第二章/夜の指先が伸びる 7

 シャルルが使ったときと同様、施術による転移は一瞬だ。敷地の外から内へと繋げた秘蹟世界を通って、レセナたちはストラスト研究所の内部に侵入した。


 転移した先の部屋は、当然のように灯りはなく、暗かった。唯一の光源は廊下側から侵入した月光だけで、薄ぼんやりとしていた。ふと、部屋の中に奇妙な模様があるのをレセナは見つけた。大小形が疎らに描かれた模様は、壁や天井だけでなく、部屋に置かれた調度品にまで伸びていた。壁や床に見える黒ずみは、宵闇を更に引き込むような圧倒的な負の存在感を発していた。酷く気持ちの悪い空気がふらふらと漂い、掴めば触れてしまいそうなほどに生臭く濃厚だ。


 さっと頭の中に情景が滑り込んで、レセナは思わず口許を抑えた。黒ずみが何であるか、福音伝達者としての感覚がレセナに“見せた”のだ。黒ずみは、雑巾を絞るように“人”から吐き出させた大量の血と体液だ。僅か一日前、地獄がここに蘇った証だった。


「視えたか?」


 警戒網に掛かるからか、ロザリロンドが耳もとで囁くように聞く。レセナは首を降るだけで答えた。目ざとくそのやりとりを見ていたか、ミハエルが二人に向く。


「さあ、どうしますか? 中はあらかた観察し尽くされて整理されています。今になって手掛かりが見つかるとは思えませんが」


 ミハエルの声は冷ややかだ。そして、瞳には明確な疑念が浮かんでいた。室内に死体が無いのは、既に対策本部に置かれた捜査員や専門家らが調査に入った後だからだ。有力な物証は持ち去られているから、本来の目的であればここに訪れるのは今となっては後手に回る悪手でしかない。レセナの特殊性を知らぬミハエルには、ここに来る理由が無い。逆に、残留した思念から過去を辿れるレセナらにとって、ここは数少ない明瞭な活路だ。


「現場は見ておく主義でな。実は私も概要しか知らん。奴はどう辿った?」


 ロザリロンドがミハエルの注意を引く役を買って出た。いくら公安であろうと、レセナの力を知られる訳にはいかないのだ。これは、なにもレセナ意思を慮っているからではなく、政府内での単純な権力闘争が理由だ。


 “神天院は権力が強過ぎる”。これは政府内では常識の見解だ。そもそも、国の意思決定機関である最高国務評議会を超えるほどの発言力を場合によって持ち、国民に多大な影響を有する福音伝達者をひとつの“院”が抱えていることがまずおかしい。本来ならば最高国務評議会に直接組み込むか、福音伝達部を外局にするのがあるべき姿であるとする意見も多い。そんな中、二人目の福音伝達者が現れればどうなるか。政府内部は間違いなく荒れる。下手をすれば、政府内部で内紛すら起き得るというのが、以前、福音伝達部部長と対談したときに出た結論のひとつだ。レセナの我儘が許されているのは、こうした背景があるからでもあった。


「今の内に探るんだ」


 ヴォルトがさり気なくレセナを促す。


 福音伝達者は社会的影響力が大きく、力も施術士とは別次元だ。施術士のように力の及ぼす矛先が“今ここ”という一次元的な狭域でなく、“過去・現在・未来”という一本の線を軸とし、これに交わるように交差する、空間を示す糸を併せた網目を捉えるからだ。福音伝達者は、その線からささくれのように伸び、あらゆる生活や自然に紐づいた糸を手繰ることで、その源泉に触れることができる。レセナが読み取る元となる糸は、ゾルデが引き起こした酷死天使事件であり、これ踏み台して更にゾルデ個人の背景を手繰り寄せる。


