初夏の陽炎と月

早朝の研究室は誰もいない。その中で僕は一人作業をしている。研究データを集めるためなのだが、日中は測定機械の奪い合いなのと研究室の面子と価値観が全く合わず、僕は夜中から早朝に研究をして、そのまま研究データを日中に纏めて帰る、という何とも過酷な生活を余儀なくされていた。


あまりにも体力的にきついので、流すのはクラシックになる。爆音でクラシックを流しながら作業していると、急に肩を叩かれて振り返った。


「おはよう」

「ああ、おはよう。君だったのか。随分と早いんだな」

「うん。今なら遙しかいないから」


そういうと、彼は僕の様子とPCから流れている音楽に興味を示した。従弟からすると意外だったようだ。


「なにしてるの?」

「今?ああ……培地を作ってるよ」

「培地?」

「うん。今、培養している細菌を単離しようと思ってね。うまく行くといいんだけど」

「え?バイオの研究してるの?」

「うん。僕の卒業研究は、細菌の培養だ。一応、悪性新生物に効果がある成分があるらしい。遺伝子同定までやる」

「え?遺伝子同定?え?」

「何を驚いている?佐藤君や弘樹から聞かなかったのか?」

「いや……皆、僕に君の話題は振らないよ。喧嘩してると思ってるから」

「喧嘩っていうか……彼女が居るからじゃないのか?」

「まあ、そう。別れたけどね」

「え?」


今度は僕が驚く番だった。ビーカーの中の液体をかき混ぜる手が止まる。よかった。培地の主成分を測っている時ではなくて、と心底安心していると。


「別れたの。だから来てる。彼女が居たらこれないじゃない?」

「ああ……うん、そう、だね。今は仕事じゃないからな。仕事だったらそうはいかないだろう」

「うん、まあ」


ヴァイオリンの音が響いている。PCの画面の中では女性がヴァイオリンを奏でている映像が流れており、僕と従弟様の間にクラシック的な雰囲気が作り出されているのは従弟様にとってはいいことだったらしい。


「何聞いてるの?」

「Jean Sibelius」

「僕はクラシックには詳しくないんだけど」

「フィンランドの作曲家。ヴァイオリニストだよ。綺麗だから聞いてる」

「ああ……それでね。君のアンチはロックになってるみたいだけど?」

「そうなの?」

「うん、それもエロ系楽曲になってるよ」

「別にそういうのも聞くけどね」

「そうなの?」

「うん。僕はあまり興味がないだけであって、エロの全てに絶滅を願ってるわけではない」

「うーん。やっぱり遙は言い回しが独特だよね」

「そう?」

「うん。彼女にさ、遙と同じ言い方したらガチ切れされて」

「話す内容が合わないと、多分僕の話し方は、ただ鼻につく嫌味だとしか受け取られないぞ」

「早く言ってよ」

「僕の口調で悪いことをされては困る。僕の口調は詐欺と誠に相性が悪い」

「いつもそんなことを考えて話してるの?」

「うん」


従弟からするとそれは想像していなかったようだ。


「ねえ、ご飯食べてる?」

「食べてるよ」

「僕さ、食べてないから食べようよ」

「今か?」

「うん、今。まだ平気だろ?それ、これから滅菌するんでしょ?」

「……周りが君に僕の話題を振らないなんて、やっぱり嘘じゃないか」

「嘘じゃないよ。なんていうか、君だって直接言わないようにしてる」

「揉めるからな」

「うん」

「じゃ、食べよ。飲み物ある?」

「お茶を入れてくれば」

「じゃあ、淹れてきて。僕ペットボトルあるから」

「少しだけ待ってて」


紅茶を入れてくる、と教授の部屋まで行き、紅茶を入れて帰ってくる。一応は従弟の分も用意している。飲まないとわかっていても。


「君の分だけでよかったのに」

「飲まないと知ってるさ。でもこういうのは、無いと切ないものだと思う」

「そうなの?」

「たぶんね」


ここに座ってよ、と椅子をポンポンされるので言われたとおりに座る。大きな桜の木の真向かい。既に散った桜について少し想っていると。


「ここ、桜が見えるんだね」

「ああ。もう散ったけれどね。桜並木が凄かったよ」

「見たの?」

「ああ」

「誰と?」

「ここの皆と。僕一人じゃない」

「うん。でもなんか、ムカつくよね」

「いやなぜだ?」


ean Sibelius - Concerto for Violin and Orchestra in D minor, op. 47と書かれた曲が流れている。従弟が饒舌だな、と思いながら頭に疑問符を浮かべていると。


