第二章/夜の指先が伸びる 1

 深海の底のような青が消えると、そこは見知らぬ洋館の一室だった。ふたりはゆうに暮らせそうな広々とした空間の中に、寝具のような黒いソファが部屋の中央に二脚置かれている。その片方、上座に位置するソファに、この場に居るはずのない青年が不機嫌面で腰掛けていた。


 青年の姿を視界に入れた途端、レセナの中にある堪忍袋の尾が切れた。


「ロザリロンド、これは一体どういうこと?」


 返事の返らぬ問いが応接間に反響する。閉じたアイボリーのカーテンの隙間から差し込む陽光が、ロザリロンドの無表情を照らしていた。レセナが唇を噛み、ぶれない軸がごとく立つロザリロンドに詰め寄る。


「一体どういうことだって聞いているの! どうしてヴォルトがここにいるの!」


 襟首を掴んだレセナの腕をロザリロンドが軽くいなす。


「シャルルが先にそいつを転送した。それだけの話だ」


「私が聞いているのはそんな当たり前のことじゃない。なぜヴォルトがこの事案に関わらなければならなかったのかと聞いてるのよ!」


 レセナにとって、ヴォルトは唯一残った家族であり、何にも変え難い特別な存在だ。その家族が国家を脅かす事件の最前線に巻き込まれることは、剃刀の上を裸足で歩く恐怖と苦痛を与えられるようなものだ。


 ひとりだけならば良かった。福音伝達者としての自覚は皆無に近いが、少なくとも、こうした国家命令が下ることは覚悟はしていた。だが、ヴォルトは違うだろうとレセナは嘆く。なぜ巻き込むのかと、国家に対してどうしようもない憎しみすら覚えた。


「ねえ、ヴォルトは関係ないでしょ。どうして呼ぶの? ねえ、なんとか言ってよロザリロンド」


 混乱し、憤りを吐くレセナを前に、ロザリロンドは神託を告げる預言者のように冷えた声で告げる。


「それが国の決定だ」


 重い一言だった。いかに自分が無力かを思い知らされる言葉だ。


 泣いた膝が真紅の絨毯に落ちる。これが仮初の自由を選んだ末の結末かと、かつての選択を呪いたくなった。


「レナ、俺の意思を無視して勝手に話を進めるな」


 殆ど涙で滲みかけた目でヴォルトを見る。彼が腰のベルトから引っさげた二振りの剣を鳴らしながら立ち上がり、レセナの傍に立つ。頭ひとつ分高い目線がロザリロンドを見下ろす。


「王立騎士団のヴォルト・ハーデルだ。国務院からの勅命でここに派遣された。用件を聞かせてもらおうか」


「ローザンヌ修道騎士会ロザリロンド・ベタンクールだ。神天院がフィアラル法院長の命により、我々三名でゾルデ・クーパーを捕獲する」


 ヴォルトの目が細まる。


「詳しく聞こうか」


「あまり時間は浪費できない。手短に話そう」


 レセナを置いて、二人が話を進めていく。他人が読む小説を後ろから眺めているような気分だ。何もかも大事な取り決めから取り残され、知らぬ間に道を作られた後になって、さあ歩けと背を押される。レセナだけが、自身に置くべき“理由”を持っていないからだ。


「開示できる情報がそれだけか? それとも持ち合わせている情報がそれだけなのか? 俺には作為的に隠されているように感じるんだが」


「王立騎士団ならば、上の命令に理由を問うことはしないだろう。此度もそれと同等と考えれば良い」


「ご高説ごもっとも。まずはレナの“感覚”を手がかりにゾルデの足跡を追う。そういうことでいいんだな?」


 話が進んでゆく。演者のはずが、劇場から外され観客になったように。


「制限時間はある。対策本部がゾルデを殺害するまでに、奴を生け捕りにする必要がある。何より、我々が動いていることを対策本部に知られるわけにはいかない」


「……分かった。あんたの指示に従おう。レナ、そろそろ立ったらどうだ?」


 唐突に劇場に呼び戻される。見上げたレセナへと視線を合わせたヴォルトの瞳が、感情を消したように黒ずんでいた。表情は別人のように硬かった。


 ヴォルトは仕事中いつもこんな顔をしているのかと、ふいに、寂しさが産まれた。


「ヴォルトはいつもそう。ひとりで大人になってひとりで進んでゆく。あの日から足を止めたのが私だけみたい」


 ヴォルトだけを家族としたあの日から、レセナは未来を忘れ隣ばかりを見ていた。きっと一緒に歩いてくれると信じていたから、レセナは彼に寄り添い理由を預けて生きてきた。だが、気付けば彼だけが成長して一人先を進んでいる。ならば、彼を理由の支えにして生きてきたレセナの支柱は、一体何処に置けば良い?


