藍色の沈黙

阿部狐

本文

 高校デビューに失敗した。屈辱だ。

 せっかく私服で登校できる高校に合格したってのに、私服なんかで、自分自身を彩ることはできなかった。ブラウスも買った。ワンピースも買った。セーターも、カーディガンも試した。徒労だった。ジャージが一番似合っていた。

 私を縛りつける、肩幅の存在。付いたあだ名は、ゴリ女。

 水泳なんか習ってきたからだ。バタフライなんか泳いできたからだ。あの頃は、女性の愉しみを放棄してまで、ただひたむきに速くなることを目指していた。憎い。速くならなくていいから、平凡になりたい。

 高校入学を機に水泳をやめた。節目みたいなものだった。でも、それが私のほとんどを構成していたなんて、手放すまで分からなかったんだ。

 高校の文芸部に入ったのは、多分、簡単そうだったからだと思う。美術はチンプンカンプンだし、吹奏楽なんてもってのほか。でも、小説を書いたことはあった。中学校の国語の授業で、だったかな。

 先生からA評価をもらったのが、ちょっとした自慢にもなっていた。小説家になれるかもしれないって思い上がっていた時期もある。ちなみに、クラスのほとんどがA評価をもらっていたらしいけど。

 ともかく、私は文芸部に入部した。当然なんだけども、部内には同級生がいるもので、クラスメイトの美玖もその一人だった。あまり話が合わないけど、同じ部活ってことで、惰性に付き合っていた。向こうも同じことを感じていると思う。

 後悔ばかりの高校生活が始まった。しんどいな。学校爆発しないかな。


「またジャージ着ているんだ」

 座っている私に話しかけるのは、美玖だ。朝のホームルームが始まる前、孤独を紛らわせるように、彼女は私に寄ってくる。

「ジャージでいいじゃんね」私は口を尖らせる。「どうせ、私は何を着たって似合わないし」

「高野さんの私服、見てみたいけどなあ」

 美玖は黒いスキニーパンツを履いている。貧弱そうな身体だけど、細いズボンには良く似合う。羨ましい。私はスキニーパンツなんか入らないから。

「今度、なんか着てちょうだいよ」美玖がわざとらしく手を合わせた。

「ジャージのが過ごしやすい。もう六月だし、それに――」

 言葉を続けようとした途端、下品な笑い声にかき消された。そちらに顔を向ける。やっぱりか、と思った。芳恵の笑い声だ。あの子は、昔から声が大きい。あと、肩幅も。

「ごめん。もう一回言ってくれる?」美玖が、申し訳なさそうな顔をする。「ちょっと、川上さんがうるさくて」

「いや、別に大したことじゃないから」

 芳恵は、その肩幅には到底合わない、白色のメロウトップスを着ていた。両肩がはちきれんばかりになっている。つついただけで破れるかもしれない。傍から見たら最高に面白い着合わせなんだけど、当の本人は、きっと大真面目なんだと思う。芳恵は冗談を言わないタイプだし。

「あれ、似合わないよねえ」美玖が耳打ちしてくる。「ゴリラみたい。バナナとか食べてそうだよね」

 芳恵と違って、美玖はよく冗談を言う。ただ、あまり良い気分にはならない。単純に面白くないし、ほとんど悪口と変わらないこともあるから。今だって、美玖をゴリラにたとえている。最高につまらない。美玖のそういう部分が苦手なんだけど、それを指摘して仲が悪くなるのも困るから、私が我慢することにしている。

 始業のチャイムが鳴って、美玖が席に戻っていく。誰にもバレないように、「ふう」とため息をついた。肩の骨を鳴らして、何に対してでもなく、くたばれと思った。頭の中で暴言を浮かべると、少しだけ気が楽になるんだ。

 芳恵に視線を遣ると、その大きな背中が目に入った。随分と大きい。まな板にできそうだ。それを言うなら、私も同じなんだけども。

 私と芳恵は同じ高校に進学したものだから、芳恵はてっきり「歩美も水泳部に入るんだ」と思っていたらしい。私の入部届を見て、ようやく間違いに気が付いたようだった。

 今でも思い出せる。入部届を見た芳恵は、「えっ」と間抜けな声を出したきり、何も言わなくなってしまったんだ。それが無性に面白くて、でも体の一部が欠けたように寂しかったんだ。