 レセナは、この力を日常的に使うことは殆どない。社会曰く、これは神の力であるから、レセナ・グランジャという一個の人格でもって使うことが躊躇われるからだ。


 一度瞑目すると、レセナはゆっくりと目を開いた。世界を抱くように息を細く吸う。世界は己の一部であり、自分は神の指先であると思い込み、世界に伸びる糸へ手を伸ばす。いま、レセナの世界には無数の糸があった。この場にいるロザリロンドらや室内に乱雑に置かれた調度品、壁や床に天井、果ては空気や光にまで糸が伸び、その終端は人の感覚では追えないほど遠く、深い。触れれば切れてしまいそうなほどにか細く、この世のものとは思えぬ神々しい銀色に輝き伸びる糸は、見ようによっては弦楽器にも似た気品があった。


 レセナは、川のように流れるその中に、目的の糸が紛れていることを知覚した。五感的ではなく、まさにレセナという存在が人間を超越した感覚でそれだと断じる超感覚だった。愛しい我が子に触れるように、その糸を指先で軽くつつく。糸が音も無く弾けた。糸に籠められた“歴史”が、指先から頭へと巡り、視界に描写される。


 ーー酷死天使を操るゾルデは、ストラスト研究所の所長を殺した後、来た道を堂々となぞっていた。死の匂いが身体にまとわりつきだした頃、身を隠すようにフードを目深に被った人影が、ぽっかりと穴を開けたように廊下の中央に佇んでいるのをゾルデは見つけた。人影はゾルデの姿を確認すると気やすく片手を上げた。


「全員あらかた済んだみたいだね。少しは溜飲が下がったかい?」


 少年の声だ。


「これくらいで下がる溜飲など持ち合わせていない。我らが劇場はこれからだ」


 くつくつと人影――少年が笑った。無邪気であっても、秘めやかな殺意が滲んだ気持ちの悪い笑みだった。


「君が甘い認識をしていなくて助かるよ。それでこそボクたちに引き込んだ甲斐があるというものだよ」


「福音伝達者を殺すのだろう? こちらも恩義は返そう。だが、分かっているだろう?」


「もちろん。目標は国家保安院施術士特別査問法院、それに学術院だ。ボクたちは、それとは別に福音伝達者を殺す。それでお互い祝杯を上げられるのなら言う事はないね」


「この国は一度滅ぶべきだ。滅びの後の再生こそ私の望みだ」


「キミは死と再生の主になるつもりかい?」


「そんな大層なものではない。間違っているから壊し、作り直す。神が不義を正さぬのなら、“人”が行うしかあるまい。その役目が私になっただけだ」


 眼前に広がる悲劇は再生の証だというように、ゾルデが力強い足取りで進む。少年は、小さく笑うとゾルデの横に並んで歩いた。


 ――糸の記憶が途切れる。研究所を出たから、この場から辿れなくなったのだ。視界に暗がりが飛び込んで来て、今まで見ていた光景との落差に眩暈がした。現実に戻ったレセナはもの言えぬまま、その場に立ち尽くすしかない。


「福音伝達者が狙われてる」


「なに?」


 レセナの呟きにいち早く反応したのはロザリロンドだった。


 だが、目だけで振り返ったロザリロンドが激昂の表情をすぐに消した。


 その様を不審に思ったのもつかの間、レセナは場所が最悪だったと己の過ちに気づく。ロザリロンドの背後、公安のミハエルが無表情でこちらを眺めていたのだ。


「少し中を探ろう。まだ手掛かりが落ちているかもしれない」


 ロザリロンドが告げて部屋の外へ歩み出す。ミハエルはまだレセナに視線を向けていた。いまは些細なことだと過ちを頭から締め出してレセナは考える。


 状況は最悪から更に底に堕ちた場所に転がっていた。ゾルデたちの目標は、福音伝達者の殺害だ。いや、正確にはその仲間と言うべきか。ゾルデの背後に組織の影が見えていた。統合するに、最終的な目的は国家の転覆だ。まさしく国家の危機だった。


 足の爪先から頭まで総毛立った。


 七本ある酷死天使がカルヴァリアの主要機関に撒かれたときの被害を想像してしまった。酷死天使の封じ方は、物理的に封じるか炎で滅却するかのニ択だ。封鎖は現実的に不可能。残る一手は燃やすしかない。間違いなく、カルヴァリアという都市は滅びる。首都の壊滅は、アレラルという国家そのものの滅亡だ。予想が現実味を帯びて背後から忍び寄っているようだった。


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