!」
「うそでしょ!?20時間くらい食べてない上にそんなに具合悪そうなのに、ステーキ食べれるんですか?!本当のいきなりステーキじゃないですか!」
「元気ない時って肉食べたくなんない?」
「なんない」
「そっか、私はなにがなんでも肉なんだよね……さすがあんなさん!分かってくれてるや」
嬉しそうに保冷バッグの中を覗き込む先輩を見て、なんとなく店長にイラっとした。
「…私でよかったら焼きましょうか…?」
「ほんとに!?」
「こんな高級なお肉焼いたことないから、私なんかが焼いていいのか恐れ多いですけど…」
「奈央が焼いてくれるステーキ食べたい!」
先輩はキラキラと目を輝かせて無邪気にねだるように言う。
……なに?この人?熱出てると素直になる体質なの…?ならいつもずっと微熱でいてくれればいいのに…かなり本気でそう思いながら、空腹で倒れそうな先輩のために早速動き出す。
「じゃあ、キッチンお借りしていいですか?」
「うん!引き出しとか自由に開けて何でも勝手に使って。って、ほとんど何も入ってないけど…」
「分かりました!じゃあ先輩は焼けるまでベッドで寝てて下さいね」
「寝てるなんて悪いじゃん、作ってくれてるのに」
「一応お見舞い中ですから、病人っぽくしてて下さい。無理されてると心配で気になっちゃうし、ステーキ焦げちゃいますよ?」
「……分かったー」
そう言うと先輩は言われた通りよたよたとベッドのある部屋へと入っていった。
やっぱり素直で聞き分けがいい。
アパートの築年数に反して、一度も使ってないのかと思うほどピカピカのガス台にフライパンを置き火をつけた。
ステーキを置き、一瞬手が空いたところで 振り返って、ベッドにいる先輩の様子を見た。すると、あのゾンビーナのぬいぐるみを抱いてこっちを見ている。
「なっ、なんで寝てないんですか!?」
「今から食べるのにマジ寝はしないでしょ……」
「……それ、ベッドに置いてるんですね、ゾンビーナ」
「あーうん。ぬいぐるみはやっぱりベッドの枕元が定位置だからね。人恋しい時は抱いて寝れるし」
「ぬいぐるみ抱いて寝るなんて、先輩も女の子ですねー」
「でもぬいぐるみって言ってもゾンビだけどね」
「そう言えばそうですね…」
色々思うことはあるくせに、視線の先で先輩に抱かれたゾンビーナを見てると、心底羨ましく感じた。
「もう出来ますよ!」
「やったー!ほんとお腹すいたぁ……」
先輩はまたさっきと同じふらついた足取りで戻ってくると、おもちゃのように心もとない作りのイスにドスッと体をまかせて座った。それを見届けてから、小さなテーブルの上にステーキを置いた。
「わー!最高だー!めちゃくちゃおいしそー!!」
「いいお肉、台無しにしてなきゃいいんですけど…」
「絶対おいしいって!ってか、イス一つしかないのに私が使っちゃってごめんね」
すぐ横に立つ私を見上げながら申し訳なさそうに謝る。
「そんなのいいですから!気にしないで早く食べて下さい!」
「……じゃあいただきます!」
「はい!」
「うわっ!!おいしー!!すごいおいしいよ、奈央のステーキ!!」
「良かった…。でも元がそもそもすごいいいお肉だし、味付けもステーキソースだから、私の手柄じゃないですけど…」
「それにしたって、奈央の焼き方が上手だからだよ!すごく絶妙だもん!本当においしいよ?ソースなくてもいいくらい!」
先輩がお世辞じゃなく本当においしいと言ってくれてるのが分かった。
少し弱った顔で目を細めて幸せそうにまた可愛く笑う。そんな姿をすぐ近くでずっと見てると、一緒に暮らしてるみたいな錯覚になって、私もすごく幸せに感じた。
でも次の瞬間、ふいに香坂さんのことが頭に浮かび、まやかしの幸せは一瞬で消えて代わりに胸がズキッと痛んだ。
「ごちそうさまぁー!あーおいしかったぁ……」
満足そうに子どもみたいな笑顔を向けてくる先輩と目が合うと、この顔をきっと香坂さんにも見せたんだと思い、突然胸が苦しくなって涙が出そうになった。
「……香坂さんの料理を食べた時も…そんな風に言ったんですか…?」
「え?」
「……バレンタインの日、香坂さんちに行ったんですよね?…私が誘っても少しの時間も会えないって断ったのって、香坂さんとの約束があったからだったんですね……」