 結局、芳恵は一人で水泳部に入ったらしい。らしいっていうのは、別に興味なんかないよってこと。もうやめたんだから、私には関係ない。部活も違うから、話す機会もなくなると思った。思ったっていうのは、それが間違いだったってこと。

 なんていうかな。私を気にかけていた芳恵はお人好しだし、芳恵と距離を置けなかった私も、水泳に対して未練があったんだと思う。


 芳恵に話しかけられた。放課後のことだ。

「歩美」教室で声をかけられる。「水泳のことで相談があるんだけど……」

 またか、と思った。私は芳恵の手を引いて、教室を出る。放課後の喧騒を通り抜けて、人気のない階段まで歩く。

「いいよ」私が口を開く。「相談、聞くよ」

 教室にいたら、誰かに目撃される可能性がある。見られちゃいけないわけじゃない。けど、芳恵の陰口を叩く美玖には、私と芳恵がなにかしらの形で関わっていると思われたくなかった。私たちは見えないピラミッドに閉じ込められている。芳恵は馬鹿で単純だから、ピラミッドの存在も、自分がどの階層にいるかってことも、全然念頭に置いてないんだろうけど。

「ええっとね、バタフライなんだけどね」

 芳恵は瞼をぎゅっと閉じる。話す言葉を考えているんだろう。

「力いっぱい腕を動かしても、水を捕まえている感じがしなくて」

「ああ」分かるよ、その感覚。

 水泳を引退した後も、私が芳恵から相談を受けているのは、単純に私の方が速かったからだ。私の自己ベストを、芳恵は今も抜けていないらしい。心のどこかで「良かった」と思ってしまう。

「歩美は、どうやって水を捕まえていたの?」

 水を捕まえるという表現は、スイマーには当たり前のものだ。つまりは、腕を一振りしてどれだけ進めるかってこと。一振りで一メートルと二メートルなら、二メートル進んだ方が良いに決まっている。体力も温存できて、タイムも縮まる。

 現役時代、私はそういったことばかり意識していた。どうすれば効率良く泳げるか。どうしたら楽に泳げるか。だから技術が試される平泳ぎを専門とすればよかったんだけど、私の専門はバタフライだった。

「手首を使えばいい」私は、芳恵の手に触れた。「肘を伸ばし切る寸前、弧を描くように、手首をグルンってする。これで手に揚力が働くから、もっと進むようになる」

 芳恵は、私の言われた通りにした。「ふんふん」と頷きながら、動作を何度も繰り返した。素直な子だな、と思う。

 そうそう、芳恵のバタフライも、素直な泳ぎをしていた。素直というか、体力が続く限り全力で手足を振るっているだけだ。小学生ならそれでよかった。でも、中学生になってからは、そうもいかなくなった。年齢を重ねるにつれて、技術が必要になってくるんだ。タイムは伸び悩み、泳いだ後はいつも苦しそうにしていた。それでも、芳恵は水泳を続けている。

「ありがとう」芳恵が、ぺこりと頭を下げた。「そろそろ練習が始まるから、行ってくるね」

 私の「行ってきな」という返事も待たずに、芳恵は走り去ってしまった。頑張っているなあ、とは思った。どうせ私のタイムは抜けないだろうけど。


「きみ、原稿出したのか」

 文芸部の部室に着いて早々、及川先輩からの叱責を受けた。

「締切は今日だ。でも進捗の報告もなけりゃ、書いている素振りも見せないじゃないか」

「それは……」言い訳を考える。

「確かに文芸部はゆるいよ。だけど、それは僕たちが、やるべきことをやっているから」

 部室に居合わせた美玖が、私に憂えるような視線を向ける。同情のつもりだろうか。今はそれが腹立たしい。絶賛お説教中だから、「見るな」とも言えない。

 なんだよ、文芸部。全然簡単じゃないじゃん。

 及川先輩がため息をつく。「明日まで待ってやるから、進捗の一つでも教えてくれ」

「はい」私が悪いのは分かっているけど、どうにも腹立たしい。言い方ってものがあるんじゃないだろうか。待ってやる、って。何様だよ。自分が権力者にでもなったつもりだろうか。髪もボサボサで、アニメキャラのTシャツを着ているくせに。西暦が一つズレているだけで、さも上司気取り。気分を害する。お前は原稿以外に目を向けろよ。

