第一章/人の背には糸がある 6

 福音伝達者とは、アレラル王国における要職のひとつであり、時に国の最高意思決定機関である最高国務評議会を凌ぐ権力を有する特別な称号だ。その歴史は建国以前にまで遡り、王国建国の立役者である由緒正しいものだ。


 そして、福音伝達者がそれほどまでの絶大な権力を有し、ローザンヌ修道騎士会という、世界的に見ても類の無い最強の護衛を率いている理由はただひとつ。感覚と呼ばれる特殊な力ゆえ。感覚とは即ち、人の知覚を超える神の感覚と称されるほどの直感、読心、時に未来や過去すら見通す時間すら超越した視覚。


 アレラルのみならず隣国たるメルキセデク皇国の国教、神を仰ぐ神天教にとって、その存在は神に等しい。


 歴史上、世界に常にただひとり存在するはずの福音伝達者。この常識を覆す二人目の福音伝達者がレセナだった。そして、国のあらゆる諜報機関からその希少性を知られず、しかしその特別性故に常に監視される存在だった。


 凍り付いた時が動き出す。ロザリロンドが怒気の孕んだ声で宣告する。


「貴様の現状維持には血税が湯水のように使われている。拒否は許さん」


 レセナが唇を噛む。


 国家保安院公安部、神天院福音情報部、特務院国防情報監査部、同院施術士特別査問法院と、すぐに挙げられるだけでこれほどの機関から監視と保護をレセナは受けている。それも、一切の理由を知らされずにだ。レセナが福音伝達者である事実は、政府高官であってもごく一部しか知らされていない。


 理由はふたつ。レセナが福音伝達者になることを拒んだのである。紆余曲折の末、国は最終的にこれを条件付きで認め、特位福音伝達者という要職をレセナに与えた。国の要請を受けた際に国の指揮下に入ることを命じることとなる。


 また、情報的見地および外交上の理由から、カルヴァリア外部に派遣できる使いやすい福音伝達者が求められたことも大きい。そして、紛いなりにも福音伝達者であるレセナの身の安全を守るためだ。


 レセナの選択が国を動かし、理由も知らぬまま多くの機関が監視と保護を命じられ、これに予算が投じられているのだ。並の人間であれば憤りも覚えよう。しかし、裏を返せば、そうまでしても使い勝手の良い福音伝達者を国が欲しているのだ。


 これが、レセナが己の未来を見られず、“理由”を見つけ出せない原因だった。


 先日、ミネルヴァが告げた噂をレセナは思い出す。


 ――福音伝達者は長生きしない。


 レセナに残された時間はあまり無い。五年か、十年か。少なくとも、二十年は生きられない。


 震え出した拳を握る。拒否をしようと唇を開こうとして、ロザリロンドの感情の無い視線が目に入る。


 国の命令には逆らえない。拒否をしたその瞬間、恐らく国は強制的にレセナの身柄を拘束し、国内に喧伝するだろう。二人目の福音伝達者が現れたと。そうすれば、レセナは現福音伝達者システィーナと同じ人生を歩むことになる。そしてそこには、ヴォルトと同じ道を歩む未来は存在しない。


 レセナがこうして仮初の自由を得ていられるのは、少しの不自由と心の不安定、そして国家の命に従うことを約束しているからに他ならない。


 権力の腕を振りかざすだけで、レセナの道程など簡単に決まる。糸を垂らされた操り人形だ。


「頷くしか、ないんでしょう?」


「分かっているのなら話は早い。私と共にアレラル北部、オーランド県ストラストへ飛べ」


「ストラスト? さっきゾルデ捕獲って言ってたよね? 一体どういうこと?」


 ロザリロンドがこめかみを押さえる。話すべきか隠すべきか思案しているのか、瞑目したロザリロンドが慎重な口調で言葉を手繰る。


「昨日、ストラスト研究所で酷使天使が使用され、研究所員全員が殺害された。そして、酷死天使が保管されていた試験管が七本強奪された」


 酷死天使――それは全世界を恐怖に陥れた悪魔の施術。“すべての存在に命が内包されているならば、命の根元にこそ世界が存在する”という天命体系が作り出した、決して産み出してはならなかった忌み子。


 レセナも王立研究所時代に資料を見たことはあった。だからその恐ろしさも記録という意味で知っている。


 酷使天使自体は、芥子粒ひとつよりも小さい、細菌のような存在だ。しかし、一度人間の体内に入り込み施力を確認すると、これを取り込み複製指示式が働き増殖。一定密度に達すると同時に極小爆発する。血管やリンパ線を通り全身に巡った酷死天使の爆発は、体内を破壊し尽くす。最長で約五分という早さで人間の尊厳を喰らい尽くすのだ。致死率は百パーセント。罹患したら最後、あらゆる施術も投薬も無意味となる。そして、最悪にも空気感染で広がるため、一度発生すれば街のひとつは当たり前のように沈む。