「レセナ・グランジャ、状況を考えてくれないか?」


 ロザリロンドが疲労混じりの吐息をついた。苛立たしげに前髪をかき上げた歴戦の施術士の顔には、拭いようのない蔑視がこびりついていた。


「呑気に会話をしている暇は無い。お前たちの服装はここでは目立つ。衣装棚にある外套を羽織れ。ここは情報部の拠点だから変装用の服もある。準備が終わり次第ここを出る」


 ロザリロンドが応接間を出ていった。扉の閉まる音と共に、静寂が耳朶を震わせた。しじまの中で、レセナは何を考えるでもなくのろのろと立ち上がる。


 ただ敷かれた道を歩くだけの毎日だった。今までと何も変わらない。ヴォルトを追い王立騎士団の門を叩き、国に拒絶され、残された選択肢がただひとつであったあのときと、何も。


 嫌だ嫌だと駄々をこねても、身分から逃れることは出来ないのだ。理由は後になって着いてくる影法師だ。


「レナ、俺のことは考えるな。今は目先の事に集中しよう」


 レセナの華奢な肩にヴォルトの手が置かれる。


「ヴォルトは私が福音伝達者になった方が良いと思う?」


 ヴォルトの手を剥がして、応接間だというのに何故か置かれた衣装棚を開く。中には様々な職業の衣装が収まれていた。


「選ぶのはお前だよ。嫌ならそれで良い。その時は俺が守るよ」


「福音伝達者は神の生まれ変わりなんだよね。神の感覚を持ち、人々に福音の調べを齎し、幸福へと導く。人の外枠を越え、世界に遍く人々への愛ゆえ、自らを廃しすべてを捧ぐ。でもね、違うんだよ。私の想いは私のもの。この体も、心も、人としての私のもの」


 余所行き用の服を脱ぎ、裸体を晒す。


 ヴォルトが焦ったように呻き声を上げた。


 レセナは振り返り、笑う。


「私を見て。私のどこが万能?」


 ヴォルトが瞠目する。


 人は何処までも人なのに、称号ひとつで人は神になれる。いま、レセナは神だ。国が求めれば、簡単に神を作れるからだ。そんな即席の神が、いったいどうして自覚を持てようか。


「私はシスティーナみたいになれないよ。理由が無いからね」


 首を振ったヴォルトが顔を抑える。


「もういい、早く服を着ろ。俺には福音伝達者の苦悩は分からない」


「そうだね。この悩みは誰も肩代わりしてくれないよね」


 棚から町娘の衣装を掴み取る。ストラスト出身の者がよく着る、上衣とスカートが繋がった、赤と緑を基調とした布地で作られた服だ。それを着た上に重ねてフードつきの外套を纏う。


 あまり時間を浪費しているとまたロザリロンドに嫌味を言われるから、レセナは何も言わずに応接間を出た。廊下には、壁にもたれかかって腕を組んだロザリロンドがいた。レセナと同じように外套を被った姿で、腰に下げた細剣が隠れていた。


「街中一帯に査問法院が散らばっている。下手に出るとそれだけで足がつく。地下から行く。もう一人はどうした?」


「着替えてるよ」


「暢気なものだ。さすがの私も、今回ばかりは法院長の采配を疑う。これしか無いにせよ。やりようはあるだろうに」


「それは新手の嫌味?」


「そう聞こえたのなら、まだ自覚しているのだろう?」


 口端を吊り上げて、ロザリロンドが笑う。


「いつまで“使命”から逃げ続けるつもりだ。その無責任さの影で、猊下がどれだけの命をお救いになられたか。その間、お前は一体何をやって来た? 施術の研究? 開発? それもいいだろう。お前が“ただの人であった”のならな。現実は違う。本来であれば、お前もまた、私がかしづくべき存在である、いと高き福音伝達者だ」


「そう思うのなら、その私に会うたび出てくる暴言の数々を今すぐにでも撤回してくれない?」


「人の価値は己の存在理由を全うすることにある。それを蔑ろにするなど、神の意思に背くも同然。気に食わぬというなら、神殿に入れ。それが嫌だというのならば結構、私もそれ相応の相手をするまでだ」


