傲慢
命からがら逃げた先で、
「現状、平和解決は難しそうだね」
「ああ、私もそう思う」
「
確かに、あの二人は江真にとっての邪魔者だ。正義を遂行することはおろか、このままでは平穏な生活を送ることさえままならないだろう。それでも江真は、殺生を拒む。
「殺さない。私は、誰の命も奪わない」
「その言葉も、いずれは撤回することになるだろうね。己の明日を勝ち取るために、何かを奪う――それは全ての生命に与えられた宿命だ。特に、君はネオになったんだ。生き残るための力を持つ者は、否が応でもその力を行使してしまうものだよ」
「だが、私は人間だ。私には、己の本能を律する理性がある!」
この期に及んで、彼女は己を信じていた。ジャドは肩をすくめ、彼女に忠告する。
「高尚な理念を持つのは結構なことだね。だけど第一に、君は生命だ。生に縋る欲動――すなわちリビドーは、君の自我の主導権を握っている。その本能さえも否定するのであれば、君はいずれ後悔することになるだろう」
泰守、
「私はリビドーの奴隷なんかじゃない。心理学はあくまでも統計だ……一般化できる概念じゃない」
「確かに、心理学で語られるのは普遍的な法則ではないね。しかし生きようとする仕組みは、生命の根源とも言えるだろう。まさか君は、自分が有象無象の例外に属していると思ってはいないだろうねぇ? それは傲慢だよ」
「傲慢……か。ああ、否定はしない。君と契約を結んだ時、私は思ったんだ。私が力を手にすれば、何かが変わると。私は傲慢で、未熟だったよ。それでも……」
何かを言いかけた江真は、数瞬ほど言葉に詰まった。
「それでも、何?」
そう訊ねたジャドは、好奇心に満ちた表情をしていた。江真は一度深呼吸を挟み、それから言葉を紡ぐ。
「それでも私は、諦めない。いや、諦められないんだ。私にはもう、後戻りが出来ない。そうだろう?」
確かに、普通の生活を取り戻すには、彼女はあまりにも裏社会に関与しすぎた身だ。そんな彼女を笑い、ジャドは言う。
「フフッ……面白いことになりそうだね」
人々に力を与える以外、彼は基本的に傍観者だ。
同じ頃、玲玖と和治は自分たちの事務所にいた。玲玖は相変わらず煙草を吸いながら、エグゼクティブデスクに足を乗せて座っている。その隣に立つ和治は、品行方正な雰囲気を保っている。
「……ずいぶんと酷い怪我をなされましたね」
彼が自分のボスを心配するのも当然だ。先程、泰守と戦ったことで、玲玖は全身に傷を負っている。あの場で撤退していなければ、彼女は命を落としていたことだろう。それは決して、穏やかなことではない。あの死闘について、玲玖は簡潔に説明する。
「とんでもねぇネオがいたんだ。そいつはアタシだけでなく、江真のことも殺すつもりだった。ありゃあ、誰の味方でもねぇだろうな」
重傷を負った後ですら、彼女は平然としている。その風格は、まさしく支配者のものであった。
その時、何者かが入り口の扉を叩いた。
玲玖は扉の方に目を遣り、一言で返答する。
「入りな」
扉はすぐに開かれ、一人の訪問者が姿を現した。その人物は、以前彼女に封筒を渡していた――あの老人であった。
「R……少しばかり、ビジネスの話をしないか?」
そんな提案を持ち掛けてきた老人は、不気味な笑みを浮かべていた。
「ビジネスか。アタシの一番好きな話だな」
そう答えた玲玖も、どことなく邪悪な笑みを零した。
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