「遙のそういうとこ、なんで見せちゃうのかなあって」

「なにが?」

「ヴァイオリン聞きながら作業してたりさ、紅茶を入れてたり、柄シャツ来てスカート履いて白衣着ちゃったりさ。で、食べてるのはマドレーヌでしょ」

「これはフィナンシェだ」

「もうマドレーヌでいいじゃん?」


なんなんだよもう、と従弟様が若干不機嫌になっている。一体何なのだろう。


「何故そんなに僕の行動が気になるんだ?周りにそういわれないのか?」

「言われるよ」

「過保護だって?」

「うん」

「まあ……他人は自分に都合のいいことを言うから。知らなかったら何で知らないのかというし、知りすぎれば過保護だという。そういうものだ」

「でも、さ」

「うん」


僕はさ、君が僕の前でクラシックを聴いて紅茶を飲んでいてほしいんだよ。僕の前以外ではしてほしくない。


「今君以外いないだろ?」

「うん」

「何が不満なんだ?」

「僕以外が見てるから」

「見てないと思うが?」

「見てるよ。だって、君がそういうのが好きなの教えてくれたの、佐藤君と弘樹だもん」

「なんで彼らが知っているんだ?」

「見てるから」

「どういうこと?」

「君がこうやって、一人でクラシックを爆音で流しながら作業してるの、弘樹と佐藤君がこっそり見てるから」

「ええ?僕がこれやってるの早朝だぞ?今何時だと思ってる?」

「もうすぐ7時半。でも僕が来たの6時だからね」

「うん。だからさ。普通そんなことしてたら眠いぞ?」

「だから眠い。慰謝料を要求します」

「慰謝料か……いくらだ、3000円ぐらいにしてくれないか」

「お金じゃない」

「お金じゃないのか」

「うん」

「じゃあなんだ」

「一回コスプレを要求しようと思った。罰ゲームで。でも、なんかもうそういう服着てるから、もういいかなって」

「この服か?」


これのどこがコスプレなんだよ、というと。


「魔女っぽいし、なんか透けてるし」

「透けてはいない。インナー着てるじゃん?」

「そうなの?」

「うん」

「このスカート何?」

「巻きスカートだ。ちゃんと短パンはいてるし」

「いやもうなんていうか」


従弟は何か言いたそうにしながら言わないようにしているようだった。


「なんかあるなら言えよ」

「いや……その……」

「?」

「僕の別れた彼女もそういう感じだったはずなのに、なんでこう、違うのかなって」

「彼女が本当のところはそうではないからだろ。お前がそういうのが好きだからそうなっただけなら、違うと感じるさ」

「そうなの?」

「たぶんね。僕は元々こうなんだ。君に合わせてこうしているわけではないけど、君はこんな変わった感じのことを彼女に要求しているのか?」

「うん。大体は」

「それは彼女に謝るべき所業だな。君と僕の同年代でクラシックを爆音で聞きながら何かする価値観を許容する人間は多くない。人の話し声も併せてだったり、選曲はもっとメジャーな曲だよ。ソファーに座っていたりする方が多い。今の君と僕のように君は椅子に座っていて、僕はテーブルに腰かけているなんてありえないよ」


そう述べると、彼は少し怒ったような顔をした。


「そんなにあり得なくはないだろ?」

「んーわかりやすく言ってあげようか?」

「うん」

「僕と君が行っていることを、もう少しデフォルメしてみると小児科の待合室だからさ」

「小児科の?」

「うん。小児科はアンパンマンが流れているだろ。そこで子供がおもちゃで遊んでいるじゃない?家族は診察に呼ばれるまでそこでぼうっと見てるじゃん?」

「うん。それと、この状況はほぼ同じなわけ?」

「簡略化すれば同じさ。アンパンマンがクラシックになって、おもちゃが研究の器具になっただけ。本能的に女性ってのは子供のころの小児科が怖かった記憶があるから、彼氏にそんなことを要求されたら苦痛に決まっているだろう」