 腕を解き、壁から背を離したロザリロンドがレセナの鼻先まで迫る。猫目がレセナをねめつける。


「ひとつはっきりさせておこう。私はお前が嫌いだ。その無知さ加減、その浅慮さ、軽薄で、ふらふらと道を定めない優柔不断さ、子ども染みた振る舞い、すべてが癇に障る。貴様のような子どもが、ああ、そうだとも……福音伝達者にならなくて心底嬉しく思うよ」


 扉が開く。


「その辺にしてくれロザリロンド」


 同じ外套を着たヴォルトが二人の間に身体を滑り込ませる。


「これから三人で動くんだ。もし戦闘に入ればお前らの仲違いが致命的な隙を生む。俺が敵ならその隙を喜んで拾うぞ? なあ、あんた仮にもプロだろ。仕事に個人的な感情を持ち込むな」


 レセナの責任からの逃亡が発端であっても、ロザリロンドの攻撃は所詮感情の発露だ。だから、ロザリロンドの価値観で悪に傾いた天秤も、ヴォルトが持ち出した仕事ではかれば彼女が悪になる。そして、彼が言う通り彼女はその道のプロだ。指摘されれば自らの間違いにはすぐに気づき、修正する。


 ロザリロンドが素直に首肯し、軽く頭を下げた。


「失礼した。あまりにもその娘が子どもなのでな。だが、ここは謝罪しよう。私も大人気なかった」


「レセナもいいな?」


 怒気で震える歯の根をかみ締めて、レセナも頷いた。


 本当に正しいのはロザリロンドであり、ヴォルトだ。何もかも自分が間違っていると分かっているから、致命的な時間の浪費を防ぐためにレセナも感情に蓋をした。


 ヴォルトが細く息を吐く。


「よし、行こう。時間がないんだろ。ロザリロンド、案内してくれ」


「着いてこい」


 歩きながらロザリロンドが説明する。


「先ほどその娘にも言ったが、地上は査問法院が網を張っている。ゾルデに対する網であろうと、これは我々にも有効だ。下手にこの敷地から出ればすぐに足がつく。地下から外に出るぞ」


「誰に見つからなけりゃいい? 先にそれを把握しなきゃ依頼はこなせないぞ」


「査問法院、学術院関係者。このふたつには絶対にバレるな」


「どっちも対策本部の召集リストに入ってる。どちらにせよ、本部の連中に気づかれたらすぐにそいつらに伝わるぞ。やっぱり先に背景を話せよ」


 突き当たりを右に曲がり、伸びた廊下を進む。


「国家の威信に関わる。言えない」


「少しは信用しろよ。いざというとき優先順位が分からなきゃ死ぬんだぞ。そうなれば余計に国家の威信とやらに関わるんじゃないのか?」


「我々が失敗しても真実が闇に葬られるだけだ。大筋は変わらない。我々の行動は、いわば保険だ」


 ヴォルトとロザリロンドの応酬を後ろで聞きながら、レセナは考える。ロザリロンドの言い分は、普通に考えれば組織のあり方としては当然だ。国家の威信とやらに直結する重要な情報を現場の人間すべてに話す方が非常識だ。だが、それもいまこの場では逆だ。“福音伝達者に隠し立てはできない”のだ。常日頃、福音伝達者を守護し、傍にいるローザンヌ修道騎士会が、そんな当たり前のことに気づかないわけは無い。


「ヴォルト、無駄だから黙って。ロザリロンド、“視る”よ。いいね?」


 ロザリロンドの歩みが、ほんの一瞬だけ止まる。


 ロザリロンドはローザンヌ修道騎士会の会長であり、責任ある立場だ。対して、レセナもヴォルトも国に要請を受けて招集されてはいるものの、根本的には部外者だ。ふたりとも秘密事項を耳に入れるほどの立場に無い。だから、ロザリロンドは自ら情報を齎したという事実を残す事ができない。残された手段は、福音伝達者の感覚を使うしか無い。


 レセナは腕を伸ばし指先でロザリロンドの背に触れる。まぶたを閉じ、感覚野を広げた。


 福音伝達者が持つ“神の感覚”は、触れた人物の記憶を読むことができる。福音伝達者に嘘は通じないのだ。


 ロザリロンドの記憶の表層が指を伝い逆流してくる。すべてを読み終えたとき、レセナに鈍い納得が落ちた。背筋に嫌な汗が流れる。


 十年前のストラスト研究所で発生した酷死天使事件は、その実、事件背景が何一つ判明していない。確証は見つからず、本来ならば証拠不十分で確定できないはずの犯人が、いつの間にかゾルデ・クーパーになっていたのだ。どこかで情報の不正操作を行われている可能性がある。


