第二章/夜の指先が伸びる 6

 昼間と同じように地下道を通ってストラストの町に出る。夜になり太陽を失ったことで光源の見当たらない町中は、人が住んでいることを忘れさせるほど、空虚な暗闇に支配されていた。湖沼から吹き抜ける夜風が、遠くに生い茂る森の梢を揺らす。裏道を歩く三人分の靴底の鳴らす足音が不気味に大気を振るわせた。


「人ひとりいないね。田舎だからかな」


 感覚を無理やり締め出すように、レセナは片手で頭を抑えながら周囲を見やる。聖都カルヴァリアに住んでいるレセナにとって、夜であっても人影が見当たらないこの町は、やはりどこか異質だ。


 ロザリロンドが細めた目を向けるが、すぐに視線を前に戻した。あまり騒ぐなと言いたいのだろう。いま、三人の周囲にはロザリロンドが展開した防音施術が働いている。内部の音を外に漏らさない優秀な施術だが、彼女が扱う精霊体系は元々隠密行動に即さない施術体系だから、その実穴だらけの欠陥品だ。下手に声を荒げれば音は漏れる。だからか、ヴォルトが小さな声で答えた。


「十年前と同様の事件があったんだ。まともな感性をしてればここに居たいとは思わないだろ」


「もしかして、住人全員が町を出たの?」


「違う。昼間に見かけた限り、少なからず人はいた。国の連中が住人を外に出さなかった。封鎖網が敷かれてるんだ。暴動が起きないのは奇跡だな」


 町の封鎖は酷死天使発生時の対応手順だ。いくら収束したといえど、絶対の安全が確認できるまで町を封鎖したのだ。レセナでさえ、ロザリロンドから話を聞いた当初に考えた、当然の判断だった。そしてそれは、現地の住民を縛る圧力だ。


 公安犯罪はいつの時代も秩序を破壊する。浮かび上がったひとつの感情は、しばしば国民を魅了する。


 恐怖だ。


 これに続くのは、国への信頼低下と施術士に対する憎悪だ。十年前も、恐怖に踊らされた国民は施術士排斥運動を発起し、恐怖から少しでも逃れたい彼らは心の均衡を取り持つため、安易にその運動に飛びついた。それは、放置すれば国すら崩壊せしめる、恐怖により生み出される国を殺す猛毒だ。


 そして、十年の時を経て再び災厄は具現した。国が再び無能を示せば、同じことが起こる。


 湧き上がる不安をレセナは無理やり飲み下す。


 恐怖を前に人が取れる行動はあまりに少ない。怯えるか、感情の矛先を他者へと向けるか、神に祈るかの三択だ。


「町に見える不安はいつ爆発したっておかしくない。だからこれは何かしらの圧力をかけてるんだよ。国は一体何をやったの?」


 前を歩くロザリロンドに問いながらも、レセナは回答を知っていた。少し頭を回せば分かることなのだ。


「戒厳令を敷いた。町を出ようとすれば犯罪者として予告なしに殺すとな」


 ロザリロンドは人が少ない裏道を選んで進んでいる。だから、レセナには見えないだけで町中に高位施術士が住人を監視するために配置されているのだろう。


 いまのストラストに平和はなく、あるのは誰しも共有する恐怖だけだ。レセナにとっては、いまの自分を見ているようで気持ちが悪い。


 最良は正義であり、これに反発するものは悪だ。感染拡大を防ぐ国の判断は確かに最良だが、住人にとっては悪でしかない。誰だって自分の身が可愛いから、国の決定に背く者もいずれ現れる。


 レセナには、どちらが正しいか判断することができない。個人を基準におけば国を憎み、社会に与すれば国の判断は妥当と思える。結局のところ、“他人ごと”だから分からないのだ。


「システィーナは、どうしてるの?」


 善悪の天秤は持ち手次第でいくらでも傾き、絶対的な審判者は人には存在しない。社会において、善悪の判断は必ず第三者に委ねられる。物事の好し悪しの判断を“社会”や“神”へ委託しているのは、“天秤の持ち手”に相応しい存在が、個人の人間としてこの世に存在しないと知っているからだ。だからアレラルという国家は、犯罪者に捌きを下す際、個人にその主眼をおかず、“法”という概念を持ち出す。そして、アレラルにはこの絶対的な価値観の根幹が、“法”すら超えて存在する。


