第1話 ヘジュの石<8>

 「この森には、何でもあるのね」

 地上の風景を、そのまま水の底に沈めたかのように、静かに水をたたえた湖を前に、ナンシーは感嘆の声を上げる。

 「うん。ここには何でもあるんだ。僕たちの欲しいものは、なんでも」

 ほんの一瞬、間をおいてから、少年が続けた。

 「姉ちゃんも、ここに住んだらいいのに」

 「え?」

 「姉ちゃんもここに住めばいいよ。ここにいれば、幸せにいられる。だって、姉ちゃんは、この森が好きでしょう?」

 「うん、好きよ。ここは、すばらしいところだと思うわ。でも……」

 「『大好きな気持ちにうそつかないで』って……」

 「え?」

 「ある人が、僕に教えてくれたんだ。大好きだって、思う気持ちには、素直にならなくちゃって。ねえ、姉ちゃん、最初の日に、僕があげたもの、覚えてる?」

 「え、ええ。とても可愛い小枝だったから、嬉しくて、ずっと持ってるけど、でもどうして?」

 少年は、えへへ、とちょっと笑った。

 「変だよね、あんな物を人にあげるなんて。でも、あの時はとても嬉しくて、この人、好きだなあって思って、何かあげたくなっちゃったんだ」

 そう言って、にっこり笑うと、少年は、ナンシーを離れ、木々の間に消えてしまった。




  チャプ…


 一人になったナンシーは、鏡のような水面に、桶を沈めた。ナンシーは、指先から幾重にも輪を描いて広がる細かな波に、水の底に沈められた風景が、本物でないこと知った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る