 私は「家で書きます」と言って、部室を出た。とはいっても、書きたいことなんか思い浮かばない。部室も及川先輩がいて居心地が悪いし、退部も視野に入れていいかもしれない。

 そのとき、部室の扉が開いた。出てきたのは、美玖だった。

「高野さん」

 そっか。私はまだ「高野さん」なんだよな。見えない壁に隔てられる感じがする。

「自分の経験したことだと、書きやすいと思うよ」

 それから、部室の扉が閉まった。少しして、扉の向こうから笑い声が聞こえる。疎外。私の知らない幸せな世界があることは、とっくに分かっている。知らないままでいたい。逃げるように部室から離れた。

 地縛霊みたいに、廊下をさまよっていた。この世に未練も執念もありゃしないけど、このまま家に帰るのは、どうにも屈辱的に思えた。意地だったのかもしれない。

 外に繋がるドアを見つけた。しかし校門にも校庭にも繋がっていない。ドアの横には「プール」と書かれている。ああそうか、ここで芳恵は泳いでいるんだ。

 引き寄せられるように、ドアノブに手をかけた。そこで止まる。回すことも、離すこともしない。握ったまま、回らない頭を回そうと躍起になっていた。

 どうして私は、プールに行こうとしているんだろうか。体育の授業があるわけでもなければ、水泳部に所属しているわけでもない。たとえるなら、未練。水泳に対する、煮え切らない気持ちでもあるんだろうか。自分でも分からない。分かろうとはしているのに。

「あれっ」

 後ろから声が聞こえた。振り向くと、水着姿の男性が立っていた。

「見たことないけど、一年生?」

 どうやら、水泳部の生徒らしい。学年は二・三年生だろうか。私がこくりと頷くと、その人は「三年の小野です。水泳部の副部長です」と名乗ってくれた。私も、自分の名前と学年を打ち明けた。

 小野先輩は、私に下がるよう伝えてから、抵抗もなくドアノブを回した。それから「見学の子が来ました」と大きな声を出した。いや、見学じゃない。ちょっと待ってください、と流れるように、プールサイドへと足を踏み入れる。

「あっ、歩美だっ」

 私の「ちょっと待って」をかき消したのは、準備運動をしていた芳恵だった。大きく手を振ってくれている。

「知り合いなのか」小野先輩が、芳恵に問う。

「そうです。歩美、私より速いんですよ」

 ざわめきが起こる。水泳経験者だと知れ渡ってしまった。この状況下で、見学じゃないとは言い出せない。引くに引けないまま、押し黙るばかりの私。

「水着は持ってきていますか?」小野先輩に訊かれる。持っていないと答えると、「じゃあ泳ぎは見れないか」と残念そうにしていた。仮に持っていたとしても、泳ぐ気はさらさらなかっただろうけど。

 それでも引き返せないことに変わりはない。プールサイドで、部員たちの泳ぎを見ることになった。背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、クロール。各々が専門とする種目を、ただひたすら泳いでいる。芳恵もそれに混ざって、羽の破れた蝶々のようなバタフライを披露していた。フォームは、相変わらず汚い。

 ちらと辺りを見渡していると、三階の窓から美玖の姿が確認できた。なるほど、文芸部の部室からプールを眺めることができるようだ。知らなかった。

「あんた、水泳やっとったの」

 突然、横から声をかけられる。声の主は白髪の生えた男性。きっと顧問の先生だろう。

「はい。中学まで、やっていました」できるだけ活発そうな声で答える。

「なんで、入学してすぐ水泳部に入らなかったのさ」

 すぐに答えられない。やめたんです、と返すのはどうにも憚られた。だけど、それ以外の言葉で回答するには、私の語彙は少なすぎた。

「ガタイ、良さそうに見えるけどねえ」

 ガタイと聞いて、吐き気を催した。肩幅。水泳をやめても、怨霊のようにつきまとってくる。お前は水泳をやっていたんだぞ、と指をさされているような感覚。途中下車は許さないぞ、と銃口を突きつけられているような束縛。あるいは恐怖。