こんなこと言うつもりじゃなかったのに、このところ押し込めてきた気持ちが滝のように溢れ出て、まるで責め立てるように次々と口からこぼれてしまった。
「ちょっと待って、それは誤解だって!」
「じゃあ家には行ってないんですか?!」
「それは…行ったけど……。元々約束してたわけじゃないよ!あの日偶然用事の帰り道で会って、ごはん食べに来ないかって誘われて……。初めは断ったんだけど、その日、娘さんの誕生日で一人なのにいっぱい料理作っちゃったって聞いて……それで少しだけ付き合うつもりでお邪魔しただけで…」
「……でも結局は泊まったんですよね…?香坂さんから聞きました…」
「それは!その日ちょっと疲れすぎてて、お酒飲んだらついいつのまにか寝ちゃって、起きたら朝になってたっていう流れなだけで…!」
「だけ?……香坂さんのこと抱きしめたのに?」
「え…?」
「香坂さん嬉しそうに話してましたよ?先輩に抱きしめられたって…」
「そ、それは……とにかく!すみ…香坂さんとは何も…」
「いいですよ!すみれさんで。2人が2人きりの時だけ下の名前で呼び合ってるのも、私知ってますから」
「………なんで知ってるの?」
「休憩室の外まで声が聞こえました」
「……でも、それも事情があって……」
「事情……誰にも秘密にしてただけで、本当の本当は香坂さんと付き合ってるんですか?」
「そうじゃないって!」
「心配しなくても大丈夫ですよ、誰にも言わないですから!私は妹も同然なんですから、そんな警戒して必死に隠さなくても」
「あー!もう!だから!!」
先輩は勢いよく立ち上がると私の方へ近づいてきた。3歩目の足を前に出した時、ガクッとよろめき、私はとっさに先輩の肩を掴んで支えた。
「大丈夫ですか!?」
すると、先輩は何も言わずにそのまま私を引き寄せて腕ごと体を強く抱きしめてきた。熱いくらいの体温と、下着をつけていないやわらかい胸の感触が、着ている厚手のトレーナー越しからでも伝わってきた。
「……奈央……お願いだから……話聞いて……」
顔は見えないけど、息苦しそうに話す声は涙混じりに聞こえた。
「……香坂さんのこと…下の名前で呼んでるのは、前の旦那さんの名字だから気使ってそうしてただけ……そしたら、自分だけじゃ恥ずかしいからって香坂さんも私のこと下の名前で呼ぶって言って……。それから、妹っていうのは……香坂さんに聞いたの?……確かにそう言ってごまかしたことあったかもしれないけど……私は奈央のこと、妹なんて思ったことなんか一度もないよ……妹なんかじゃない……」
すでに早くなりすぎている鼓動が限界を超えてまだ早くなる……
「……あと、その、抱きしめたって話だけど……嘘だって思うかもしれないけど……本当の話、私にはそんな記憶なくて……」
「…じゃあ香坂さんが嘘ついてるってことですか!?」
「……いや、香坂さんはそんな嘘つかないだろうし……そうゆうことはあったのかもしれない…。だけど、本当に私にはそんな記憶はなくて…」
「………」
「納得出来ないだろうし、信用出来ないと思う…。だけど、嘘なんかついてない。全部本当のことだから信じてほしい…。他の誰にどう思われてもいいけど、奈央にだけは誤解されたくない……」
先輩の言葉が熱い息と一緒に耳に届く…。私を抱きしめる先輩の腕が痛いくらいにもっときつくしまって、高鳴っていく心臓の音がどっちのものかもう分からなくなった。
「……だって……私が好きなのは……」
その時、縄で縛り上げられたような全身の感覚がふわっとほどけたと思ったら、先輩の身長が一瞬で10cmくらい縮んだ。
私は解放されたばかりの両腕を慌てて先輩の胴に回すと、体全体にずしっと、10秒と支えていられない重さを感じた。先輩はもう自分の力だけでは立っていられず、崩れ落ちる寸前だった。
私が焚きつけたせいで興奮して、体に負担をかけちゃったんだ…。先輩はこんなに具合が悪くて滅多に休まないバイトまで休んだのに、私はそんな先輩に対して何をしてるんだろう……
とくかく、このままのここで倒れられたら、とても私の力ではベッドに連れていけない。まだギリギリ先輩が立ってくれてるうちに移動しないと……
「先輩!少しだけ頑張って、ベッドまで行きましょう!」
「………ん……ごめん…」
