野良犬
それは思わぬ提案だった。
「私が、君たちの仲間に? 馬鹿を言うな!」
「悪意ある者は、悪意によって他者を傷つけます。一方で、善意ある者もまた、善意によって他者を傷つけるのです。無価値な美徳を掲げることで、貴方は何を勝ち取りましたか? 貴方の力を活かすには、強者の道を歩むしかありません」
「私は、弱肉強食の世界を憎んでネオになった! 私は決して、Rと同じにはならない!」
「R様と同じになる必要はありません。頂点に立つ者は、一人だけで構わないのです。存外、強者に飼われる生活も悪くはないものですよ」
何やら彼には、野心というものがないらしい。
「君はそれで良いのか? これではまるで、首輪を着けられた犬じゃないか!」
江真は声を張り上げた。確かに眼前の男からは、支配者に抗おうという意志がまるで感じ取れない。そればかりか、この男は積極的に主に隷属的で在ろうとしているのだ。和治は眼鏡の位置を直し、己の人生哲学を語る。
「力を得ることは快楽の前借りです。強者は玉座を奪い合い、その座を失った者は泥水を啜ることになります。自由な強者は失うことに怯え、被支配者は多少の自由を代償に安寧を与えられるのです」
安寧――それが彼の望む全てだ。一見、Rの配下につくことは、安寧とは程遠いように思えるだろう。当然、江真は真っ向から反論する。
「自由がなければ、人は生きていないも同然だ! 自立した信念のもとで善悪を背負い、そして誰にも縛られずに歩む――それが人に与えられた使命なんだ!」
その強い語気に反し、彼女は動揺している。眼前に立つ男の言葉の数々は、着実に彼女の正気を削り取っているのだ。
「
「黙れ! 黙れ!」
「早死にする野良犬ではなく、安寧を約束された家畜にはなりませんか? R様に飼いならされ、玉座を奪い合わずに強者の恩恵に与れる平穏な人生を送りませんか?」
確かに、利用価値のある者を切り捨てる支配者はいないだろう。この男はネオにあらざる者でありながら、強者の懐に潜り込む術を知っている。ある意味では、それも弱肉強食の考えに縛られない生存戦略なのかも知れない。そんな考えが、江真の中に過ぎった。それでも江真は、彼の話術に屈しようとはしない。
「私は、人間という生き物を誇りたい。例え君の生き方に理が通っていても、この世界が痛みに満ちていても……人間は正義に向かって突き進む意志を持てる。それが人間だ。それが、生きるということなんだ!」
それが彼女の答えだ。突如、どこからともなく、拍手の音が聞こえてきた。二人が目を遣った先にいたのは、
「正義としては未熟だねぇ。だがな、江真……お前は牙を失っちゃいない。野良犬としては合格だ」
曲がりなりにも、彼は江真を評価した。和治は深いため息をつき、おもむろに右手を上げる。その動作が合図になっているのか、その場には何人もの男が姿を現した。
「なっ……」
江真は驚いた。
辺り一帯が煙に包まれたのは、まさにそんな時だった。
やがて煙が宙に消えた時、そこに江真と泰守の姿はなかった。
「逃がしましたか……」
和治は眼鏡を拭き、その場を去った。
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