倉田 奈央

第19話 どうして




 尾関先輩から彼女が出来たと言われてから約一ヶ月が経った。

 今まではどんなに冷たくされても辛くても、毎日会いたいと思っていたのに、私はあれから先輩を避け続けていた。



 バイトのシフトがかぶるのはどうしようもなかったけど、上がった後、無邪気にファミレスに誘ってくる先輩には「学校の課題が忙しい」と言って断り、極力二人になることから逃げていた。


 

 きっとそんな状況になれば、先輩は話したくてしょうがない新しい彼女の話を私にしてくる。そうなったら、私は絶対に平常心を保っていられなくなる。



 仕事中、体に力が入らなくてドリンクの補充に手間取ってしまった。もう上がりの時間まであと5分なのに、このペースじゃ10分はかかりそうだ。でも急ぐ気力もない。



「手伝うよ」 



 気配もなく尾関先輩が突然隣に並んでしゃがみこみ、勝手に手伝いを始めた。



「もう少しだからいいですよ」

「このままじゃ時間までに終わんないでしょ、二人でやればぴったり終わるじゃん」



 今までだったらこんな優しさに、その夜は満たされるように眠っていた。でも今はこの優しさがトゲみたいに痛い。



 助けてもらってるのに愛想もなくダラダラと補充をする私の倍の速さで、先輩はスイスイと動き、あっという間に補充するドリンクのダンボールは空になった。



「よし終わった!倉田、上がろ!」



 休憩室に入ると他には誰もいなくて息がつまりそうになった。手伝ってもらったくせに早々に先に帰るわけにもいかず、なんとなくたわいのない話をしながらまた課題を理由にふらっと去ろうと考えた。



「こないだまですごい暑かったのに、もうだいぶ落ち着いてきましたね」

「ほんと、このままじゃ突然秋だよね!倉田ももうすぐ夏休み終わりでしょ?」



 ちょうどよくいい流れになった。



「はい。でもまだ課題終わってなくて今日もこれから頑張んなきゃなー」

「学生は大変だなー」

「……そうなんですよねー、じゃあ申し訳ないんですけど、お先に失礼します。手伝ってもらったのにすみません…」

「ううん、全然いいよ。課題がんばれー!」



 先輩は応援の言葉を口にしながら、私の大好きなあの笑顔で手を振った。それに勝手に体が反応して、胸が潰れそうになる。私は耐えられなくなる前に、目を合わせないようにして休憩室から飛び出した。



 もう少し一緒にいたら危なかった……そう思いながら長い帰り道をしばらくトボトボ歩いていると、



「倉田ー!」



 後ろから尾関先輩の声がした。



「一緒に帰ろ!私、今日こっちなんだったわ」



 最悪の状況になった。きっと先輩はこの後彼女と約束してるんだ。バイト終わりのこんな時間から会うなんて彼女以外に考えられないと思った。でも「今日こっち」と言われてそれに対して何も触れないのも不自然なので、私は仕方なく聞いた。



「なにか約束ですか?」

「うん。彼女とね」



 100%予想していたことだったのに、それでも傷ついた。



「ほんとすごいですよね、尾関先輩って。コンビニの店員がお客さんから告白されるなんて聞いたことないですよ、どうやってそうなったんですか?」



 本当はずっと気になってた。知りたくないと思いながら知りたかった。彼女の正体が店によく来ていたあの缶チューハイの人だと聞いた時、私が見ていた限りただの店員と客だった二人が、突然どうしてそんな関係になったのか、あの人がどうやって私の目の前から尾関先輩を盗んでいったのか、本当はずっと知りたかった。



 傷つくのが恐くて耳に入らないようにしてたけど、今がもうピークに苦しくなって、その勢いでついに私は堂々と聞いた。



 すると、尾関先輩は待ってましたと言わんばかりに彼女との馴れ初めを話し始めた。



 その時の時間とか気温とか、こういう風に言ったら相手はこう返してきて、その時の表情がこうだったとか、必要以上に細かく説明されて、私はそのシーンをまるで目の前で見ているかのような錯覚を覚えた。



「……それで、それから三週間後くらいかな、店を出たら外に菜々未さんがいてさ…」



 先輩は話の途中から「彼女」ではなく、「菜々未さん」と当たり前のように名前で呼ぶようになっていた。「彼女」と言われていた時にどこかもやもやとした幻想に思えていた存在が、「菜々未さん」という固有名詞を聞いた途端、しっかりと型どられた現実に感じた。



「……倉田?」



 淡々と話を聞いてやり過ごそうと思っていたのに、頭が朦朧として息苦しくなってきた。心の中が痛い。ギリギリ保っていた優しさとか思いやりとかのパーツにナイフを突き刺されてるみたいだ…。先輩に対して、残った憎しみの感情だけが滲み出てきた。

 


 出会ったばっかりの人を名前で呼ぶくせに、どうして私のことは今も「奈央」って呼んでくれないの…?