かろうじてゆっくりと一歩づつ足を前に出す先輩に肩を貸しながら、ベッドのある部屋へ連れていき、なんとか無事にベッドに横たわらせた。
「先輩、ちょっとだけ体、寝返りうてますか?」
「……うん…」
また本人の協力を少しだけ得て、体の下になってしまったかけ布団と毛布を引っ張り抜いて、その体にかけた。意識はあるけどすごく苦しそうに顔を歪ませている。
「……あの、病院行った方がいいんじゃないですか……?」
「……大丈夫…」
「……でも…」
「……ごめん、ほんと大丈夫だから……」
息をするだけでも辛そうな姿を見ていると、罪悪感と言葉に出来ない感情で自然と涙が出てきてしまった。
「……ごめんなさい、……先輩具合悪いのに……私……」
すると、ベッドの側に立ち尽くす私の太ももあたりに、力なく伸ばした先輩の指先が軽く当たった。その動きで近くに呼んでると察し、枕元に座る。目を閉じた顔をじっと見てると、しばらくしてゆっくりと先輩は目を開けた。
「……そんな心配しないで大丈夫だよ…。何年かに一回風邪引く時はいつもこんな感じなの。でもしばらく寝てるとすぐ直るから……」
「……先輩……」
「……たぶん30分もしたらさっき奈央が焼いてくれたステーキが効いてくるよ…」
「……そんな、エスタックイブじゃないんだから…」
「イブより効くよ」
だらしなく投げ出されたままの右手を戻そうと、そっと手首を掴む。手首までが熱い。かなり熱が上がっているようだ。そのままかけ布団の中にしまおうとしたその時、突然先輩の手に力が戻って、掴んでいた私の手を握った。
「ちょっとだけ……手つないでてもいい?」
「…えっ……」
「…やだ?」
「……いやなんかじゃないです…」
先輩と手をつなぐなんて初めてだった。ただ手をつないだだけなのに、今まで誰からも感じたことのない安心感を感じた。
「奈央……体がちゃんと戻ったら、話したいことがあるの…。大事なことだから、こんな状態じゃなくてちゃんと話したいから……治ったら聞いてくれる?」
「……はい。……私も先輩に話したいこと、あります……。ずっと言いたくて言えなかったこと……聞いてもらえますか…?」
「……うん」
嫉妬に狂って自分の辛さばっかりぶつけていたけど、思い返せば不条理すぎる。
私にはまず先輩に話さなきゃいけないことがある。正直に話して、ちゃんと謝らないといけないことが……
つないだ手から、お互いの気持ちが伝わりあってるような不思議な感覚を感じた。
まだはっきりと言葉で交わしてはいないのに、あんなにどこにあるのか分からなかった先輩の気持ちが、今はここにあると強く感じられた。
何年もずっとずっと夢見てた状況が今こうして目の前にある。もしも望んだことが叶うことがあった時、きっと私は泣きながら先輩に抱きついたりするんだろうと想像していた。だけど、現実は全く違った。
ただ静かに、その時間を大切に大切に感じて、少しだけ触れている体温に心が満たされて、ただただ好きと心で想うだけだった。
先輩は黙ったままじっと私を見つめていた。少し潤んだその瞳を見てまた突然不安に襲われた。
真実を話したら、先輩はその
失う怖さでつないだ手が震えた。それが伝わってしまわないように手を離そうとする。指が完全に離れそうになった時、逃げようとする私の手を先輩の手がまた捕まえた。
「もう帰っちゃうの…?」
「私がいたら、先輩ゆっくり眠れないだろうしそろそろ…」
「……もしかして、これから明ちゃんに会いに行くの?」
「え?……そうゆうわけじゃ……」
「なら、もう少し側にいてほしい」
「……私、側にいてもいいんですか…?」
「どうしたの?」
「…………」
恐くて仕方なくて、黙って泣くしか出来ない。
「大丈夫だよ、奈央」
合わせられずにそらしていた目線を戻すと、大きく胸を上下させながら呼吸する先輩が、その熱い両手で私の冷えた手を包んで温めてくれた。
「心配なんか何もしなくていいから。私は側にいるから、私の側にいて」
「先輩……」
その時、角砂糖が熱いコーヒーに溶けてゆくように、胸の中いっぱいになっていた不安がじんわりと消えてゆくのを感じた。
きっと大丈夫…。
もう温かさしか感じない。
きっと私たちはこうやってこのまま手をつないでいられる……。
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