 福音伝達者システィーナだ。


「呼び名の不敬は見逃そう。猊下はカルヴァリアで一部指揮をとっておいでだ。暴動がぎりぎりで起きていないのは猊下の御言葉があってこそだろう」


 つまり、システィーナは戒厳令を黙認したのだ。裏を返せば、大のために小を斬り捨てる冷酷な判断を下した。


 口を開こうとしたレセナにロザリロンドが釘を刺す。


「お前がいま何を考えているか分かるが、命が惜しければ口にするな。殺すぞ」


 レセナは口をつぐむ。福音伝達者の職務を知らないレセナは、システィーナが何を思いどう判断したかの道筋を追えない。だが、ひとつだけ分かるのは、福音伝達者は神たり得ないということだ。


 福音伝達者は神の感覚を持つが、その思考や見識は個人に依存する。考え方や倫理観が環境でブレるのだ。レセナが推察する限り、福音伝達者が隔絶された神殿から出られず、人との接触もほとんど遮断しているのは、護衛のしやすさだけではなく、その価値観を揺らさないためだ。それ故、福音伝達者は見つかると隔離され、徹底的に教育を施される。


「止まれ。フードを被れ」


 突然、ロザリロンドが鋭い声を投げた。同時に施術を解き、防音施術がこの世から消える。フードを目深に被ったレセナが目を凝らすと、闇の中からぬっと人影が現れた。


 人影が一歩足を踏み出す。住人然とした服装の男性だった。しかし、身に纏う雰囲気は一般人のそれではない。国に身を捧ぐ者特有の鋭さと重い空気だ。隣に立つヴォルトが剣の柄尻に手を這わせる。


「お待ちしておりました。ローザンヌ修道騎士会のロザリロンド様ですね」


 男性が微笑を貼り付けた顔で挨拶する。


「何者だ?」


 男性が深々と頭を下げる。


「申し遅れました。私、国家保安院公安部公安課のミハエルと申します」


 国家保安院公安部は、国を揺るがす公安事件を担当する部署だ。構成員は決して表に出ず、その功績すら闇に葬る、徹底してその存在を公にしない特殊な場所だ。施術士犯罪を主とする、同院の査問法院とは目的だけでなくその性質も異なる。だから、この男性が自ら身分を明かすのは公安の性質からしてあり得ない。つまり、最低でも偽名ということだ。


「公安が何の用だ」


「是非あなた方に協力をと思いまして」


「はて、協力とは一体何のことだ? 我々は対策本部に協力を仰がれここにいる。あなた方と目的は同じとするところだが」


 ロザリロンドがうそぶく。彼女の存在が看破されている以上、ローザンヌ修道騎士会がこの事件に関わっていることはバレている。だが、目的は分からないはずだ。必要であれば抹殺しようというのか、ロザリロンドの背から空気が揺らめくほどの殺意が迸る。


 ミハエルが笑った。


「あまり殺気を出さないで下さい。それに、探り合いは辞めましょう。我々はあなた方の本当の目的を知っています。だからこうして身分を先に明かしたんです。王立騎士団のヴォルト・ハーデルさんも、剣から手を離してもらえませんか?」


 いきなり名前を呼ばれたヴォルトが、態勢はそのまま、警戒を露わにする。ミハエルが困ったように曖昧に笑い、視線を飛ばす。


「後ろのお嬢様はレセナ・グランジャさんですね? お噂はかねがね伺っています。時間が許すのなら、施術技術のひとつでもご教示賜りたいものです」


 冷や汗が頬を流れた。あまりにも早く情報が筒抜けになっている。初めから監視していたとしか思えない速度だ。


 いよいよロザリロンドの気配に明確な険が宿る。


「何が目的だ?」


「勿論、あなた方と同じですよ」


「腹の探りあいはしないのだろう? けしかけてきたのはあなただ。先に用向きを話せ」


「だから先ほどから申し上げている通りです。あなたがたと同じく、ゾルデを確保したい。そして真実を明かしたいのですよ。それが我々公安が長らく秘めてきた目的なのですから」


「真実とは?」


「十年前の酷死天使事件は本来我々公安の事件です。それを横合いから奪ったのは彼らであり、事件を迷宮入りにした。我々の面子は丸つぶれですよ」


 ロザリロンドが笑う。


「まるで子どもの喧嘩だな。つまりあなたがたは、仕事を奪った査問法院が憎くて仕方がないのだろう? だからゾルデ抹殺の命令が下された裏でこうして暗躍しているというわけだ。暗幕を剥げば、もしかしたら査問法院の失態が隠れているかもしれないものな。査問法院に辛酸を舐めさせられている公安にとってはさぞや甘い蜜に見えるだろう」