 ともかく、水泳部に入らなかった理由が思い浮かばない。笑って誤魔化そうと思ったとき、小野先輩が「じゃあ、五十メートルのタイム、計っていこう」と声を張り上げた。部員たちが返事をする。水泳部は体育会系だけど、野球部とかに比べたら、だいぶ空気が和やかな方だと思っている。

「歩美」芳恵が、水滴を垂らしながら寄ってきた。「私のタイム、計ってよ」

 断る理由もない。二つ返事で受け入れた私は、小野先輩からストップウォッチを受け取った。懐かしいなあ、と思う。中学生の頃も、私と芳恵は、互いのタイムを計り合っていた。専門が同じだから、周りからライバルとして扱われていたんだ。

 私は、一度もそう思ったことなんかなかったのに。

 一年生は、最初にタイムを計ることになっていた。芳恵が、意気揚々とスタート台に上がる。そして両腕を一回転させた。芳恵のルーティンだった。それを見る度に、ああ芳恵が泳ぐのだなと思う。水に身を委ねるのだなと実感する。

「テイクユアマーク」

 小野先輩が呟くと、芳恵はスタート台に手をかける。右足を前に、左足を後ろに、屈むような姿勢で、次の合図を待つ。静寂が訪れる。緊迫した空気。電撃が走っているかのように、全員が動けない。

 スターターピストルが、鳴った。

 刹那、芳恵が動いた。両腕を前に突き出して、大きく音を立てて、沈黙へと飛び込んだ。芳恵の飛び込みは下手だ。飛び込みが成功すれば、音が鳴ることもないんだから。

 すぐに浮上して、両腕を回し始めた。両足を振るって、しぶきを立てた。やっぱり下手だ。技術が伴っていない。芳恵のバタフライは、パワーだけだ。だから私には届かない。届きやしない。

 芳恵が端の壁に手をついた。すかさずターン。これで二五メートルだから、帰ってきたところで五十メートル。水泳では短距離にあたる。大した距離じゃない。それなのに、芳恵はすっかり疲れ果てたようだ。両腕の勢いは衰えて、足もおぼつかない。溺れているんじゃないか、と錯覚するほどに稚拙だ。下手だ。まだまだだ。

 そう思っているのは、きっと私だけだった。だって、他の部員たちは「頑張れ」って声を張り上げているんだから。卑屈なことなんか、考えてなさそうだから。

「歩美っ」芳恵の声だ。

 しまった。芳恵がゴールしている。すかさずストップウォッチを止めた。遅れてしまった。やってしまった。心の中でそう呟く。

「早く、タイム教えて」

 急かされる。ストップウォッチに表示された数値に目を向ける。見間違いじゃないかと、何度も見返す。

「どうしたの」芳恵が、プールサイドから上がる。「計れてなかった?」

 そういうわけじゃない。ちゃんとタイムは表示されている。でも、私の口から言うわけにはいかない。早まる鼓動。過呼吸。私は、とても普通じゃいられない。

「ごめん。気分が悪くなっちゃった」

 近寄ってきた芳恵に、すかさずストップウォッチを渡す。そして振り返らずに、プールサイドから出た。ため息をついた。消えてしまいたいと思った。表示された数値を忘れることに、全ての力を注ぎたかった。

 表示されたタイムは、私の自己ベストより、コンマ一秒だけ遅かった。

 もしも、ストップウォッチを止めるのが遅れなかったら。正確なタイムを刻んでいたとしたら。違う。考えたくもない。私の見たタイムは正確だった。遅れていなかった。

 だって、芳恵が私より速いだなんて、絶対にありえないから。


 くしゃくしゃの原稿用紙を見ても、及川先輩は「面白くない」としか言わなかった。

「自分の価値観でしか、物事を考えられていないんだよ」

 書きたいものって言われても、何も思い浮かばない。人に叱られているときは、なおさら頭が回らない。というよりも、どうにか原稿を完成させたんだから、それで終わりにしてほしかった。説教なんて望んでいなかった。