 即ち、捜査担当であった施術士特別査問法院、捜査協力をしていた学術院が事件に絡んでいる可能性が高い。


 そして、昨日再び事件が発生した。捏造された犯人へと集約された、偽りの道筋を辿らされている現状に、神天院はようやく立ち上がったのだ。だから、表向きの情報ではなく、福音伝達者という絶対的な感覚を持つレセナを頼り、ゾルデから生きた情報を得る必要があった。それも、早急に。


 あるのはねっとりとべたついた社会の闇だ。


「やっぱり私は、アレラルが嫌いだよ」


 レセナは吐き捨てる。


 これは、国の不正を暴く内部捜査だ。フィアラルは、これを元手に政府内部での権力拡大を画策しているのだろう。


 大勢の国民が死んでいる裏で国がやっていることがこれかと、レセナは暗澹たる気分になる。


 館の最奥部にある部屋に入る。入り口から祭壇まで敷かれた真紅の絨毯を歩いていき、ロザリロンドが立ち止まる。


「この奥が隠し扉になっている」


 祭壇の裏に回り、天使が天へ登る様を切り取った絵画を叩くと、壁の一部が回転した。人一人分の入口が出来上がる。


 ロザリロンドが指先に光を灯す。通路内部に蔓延っていた闇が散らばる。三人は仕掛け扉から、施術の明かりを頼りに中に入った。階段を降りると、人が二人横並びになれる程度の細い通路が続いていた。


「さすが、高級官僚は自衛が変質的だな」


 薄暗い通路を歩くヴォルトが、通路の内壁を観察しながら感心するように言った。


 滑らかな壁面には、夥しい数の“文字”が縦横無尽に駆け回っている。そのすべてが、音素体系施術の媒体だ。音素体系は“文字”に神秘を見出すため、こうした罠に特化した施術だ。


「下手に触れるなよ。神天院関係者以外が入ると自動発動するよう、指示式が含まれている。今は私がいるから停止しているが、範囲外に出ると発動するぞ」


「発動したらどうなるの?」


「高位施術士の結界でも防ぎ切れない攻撃に晒される。うちのシャルルでも手を焼くほどのな」


 もはや笑うしかない。


 ローザンヌの守護結界担当であるあのシャルルの名を引き合いに出されれば、レセナの結界など紙屑同然だ。レセナは研究時代に精密な結界を使用したことは何度もあるが、秘蹟体系の汎用結界で、高位施術士のものすら突破する戦闘出力の施術を防御するのは無理だ。


 怖くなって思わずロザリロンドに抱きつきたくなる。屈辱の極みだ。彼女との距離が離れすぎないようにヴォルトの隣を歩く。


 長い通路を進んだ先、再び階段が姿を表した。


「これ、どこに出るの?」


「宿だ。神天院が抑えている部屋に通じている」


「こんな通路まで用意して、神天院は恨みでも買ってるの?」


「情報部は国内信者からかなりの情報が集まる、国内きっての諜報機関だ。いまの時代、情報は国の生命線だ。当然の自衛だろう。あの館も普通の施術士なら百回は死ねる罠が至る所に設置されている。死にたくなくば下手に動くな」


「そういうことは先に言ってよ」


 事件解決までロザリロンドの側にいなければならないことに、心底うんざりした。


 階段をしばらく登り短い通路に出る。行き止まりの壁をロザリロンドが押すと、入って来た時と同じく、壁が切り取られて回転した。昼間の日差しが入り込み、目の奥が陽炎のようにちらついた。


 通路を出ると、寝具が三つ並んだ家族用の宿部屋だった。仕掛け扉には、やはりこれ見よがしな宗教画が設えられている。意外とすぐにばれるのではないかと、レセナは頭の片隅で思うが、すぐに気づく。これはあぶり出しのためのひとつの罠だ。隠し通路を見つけたと喜んで入れば、致死の罠が待ち受ける地獄の間口が開く。


「研究所は監視されてて昼間は入れないだろう。いまの間にできる限り街中を回って“感覚”してもらう」


「随分と原始的な方法だな。索敵が得意な元型体系の施術士でもつれてくればよかったんじゃないか?」


 もっともな意見をヴォルトが出す。提示された手法があまりにも前時代過ぎたからだ。


「査問法院の監査官を舐めるな。見慣れない“妖精”がいればすぐに気づかれる。それに、普通の五感で得られる情報では先手が打てない」


 寝具の脇を通ったロザリロンドが、廊下へと続く出入り口の扉に手を掛ける。


「ここから先は敵地と思え。見つかった場合、最悪牢獄行きだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る