 十年前、同じストラストで使用された酷死天使により、街の住人はほぼすべてが死亡した。生存者は僅か一名。生存者とされた少年も、事件後に精神を病み自殺したとされる。その悪夢が膨大な時を経て再現されたのだ。


 この事件の犯人が、当時ストラスト研究所に勤めていたゾルデ・クーパーだ。


「現状は? 封鎖は済んでるの? ううん、違う。燃やしたの?」


「いや、既に収束している。推測でしかないが、研究所内部だけを襲い、勝手に収束したと思われる。詳細は不明だ。ゾルデの行方も判明していない」


 ロザリロンドのあやふやな物言いに、レセナは驚愕を通り越して呆れるしかない。この女は、いや、最悪の場合、国は本当の意味で今回の危機を理解していない。


「勝手に収束? 私が見た資料では、酷死天使は都合よく収束するような甘いものじゃない。そもそも、酷死天使は制御なんてできない。酷死天使の実験は秘蹟体系の“聖域”、対極体系の“両義結界”、精霊体系の“電磁結界”の三重に施された完全密閉空間じゃなきゃ行えないよう規定されている、第一級施術災害指定された施術なんだよ。もし仮に制御されていたのなら、いまの性質を上書きして制御できる指示式が作られていたのなら、それは十年前のものとは全く異なる新しい酷死天使なり得るんじゃない! この意味が分かってるの?」


 そこまでまくし立てて気づく。吐きそうになって口元を抑えた。


 ロザリロンドが静かにレセナを睨み返す。


 分かっていないはずがない。


 だからレセナが召還されたのだ。


 レセナの招集が発生したことで、その深刻度はかなり高い。恐らく、施術災害対策本部は設置され、特別編成隊が既に現地に向っているのだろう。レセナに求められているのは、ゾルデの行方に関する一般的な情報見地とは異なる情報収集だ。福音伝達者による過去を“視る”感覚の使用が必要であるということだ。


 つまり、下手をすればアレラル王国という国そのものが亡ぶ。


 あまりに重大な事件に、レセナは血の気が下がる思いがした。


「ことの重大さを理解したか? 事態は一刻を争う。予想の通り、最高国務評議会の命で施術災害対策本部を設置。既に国家憲兵隊が国内全駅に検問を張っている。特務院、国家保安院も情報収集および事件捜査に乗り出した。外務院も外交筋を通じ、地理的に逃亡の可能性が高いセルシア共和国へ国境封鎖を依頼中だ。神天院も要請により福音情報部を派遣している。事実上、国家の非常事態宣言だ」


「待って、ちょっと待ってロザリロンド」


 最悪な状況だというのは理解できた。だが、回り始めたレセナの思考が、何かがおかしいと悲鳴を上げていた。


「話は分かったよ。どうしてあなたが来るの? 福音伝達部は、ローザンヌ修道騎士会は“福音伝達者の護衛”が目的であって、公安事件を担当なんてしてない」


「非常につまらない質問だ。いまの貴様は何だ? それが回答だ」


 違う。そんな当たり前のことを聞きたいのではない。レセナの頭が吹き荒ぶ嵐のように回転する。


「なぜ私が派遣されるの? そこまで人員が割かれるような緊急事態。逆に言えば、アレラルの全諜報機関をも投入される事案に私を使う意味があるの? 私が必要な理由が分からない」


 そのとき、ロザリロンドの目が一瞬泳いだ。それは、福音伝達者としての“感覚”が無ければ分からないほどの刹那の間だ。


 福音伝達者は神の感覚を有するとされる。だが、それでも人の身である以上限界はある。国家機関の殆どを投入した対策本部にたったひとりの福音伝達者を入れる必要性が、しかも万が一にも危険を犯せられない要職の人間を、危機の最前線へと向かわせる理由がレセナには理解できない。


「それに、ここに来るのに労力を割いたって言ったよね? あれは一体どういう意味――」


「時間が無い。もう飛ぶぞ」


 問いを無視したロザリロンドの指先に光が灯る。光が異音を吐き出す紫電となり、ふたりを囲うように球形状に展開される。


「シャルル、状況を開始する」


 この場には居ない男性にロザリロンドが問いかける。返事はすぐに返ってきた。精霊体系による遠隔通信施術だ。


「会長、要請通り転移の準備は済んでいます。今すぐにでも行えますよ」


「分かった。今から転送してくれ」


「了解、状況を移ります。会長が戻られるまでステファン老と行動を共にします」


「私はしばらくカルヴァリアに戻れない。編成は先に伝えた通りだ。猊下を頼む」


「ご安心を。猊下は我々が責任を持ってお守り致します。ご武運を」


 紫電が消え、今度は虚空に青白い光が生まれた。光は円陣を描きながらふたりの周囲を囲っていく。空間がぐにゃりと歪み、上下左右の感覚が狂っていく。


 視界が青に染め抜かれ、意識に空白が生じた。

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