「いやはや、ローザンヌ修道騎士会の会長も人が悪く、辛辣だ。ですが、それは神天院も同じようなものでしょう? あなた方がこの事件を踏み台にして何を終着点と考えているか、我々公安は、ええ、もちろん辿り着いています」


 ふたりの視線がぶつかり火花を散らした。両者共に組織の意向に従い動いているから、互いの目的を達成せしめようと必死だ。


「互いに道程を同じものとする組織同士、ここは共闘といきませんか? 私はあなたがたの目的に干渉はしません。あなたがたも、私の目的には不干渉を貫く。これでどうでしょう? 悪い話ではないと思いますよ」


「我々は公安の“力”を必要としていない。あまり神天院を侮るな」


「それはおかしいですね。ならばどうして神天院だけで事を進めないのですか? 先ほども申し上げましたが、ヴォルトさんは国務院の王立騎士団所属。レセナさんは、“元”がつきますが、学術院の王立研究所の出自。今回の件、この人選から神天院が独自に進めることができないと白状しているようなものだと我々は考えています。ええ、ですが結構。それでもまだ我々を必要としないのならば、“これから必要として頂く”までです」


「それは脅しか? いまここで査問法院に差し出すと?」


「穏やかではありませんね。そのようなことを申し上げたつもりはありませんよ。ですが、お望みならば、別の手段を取りましょう」


 狂気を比べるように、ミハエルの声が海底に眠る水のように深く冷えていく。


「我々は対策本部に招集されていますが、ローザンヌ修道騎士会はその範囲外です。その長たるあなたがここにおられるのは、越権行為になるでしょうね。さて、ロザリロンド様、いかが致しましょう?」


 ローザンヌ修道騎士会は施術災害対策本部に召集されていない。修道騎士会がこの場にいることは、対策本部の指揮系統を混乱させ公務の妨害を招く可能性がある。つまり、ミハエルは、ロザリロンドがこの場に存在することを公にすることで、三人を妨害行為で捕らえると脅しているのだ。秘密裏に事を進めたい神天院にとっては最悪の状況だ。


 だが、逆に同じく裏で動く公安にとってもこれは苦肉の策ではないかとレセナは考える。ロザリロンドも同じ答えに至ったようだった。


「いいのか? あの公安がわざわざ身分を明かしてここに来たことを、我々が考え至らないと考えているのなら早計と言わざるを得ない」


 ロザリロンドが続ける。声色に笑みが滲んでいた。


「あなた方は、我々が確実に真相を突き止められる方法を持っていると考えている。公安は独自に査問法院を追い詰めることができないから、我々の力を必要と結論し、こうして相まみえている。あなたの存在が公安の限界を露呈している。脅すのなら相手を選ぶことだ」


 公安事案を扱う彼らにとって、それが“事件”になることは組織的な敗北だ。本来の目的が“事件を起こさない”ことにあるから、彼らが後手に回ることは存在意義に関わる。つまり、本来事件を担当するはずであった公安の手から仕事を査問法院にかすめとられ、更には一大事件にまで発展させてしまった責は彼らにある。組織的に突き上げを食らって尻に火が付いているのだ。それゆえ、彼ら公安は直接的原因になった査問法院に対して並々ならぬ憎悪を感じているはずだ。


 人を食ったようなミハエルの笑みが薄くなる。明らかに風向きが変わっていた。


「その考えは公安を舐め過ぎですよ」


「一枚噛みたいのなら、立場を弁えろと言っている。ローザンヌは確かに対策本部に召集されてはいないが、我らの情報部は違う」


「我々を脅すと?」


「私と“交渉”したいのなら直球で来い。絡め手は好かなくてね」


 それと、とロザリロンドが言葉を区切る。


「ローザンヌを脅せると思うな。我らは国に属していても、主とするのは福音伝達者猊下のみ。公安ごときに好きに使われる筋はない」


 ローザンヌ修道騎士会は、神天院の中でも最も有名な花形役職だ。だが、その実態は福音伝達者を命懸けで守り抜く者たちであり、政治的な駆け引きには一切関与しない場所だ。本来であれば福音伝達部へ通すべき話を、恐らくは時間がないことを理由に直接ロザリロンドへと持ってきた。この事だけでも、公安は神天院から数歩出遅れていたのだ。