 どうしてずっと側にいた私はだめで、突然現れたその人は簡単に彼女にするの…?



 私の方がずっと前から近くにいるのに、ずっと前から好きなのに、そんな私を追い抜いて、今はもうその人の方が私よりも大切な人なの…? 



 どうして…?どうして…?どうして…?



「どうしたの?」

「……せっかく話してくれてるのに上の空でごめんなさい…。実は今日、彼氏とちょっとあって、それで…」

「ケンカでもしたの?」

「最近うまくいってなくて…もう本当の本当にダメかもしれなくて……」

「え!?だってついこないだはずっと一緒にいると思うって言ってたじゃん!」

「私だって分かんないです!突然こんなことになるなんて、思ってもなかった……」

「……ごめん。私、無神経に彼女の話ばっかりして…」

「先輩は何も悪くないです…。私から聞いたんだし…」



 本当に先輩は何も悪くない。先輩は初めから言ってた。若い子には興味がないし、歳上の人が好きだって。だから応えられないってはっきり言われてた。言ってた通りの状況が今現実になってるだけだ。



 いつかはこうなること分かっていたはずなのに、それでも嘘をつき続けて、それでも側にいようとしたのは自分だ。私を苦しめてるのは私なんだ。



「そんなに辛いんなら別れれば…?」

「そうしたいけど、出来ないんです」 「…まさか、あんな真面目そうな顔してヤバい奴なの?」

「そうじゃなくて…好きだから。好きで好きで好きで、どうしようもないくらい好きなんです…」



 私は受け入れてもらえるわけもないのに、まっすぐに尾関先輩の目を見つめて言った。



「…だから、どんなに辛くても別れられないんです…。別れないでさえいれば、きっと少なくとも側にはいられるから…」



 尾関先輩は私を憐れむような目で見ていた。私はそんな先輩の目を見ていられなくなって顔をそむけた。



 すると突然、尾関先輩は私の体を引き寄せ、その両腕で上半身全てを包みこんだ…。きつくもなくゆるくもなくぎゅっと抱きしめられて、私の中の時が完全に止まった…



「奈央……」



 耳元でそう呼ばれた瞬間、抑えきれなくなった想いが涙になった。私は先輩の胸で声を出して泣いた。そんな私を慰めるように、背中に回していた手で先輩は何度も何度も頭をなでてくれた。



 “彼氏”のことだと、先輩はこんなに優しくしてくれる。

 だから私は“彼氏”と別れられないんだ…。

 きっと先輩を好きでいる限り、一生…





ブルルルル……ブルルルルル……



 その時、くっついていた二人の体を振動で邪魔するように、先輩のスマホのバイブが鳴った。



「あっ、電話だ……ごめん、ちょっと出るね…」



 私を包んでいた腕をぱっとほどいて、先輩は電話に出た。私に背を向けて小さい声で話していたけど、相手が彼女だってことはすぐに分かった。



「……うん、ちょっと遅れるけど必ず行くから」



 行かないで……彼女のところになんか行かないで……このままずっと側にいて……私の物にならないなら、他の誰のものにもならないで……



 そんなこと言えるわけがない。

 もし言えたとしてもそれは叶わない。



「約束があるのに付き合わせてごめんなさい…。あんまり遅くなると、彼女さんに怒られちゃいますよね」



 先輩から言われるのが嫌で、電話を切ったところを見計らって私はすぐに自分から言った。



「菜々未さんは大人だし、理解あるから平気だよ」



 そうだ、だから先輩は歳上の女の人が好きなんだ。こんなふうに見境なく突然泣き出したりするから、子どもが嫌いなんだ…。



「もう大丈夫ですから、行って下さい」

「ほんとに?大丈夫?」

「……はい」



 先輩は心配そうにしながらも、私がそう言うと納得して、彼女の元へと歩き出した。




 告白して拒絶されて冷たくされ続けていたあの時、好きな人にそんなふうにされて、こんなに辛いことなんて他にないって思ってた。



 でもあの時の私はなんにも分かっていなかった。



 誰のものでもない先輩に冷たくされることは、誰かのものになった先輩に優しくされるより、何万倍もましだった。今ようやく分かった。



 あと半年ちょっとで次の誕生日が来たら、やっと10代じゃなくなる。20歳になったら、そしたら、もしかしたら尾関先輩の中で何かが変わってくれるかもしれない…。どこかでそう密かに期待していたのに…





 それなのに、その前に彼女が出来るなんて…





 これが、尾関先輩と私の運命なのかなと思った。きっとどうやっても、絶対に結ばれることのない運命……。








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