「別に、きみが書きたいものはなんでもよくてさ」及川先輩が頭を掻く。「その姿勢が見えないっつうか、文芸に対して、ちゃあんと向き合っている気がしないわけよ」

 今までは言われっぱなしだったけど、向き合っている気がしないなんて言われたら、私も反論せざるを得なかった。

「向き合ったつもりですよ。そうじゃなきゃ、原稿をくしゃくしゃにしないでしょ」

「はあ」及川先輩は譲らない。「ステレオタイプだろう。原稿をくしゃくしゃにするほど、作品が昇華されると思うのはね」

「そんなんじゃありません。本当に、悩んで書きました」

 私が書いたのは、水泳の話だ。美玖に言われた通り、自分の経験を基にして書いた。ところが、思うように文章を操れなかった。それが悔しくて、でも感情をぶつける矛先が見当たらなくて、その場にあった原稿に当たってしまったんだ。

「そういうことじゃないんだよ」

 及川先輩は、私を睨みつけた。「稚拙だ。下手だ」とでも言いたげだった。

「一度でも僕たちに相談したかい。一人で悩んで、それで満足しているんじゃないかい。僕は、そのことに対して不満があるわけだよ。結局、締切だって間に合わなかったじゃないか」

 呆れた。この人は嫌味を言いたいだけだ。締切に間に合わなかったから、自分の仕事が増えてしまった。感情をぶつける矛先は、仕事が増える要因となった私。納得した。あれだ、及川先輩は嫌われるタイプの人間なんだ。

「ちょっと、言いすぎですって」そう喋る美玖も、私のことを見下しているんだ。自分は締切に間に合ったからって。蚊帳の外にいるからって。

 騒がしいな、と思った。文芸部は、もう少し静かな場所だと思っていた。違った。嫌味やら悪口やらが飛び交って、ひどくうるさかった。

 水泳をしていた頃は違った。予め立てられた高いハードルを超えるために、切磋琢磨していた。飛び越えたときの快感は、言い表せないほどだった。でも文芸は違う。無理しなくとも飛び越えられるような、低いハードルを自分で設置する。それをぴょんと飛び越えて、あたかも自分が何者かになったような気分になる。ああ気持ち悪い。今だけは、対象の定まった悪意が向けられそうだ。

「帰ります」

 退部しようと思った。居心地が悪かった。誰かを見下すことで、エゴを満たす害虫の巣に染まりたくなんかない。「大丈夫だよ」という美玖の気休めだって、心に余裕があるから言えるんだ。一生、繭の中で暴れていればいいんだ。

 部室の扉を閉めて、二度と戻らないと誓う。部室から聞こえてくる話し声は、多分私への悪口。あなたたちも、私をゴリ女と呼べばいい。もう今日はとっとと帰ろう。しんどいな、学校爆発しないかな。

 廊下を歩いていると、小野先輩の姿が見えた。昨日は逃げ帰ったようなものだから、結構気まずい。物陰に隠れてやり過ごす。

 なんだろう。とっても不愉快。どうして私が隠れなきゃいけないんだろう。今思えば、勝手に見学扱いされたのも許せない。しんどいな。プールも爆発しないかな。

 校庭から、運動部の声が聞こえる。あいつら、教室でも部活のノリで話すから面白くない。自分が面白くないってことを自覚すれば面白くなるのに。

 ジャージのポケットに手を入れた。孤高を気取って、少し気が楽になった。私は間違ってなんかいない。この場所の居心地が悪いだけだ。私服じゃなくていいから、もっと偏差値の高い高校を目指せばよかった。後悔しても遅いけど、このまま二年過ごすって考えると、ああ苦しくなっちゃう。

 見えないピラミッドを神格化して、着れないメロウトップスに憧れた。それらが私の生活を彩ることなんかなくて、芳恵のメロウトップスみたいに、私を圧迫するだけだった。

 芳恵とも違う高校に行けばよかった。実のところ、昨日見たタイムのことを忘れられていない。私が苦しくなるんだったら、アドバイスなんかしなけりゃよかった。芳恵が速くなるわけないと信じていた。いや、速くなんかない。多分、芳恵がフライングしたんだ。