 ミハエルはこの場の趨勢を覆すことができないと悟ったか、僅かに表情を固めた。


「良いでしょう。この場はあなたに預けます。ですが、せめて道案内はさせて下さい。いまの研究所に入るのは、ローザンヌ修道騎士会では骨が折れましょう」


「気遣い有難く頂戴する。生憎と私は守る事と燃やす事しか能がなくてね。公安と違い裏で手を引くことは苦手としている」


「それはそれは。さあ、参りましょう。無駄に時間を潰してしまいました。この防音施術ではいずれ見つかりましょう。さあ、お早く」


 二人が互いにさり気ない悪意を込めた言葉を投げ合う。政府内のいざこざをあまり知らないレセナは、二人がなぜこうも険悪なのか理解できなかった。


 ロザリロンドの防音施術の上から、ミハエルが隠蔽施術を上書きした。波動体系によるそれは、負の屈折率持つ特殊力場だ。入射する光を回折し力場を迂回させる。まるで何もなく直進したように見かけ上の光路を設定することで、力場内部の物体を外部から完全に透明化する。加えて力場内部に、知覚した波動から景色を投影させることで、光を受け取れないことで視界が塞がることを防ぐ。波動体系施術士でも使用者の少ないかなり高度な隠蔽防壁だ。夜の暗闇を利用すれば、肉眼で看破することはまず不可能だ。


 ミハエルがロザリロンドを促し前を進む。寸前、レセナに意味ありげな視線を一瞬だけくべた。


〈聞かれる前に話しておこう〉


 耳元の空気が震え、ロザリロンドの声が届く。精霊体系の風系分離施術により音を震わせて遠方に声を届かせる業だ。


〈公安は以前、王立研究所の“ある研究員”を追っていた。罪状は端的に言えば新規施術の技術秘匿。それをフィアラル法院長が横から介入し、差し止めた。奴が絡んでくるのは、捜査打ち止めを命じたのが神天院だと気づいているからだ〉


 レセナは震撼した。心臓を鷲掴みにされたように顔がさっと真っ青になるのを感じる。


 “レセナが王立研究所に入った目的がそれ”だからだ。


 アレラル国内で開発された施術は、学術院総合施術管理室に集約され、ここで監査した上で分類、使用用途などが厳格に定められる。これを怠った場合、施術士法に抵触し犯罪となる。本来であれば、“レセナも施術士法に則り処罰されるはずだった”のだ。施術士にとっては厄介な国家機関だ。


〈査問法院のトゥクローを知っているだろう?〉


 嫌な名前だった。トゥクローは、十年前にレセナを追い詰めた施術士特別査問法院の監査官の名だ。


〈こいつは奴の同期だ。以前情報部の書類で見たことがある。そして、こいつと同じようにトゥクローも“ある研究員”を施術士法違反で追っていた。片や査問法院、片や公安部とあっては、個人的だけでなく組織的な、何よりその事案に対する確執もある。面倒なことだ〉


 ロザリロンドの声に、珍しくレセナを責める色はなかった。彼女もまた、総合施術管理室への施術移管にあまり快く思っていないのだろう。施術士にとって施術とは命そのものであり、それが秘匿技術であれば尚更だ。特に戦線に立つことの多いロザリロンドにとって、自分の扱う施術が公になることは対策をたてられることと同義だ。それは福音伝達者の護衛の難易度が上がることを意味する。ローザンヌ修道騎士会にとって、総合施術管理室は邪魔な存在だ。


 そこまで考えて、ふいに、レセナはいま自分が歩いている道が、酷く腐臭に満ちた暗がりに思えた。福音伝達者として召集されてからというもの、権力闘争や国の裏側ばかり耳に入る。国家にかしずくということは、こういう事だと、茫漠とした何かに言われているようだ。このまま行けば、自分も陰惨な汚れを纏うことになるのだと思えてしまった。


 もう帰りたかった。嫌な思いをするのは懲り懲りだった。訳もわからず喚きたくなって、しかし、変に賢い頭は状況を理解しているから何も言えない。


 森に抱かれた暗い道を無言のまま四人で進む。感覚野を広げれば、町のあちこちから対策本部の関係者が配置されているのが手に取るように分かる。その監視網の目を縫うように進んでいるから誰にも会わないだけなのだ。


