守ってきたもの

 翌日の昼間、江真えまは港にいた。係船柱に腰を下ろし、彼女はぼんやりと水平線を眺めている。そんな彼女の側を、一組の親子が通りかかる。

「ママ、あの人、江真じゃない?」

「しっ、見てはいけません」

 今や、江真は悪い意味で有名人だ。彼女は唇を噛みしめ、握り拳を震わせた。そんな彼女に、あの男が声をかける。

「お前のせいで、たくさんの死人が出た」

――真嶋泰守まじまやすもりだ。すでに日本中から非難を浴びている江真には、心の余裕がない。泰守の言葉は、まさしく追い打ちに等しいだろう。彼女の中で、数多の感情と記憶が渦巻いていく。

「私が玲玖れくの駒を倒していた時、君は苦言を呈した。今度は、伴造はんぞうの駒と戦わないことを責めるつもりか?」

 そんな問いを投げかけた江真は、濁った眼をしていた。一方で、泰守は決して容赦する素振りを見せはしない。

「最初から傍観者であれば責任など伴わなかっただろうなぁ。だが、江真……お前はもう正しさを選べる立場にいない」

「なっ……!」

「犠牲を伴うことを仕方がないと吐き捨てるようになれば、それは単なるモンスターだ。だがな、お前は十字架を背負いながらも、戦う運命にある。何にせよ、悪にしか成し得ないことだってあるんだ。自らの手を汚せない臆病な正義の味方には、何も守れやしないのさ」

 確かに、江真はもう手段を択んでいる場合ではないだろう。彼女が戦わなければ、より多くの死人が出る。和治かずはるの計画は、残酷なほどに実っていた。

「そうやって私を惑わせて、君は一体、何がしたいんだ! 私が玲玖の差し金と戦っていた時、君は彼らもまた被害者だと言っていたのに!」

 江真がそう訴えたのも無理はない。彼女がどんな行動を取ろうと、泰守はそれを非難し続けてきた。彼女からすれば、それほどまでに理不尽な話はないだろう。されど泰守が彼女の心を揺さぶってきたことも、決して無意味ではない。

「いずれ、お前は自ずと連中が玲玖の傀儡であることに気づいていただろう。だからこそ、早い段階で覚悟を決めてもらおうと思ったんだ。大義のために道を踏み外す――そのための覚悟を」

 そう――このジレンマは、いずれ江真が自ずと直面する問題なのだ。それが本当に本人の意図なのかは定かではないにせよ、泰守は確かに江真を導いてきたと言えるだろう。

「私は……一体、どうすれば……」

 そう零した江真は、完全に自信を喪失していた。世論に叩きのめされている今、彼女は己の正義に自信を持てない。否、持てるはずなどないのだ。そんな江真の問いに、泰守は残酷な答えをぶつける。

「お前が玲玖や伴造を殺してくれれば、俺としては仕事が減るが……こればかりはお前自身が決めることだ。だがお前の目指す道が俺にとっての障壁になった暁には、俺はお前を殺すつもりだ」

「どのみち、私を殺すつもりでいるくせに……」

「ああ。ネオの力は、人間には過ぎたものだ。だから俺はネオを滅ぼす。その是非はもはや問題じゃない。力を振りかざす者が現れれば、否が応でも戦うしかないんだ。それが何かを守るということだ」

 迷うばかりの彼女とは対照的に、彼に迷いはない。残された意志を振り絞り、江真は必死に反発する。

「暴力からは……何も生まれない!」

「果たして本当にそうかな? ネオが現れるまで、我々は守られて生きてきたはずだ。そして我々を守ってきたものは、決して清廉潔白な正義の味方などではない」

「なんだと!」

 彼女がいくら反論しても、泰守の考えは変わらない。

「俺たちは、強者に利用される者たちが経済を回してきたことで守られてきた。核保有国と同盟を結ぶことで守られてきた。大勢の被験者が礎となった医療に守られてきた。いずれも健全とは言い難いだろうが、確かに俺たちを守ってきたんだ」

 そう語った彼は、どことなく冷笑的だった。

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