 上靴を脱ぎ、スニーカーに履き替える。そして玄関を抜けた。丁度「タイムを計るぞ」という声が反響した。小野先輩の声で間違いない。

 芳恵。今日も、タイムを計るんだろう。

 もはや水泳部に見学に行く気はない。でも、私はもう一度プールに行く必要があった。芳恵のタイムが正確じゃなかったということを、この目で確かめるために。

 そこで、私は玄関に戻った。まだ体温が残った上靴を履いて、急ぎ足で階段を上った。二階に着いて、更に上った。

 三階に到着して、文芸部の部室に向かう。丁度、及川先輩と美玖が出てきたところだった。先輩に「どうした」と訊かれたので、「忘れ物です」と適当に喋った。

「僕たちは部誌を印刷するから、何かあったらパソコン室に来てくれ」

「はいっ」普段よりも活発な返事をして、部室に入った。

 二度と戻らないと誓った部室に、また入ることになるとは思いもしなかった。しかし、プールに入らずに芳恵の泳ぎを見るには、これしか方法はない。恥も外聞もない。

 窓を開ける。バシャアという水の音が響いた。芳恵だ。丁度泳ぎ出したんだ。昨日と同じように、腕力と脚力だけのバタフライを泳いでいる。稚拙だ、下手だ。そう自分に言い聞かせる。

 芳恵を妨害したくなった。大声で叫んだら、気が散るだろうか。それはないな、と思い直す。水中は沈黙の世界。誰一人として干渉できない、自分だけの場所。

 中体連を思い出す。私が最後に泳いだ、あの中体連。私と芳恵は同じ組で、同じバタフライ。

 その頃には、私はとうに水泳なんか飽きていた。親が「やめるなら中体連で」と言うから、惰性で続けていただけだ。一方の芳恵は、私と対決できることを心待ちにしていたみたいで、組の招集で隣になったときも「負けないよ」と声を弾ませていた。

 結局、最後も私が勝ったんだ。でも、それは順位での話。タイムの差は、コンマ一秒だった。

 きっと怖かったんだと思う。ライバルだとも思っていなかった芳恵に、追い抜かれてしまうということが。唯一の特技だった水泳で、自分の上に立たれてしまうことが。

 だから、多分、私は逃げたんだ。そして別の一番を目指そうとした。でも肩が許しちゃくれなかった。ブラウスも買った。ワンピースも買った。セーターも、カーディガンも試した。徒労だった。ジャージが一番似合っていた。

 それなのに、芳恵はなんでも愚直に挑むんだ。似合わないメロウトップスを着て、上手くもないバタフライを泳いで。それでいて、アドバイスをしたら、素直に「ありがとう」だなんて言ってくる。気分が悪い。こっちは、芳恵に追いつかれることが恐ろしいというのに。

 同じ高校に入っても、違う部活に入れば、関わりがなくなると思っていたのに。純粋な芳恵は、ピラミッドなんか踏み潰して、私の領域にズカズカと押し入ってくる。

 嫌いだ。芳恵なんか嫌いだ。芳恵を嫌いな自分のことも嫌いだ。

 ばしゃばしゃ、という水しぶきが止んだ。芳恵がゴールしたんだ。肩で息をしている。疲れ果てたことを隠そうともしない。全力を尽くしたんだろうなって分かる。

「川上芳恵」小野先輩の声が響く。「タイムは――」

 思い切り窓を閉めた。小野先輩の声は、くぐもって、それっきり聞こえなくなる。

 芳恵がプールから上がった。頑強な肩が露わになる。美玖が「メロウトップスは似合わない。タンクトップが一番似合うのに」と笑っていたのを思い出す。本当に、美玖はつまらない冗談を言うものだ。

 一番似合っているのは、競泳水着に決まっているじゃないか。

 芳恵が、他の部員たちとハイタッチを交わしている。疲労なんか感じさせないほど、軽やかな動きと微笑。そこに私はいない。二度と現れない。

 放課後とはいえ、今は六月だった。空はまだ赤くない。とてもじゃないけど、物思いにふけるには早い時間だった。

 藍色の空を見上げながら、「下手くそな泳ぎ」と呟いた。その言葉は、決して芳恵に届いちゃいないだろうけど、アドバイスになるなら、むしろ届ければよかったなって後悔した。

 しんどいな。バーカ。

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藍色の沈黙 阿部狐 @Siro-i

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