 やがて、先頭を歩いていたミハエルの足が止まった。その先には、ストラスト研究所の建物があった。広大な敷地を活用した巨大な施設だ。四方を高い壁に覆われ、有刺鉄線が張り巡らせてある。唯一の出入口には査問法院の監査官が隙なく張り付き、羽虫も射殺すように周囲を警戒していた。


「監視は外部だけか?」


 二区画は離れた位置の路地裏に陣取ったロザリロンドがミハエルに問う。


「内部の調査は既に終わっています。形式上、現場保持のために侵入を禁じているだけですから、外部だけのはずですよ」


「入口から堂々と、という訳にはいかないか。他に侵入経路は?」


「仮にも施術研究所ですから、まだ周囲の施術的警備網は生きています。下手に塀を乗り越えれば網に掛かりますよ。もちろん例に漏れず転移施術も使用できません」


「八方塞がりか。仕方ない、いささか気が進まんが、やるしかあるまい」


 一瞬、レセナはロザリロンドの言葉の意味を拾うことができなかった。ミハエルがロザリロンドの方針をいち早く察知し、狼狽した。


「まさかとは思いますが、監査官へ攻撃を加えるおつもりですか? 施術士法違反で重罪になりますよ? あなたは一体何を考えているんですか!」


「我々ローザンヌが動いている意味を考えてもらおう。これは、明確な意味で国家の危機だ。些事は私の範疇ではない。入口を吹き飛ばす。侵入後、後詰は結界で凌ぐ。他に案があるなら十数える内にさっさと挙げろ」


 ローザンヌ修道騎士会は敵対勢力の殲滅は得意だが、隠密行動は不得手だ。そもそも、組織目的からして要人守護に特化しているから、侵入工作は恐らく実行したことがない。


 レセナはため息する。


「高位施術士はこういうところで頭を使わないから、施術馬鹿って言われるんだよ。ミハエルさん、ここの監視網の範囲は、王立研究所が採用している立方体型であってる?」


「ええ、情報ではそのように」


「方式は網を音素体系で組んで、これを引き金として監視を波動体系で行うもの?」


「恐らくは」


「なら、“網の枠”は分かった。侵入できるよ」


 レセナの足元に、うっすらとした円形状の青白い光が現出する。秘蹟体系によって呼び出された燐光だ。


「秘蹟体系の転移施術か。網に掛かるぞ」


 王立研究所は、アレラル国内において施術の最先端技術を扱う場所だ。その情報は機密性が高く、必然的に研究所の監視は厳重なものになる。そして、その監視に用いられる網には、波動体系による感知法が用いられることが多い。波動体系は、森羅万象を“波”として観測する。音素体系の文字により設定した“網”を起点として常時観測されるこの監視は、殆どにおいて設定された施術を引き金として発動する。つまり、外部から直接転移する施術を使えば必ず網に掛かり、妨害施術が働いて施術を破壊される。更に、波動体系による自動索敵により術者の位置まで瞬時に算出されるのだ。だから、いかに高位施術士であろうと施術的に侵入することは不可能なのだ。


 だが、レセナはそれでも笑った。この理論の一部を組んだのは他でもない、彼女自身なのだ。たぶん、世界を探しても、この警戒網を避けて侵入できる者はレセナをおいて他にいない。


「これでも王立研究所に勤めていた経歴があるからね、“網の枠”くらい分かるよ」


 網とは音素体系により記述された施術群だ。施術管理室が施術を集約するのは、研究所の防衛によるところが大きい。つまり、集約された施術技術を片っ端から網に組み込んでいるのだ。ならば、“網の枠外の施術を使えば警戒に引っ掛からない”のは道理だ。


「それで、やるの? やらないの?」


 レセナがロザリロンドに促したのは、明白な犯罪行為だ。枠外の施術は即ち施術管理室に報告されていない施術であり、転移施術もまた許可のない使用は厳罰に処される。施術士法を二重に違反することの是非を問いかけているのだ。


 ロザリロンドの決断は早かった。


「やれ、責任は私が取る。公安の、一口乗りたければ今の一切を見なかったことにしろ」


 ミハエルは差し出された毒林檎を躊躇なく飲み込んだ。


「良いでしょう」


 譲歩を引き出す余地すら見せなかった。その背後に、公安が相当切羽詰まっていることが透けて見えた。


「急いで下さい。隠蔽施術も長くは持ちません」


 ミハエルの警告を受けて、レセナは施術を起動する。足元がぬかるみに嵌ったように地面に沈んだ。


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