第一章/人の背には糸がある 5

 仕事に戻る二人の後姿を喫茶店の出口で送り終えて、レセナはひとり家路につく。街路を歩きながら、これからのことを考える。だが、すぐに答えに辿りつけるわけもなく、頭が痛くなってすぐさま思考を放棄した。いまは少し休みたかった。


 折角時間も空いたのだから、久しぶりに歌劇でも覗いてみようかと思い立つ。ラーン・ネルベ劇場へ最後に足を運んだのはいつだったか。二年前、ヴォルトと共にニーフィア物語を鑑賞しに行ったのが最後だった。ニーフィア物語は、かつて、魔女と呼ばれた強大な力を持つ施術士が反乱を起こした時代の戦記であり、福音伝達者レセナ・ニーフィアと放浪の賢者ユリウスの恋物語だ。偶然にも名前が同じだったから、レセナはこの物語が気に入っていた。


 ふと、通りすがりの男性と肩がぶつかる。謝罪も無く走り去る男性の姿にレセナは違和感を覚えた。注意深く周囲を探ると、少なくない数の人たちがあちこちへ走る姿が見受けられた。その中に、レセナも見た事のある人物があった。


「査問法院、何かあったの?」


 国家保安院施術士特別査問法院。通称査問法院と呼ばれる彼らは、施術士法に則った施術士の監視と裁定権を有する行政機関だ。施術士法を甚だしく犯す犯罪施術士への逮捕権を有するため、施術士らからは非常に恐れられていた。


 かくいうレセナも、十年前に査問法院に目をつけられたことがある。粘着的な体質と、人を信じるということを生まれてすぐに母体に忘れてきたとしか考えられないほど、変質的な疑り深さでレセナを追い詰め、一時期人間不信にまで貶めた。当時僅か六歳の少女であるレセナに対してだ。だから彼らにあまり良い感情を抱いていなかった。何より、国家保安院の一部門でありながら、アレラルの行政機関の呼称である“院”を名乗っているふてぶてしさが気に食わない。


「さっさと潰れればいいのに、あんなところ」


 気分が砂丘のように荒み、歌劇を見る気力が失せる。このまま帰ってしまおうと止めた足を踏み出すと、無邪気に走ってきた男の子がつま先を石畳の隙間に躓かせ、盛大に転んだ。勢いがついていたのか、そのままでんぐり返しの要領で三回は回転し、レセナのつま先の前で大の字になる。


「え? え? ボク、大丈夫?」


 びっくりしてしゃがみ込んだレセナは、転んだ男の子の身体を起こす。半ズボン半袖から伸びるむき出しの膝と肘が擦れて、血で滲んでいた。かなり痛そうだ。呆然としていた男の子が、やがて痛みを覚えたか顔を涙でぐしゃぐしゃに泣き始めた。


「ああ、泣かないでボク。大丈夫、すぐに治るよ」


 泣き喚く男の子の患部に指先を添えて、レセナは軽く集中する。指先に青白い淡い光が灯り、時間を逆戻しにしたかのように傷口が塞がれていく。大した時間も掛からず傷が治ると、レセナはハンカチで残った血を拭った。


「ほら、もう治った。だから泣かないで、君は強い子でしょ」


 レセナの声で自分の状態に気づいた男の子が、恐る恐る傷があった場所に触れ、完治したことを知るとおずおずと立ち上がった。男の子の表情には困惑。


「お姉さん、施術が使えるの?」


「そうだよ、お姉ちゃんは施術士だよ」


 涙を枯らした男の子が、夏に咲く華を思い起こすように、ぱっと笑顔になった。


「本当? すごいすごい! 僕も来年から聖堂学園に入って施術の勉強をするんだ」


「そっか、じゃあお姉ちゃんと同じだね。お姉ちゃんも聖堂学園に通ってたんだよ」


「ホント? すごいすごい!」


 驚きが止まらないのか、男の子は興奮気味にすごいを連呼する。元気になった姿を微笑ましく思いながら、レセナは男の子の頭を優しく撫でる。


「いっぱい勉強して良い施術士になるんだよ? それと、元気なのはいいけど足元には気をつけてね」


「うん! ありがとうお姉さん!」


 その場で何度も飛び跳ねた男の子が、手を振りながら走っていく。レセナは男の子が見えなくなるまで手を振り返して、軽く息を吐いた。


 現代において、世界とはひとつではない。現実を支配する物理法則に縛られない、独自の法則によって成り立つ世界が無数に重なりあって存在する。


 施術とは、その独自の法則によって作られた“施術世界”の秩序を、現実世界へ無理やり引っ張ることで現実には起こり得ない奇跡を具現化する力だ。


 レセナが使用したのは、“世界は神より染み出した聖性によって作られている”という世界法則から神秘を生み出す、“秘蹟体系”の施術。人はみな神の似姿であるという秘蹟世界の秩序から、治癒の性質を導き出した奇跡の光だ。


「施術か。いままで施術を使ってあんな風に感謝されたこと、なかったかな」


 気づけば鬱々としていた暗い気分が、どことなく晴れやかになっていた。


 何となく楽しくなって、軽い足取りで歩き出す。レセナが自室に辿り着く頃には、陽が完全に昇りかけた頃だった。


 日光が落とす短い影を踏みながら部屋に入る寸前、レセナの“感覚”が違和感を感じ取った。


 部屋に誰かが居る。それも、ヴォルトではない不審者だ。


 レセナの頭に警戒音が鳴り響く。


 この場面に最適化された施術を検索、即座に攻性施術を弾き出して編み始める。発動待機状態にすると同時に扉を叩きつけるように開き、室内へ飛び込む。


 人影が椅子に座っていた。思考が泥棒だと弾き出し、反射的に施術を行使しようとした瞬間、人影の声がレセナを制した。


「遅い。どれだけ私を待たせるつもりだ。ここに来るのにそれなりの労力を割いたというのに」


 海の底のように深く、暗い女の声だ。レセナはその声の主を知っていた。視線が女の姿を捉える。


 菱形状の乱れ髪に、背に伸びる二房の尾。猫を連想させる鋭い瞳。世界の中心軸を体現するように真っ直ぐに伸びた背筋。


 神天院福音伝達部護衛職ローザンヌ修道騎士会筆頭。


「ロザリロンド・ベタンクール――あなたが何故私の部屋にいるの?」


 ロザリロンドが鼻を鳴らす。嘲笑だ。


「なぜ? 貴様がなぜと問うか。それが分からぬほど愚鈍ではないだろう?」


 無機質な石の視線がレセナを穿つ。立ち上がったロザリロンドが、重要な公的文書に用いられる羊皮紙をかざした。文書には神天院の院章と法院長フィアラル・エーフィの署名があった。


「神天院法院長フィアラル・エーフィ様より勅命だ。特位の名の下に、命に従え」


 レセナの心拍数が上がる。


「レセナ・グランジャ。いまより貴様は福音伝達者となり、ゾルデ・クーパー捕縛に協力しろ」


 レセナの心が凍る。

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