「そ、そうなの?僕ってそんなに医療系のことしてる?」

「まあ、うん。僕は体弱いし、君の親族だからその感覚に慣れているよ。小児科も別に抵抗はないさ。ただ、元気な人には苦痛だろう」


紅茶を一口飲んで、フィナンシェをかじる。これ美味いなあ、と思っていると。


「これ好き?」

「うん。どこの?ローソンじゃないな」


と思って従弟様を見ると、従弟が自分を指さしてるので。


「いや……そこまでして君が好きだと僕に言わせたいのか」

「うん」

「従弟なんだから、そういう概念必要なの?」

「嫌いな従弟にはなりたくない」

「僕がいつ君を嫌いになったんだよ?そんなこと言ったことないだろ」

「でも、電話もしないし、メールもしないし。家にも来ないし」

「家を知らんから。電話もメールもする必要がないだろう。従弟とそんなにべったりしていたら、不審がられるぞ」

「でも、従弟なのか疑われているから」

「その方がいいぞ。言っておくが、君は結構狙われているよね。なんだかわかんないが」

「君もそうだけどね」

「僕はモテないよ」

「僕もモテないよ?」

「嘘つけ」

「ほんとだよ」


遙、痩せたよ。どうしたの、と急に心配そうに言う従弟は入ってきたときの従弟とは雰囲気が違う。彼の悩みの種が何だったのかはわからないが、漠然とした彼の不安は過ぎ去ったらしい。


「僕にはフィナンシェを食べさせたのに、君は食べないのか?」

「あ。うん、食べる」

「そうしたほうがいい」


ぼうっと外を眺めて、紅茶を飲んで過ごす。従弟が隣で食事をしている。それは僕にとってちょっと心が休まる風景で、それと同時に同じ量の苦痛をもたらすのがわかっていた。


(今日はヤバい日になりそうだな)


僕と優貴が従弟だとバレてからの人間関係はかなり深刻に悪化している。従弟がここまでモテるのを僕は想定していたけれども、僕何故あたってくるんだという気持ちが凄い。それは従弟も同様らしい。


「研究室で居場所がない」

「何故?」

「君の写真が出回っているから、よく見せられる」

「写真?」

「うん。弘樹とか、佐藤君と一緒の写真が多い。あと、着替えてる写真とか」

「着替えてる写真?」

「うん。そういうの見ると凄い不安になるんだ。僕の従妹の写真を別の男が持ってるから。服着替えてるとこだよ?いつ撮ったのって思うじゃん」

「なんだよ、それ」

「それ見せられてから、怖いんだよ。君が着替えてる写真を撮れるのはここぐらいだ。弘樹と佐藤君は撮ってない。じゃあ誰?って」


それについて僕は知ってはいたが、黙っていた。しかし、この従弟に見せてくるとは。


「平気だ。気にするな。そういう事はよくある」

「よくあるわけないだろ」

「あるんだよ」

「なんで!」

「お前のことが好きな奴は、僕のことが嫌いだ。わかるな?どうやってもそうなるらしい。僕を攻撃すれば君が振り向くと思っているからだ。そういう事ではなく、僕と君はそれほど仲が良くなく、君に影響を及ぼさないと思えば君を振り向かせるのを諦めるよ。まあ、僕への攻撃はやまないよ。君に彼女が居ようといまいと」


その事実は従弟にとって地雷のようだった。


「それ、ほんと?」

「君が僕の着替えの写真を見せられたなら、事実はそうだ。それを撮ったやつが僕が浮気をしているだとか、性的によくないとお前に思わせたいからそうしているのであって。今更だし、何回もそういうのあるからね。僕は人間は信じないよ。僕が拝金主義になっても、それは君のせいじゃなくて、僕を攻撃してきた人間のせいだから気にしなくてもいい。どうせ世の中、"金"だ」


あとは、刑務所にぶち込まれるという恐怖、殺されるという恐怖。金と恐怖で世の中ビジネスが上手くいってて、金しか要求しないならまだ優しい方だよ、と言えば。


「遙が、金だなんて……」

「別に君から金をとりたいわけじゃないんだけど。君がどうしても僕の写真が出回るのが嫌なら、見せてきたやつに精神的苦痛で慰謝料を要求でもしたら?僕の盗撮写真を買った奴が勝手に撮った奴に復讐してくれるぜ。自分の金が減ると、途端に供給元にクレームつけるのが盗撮した写真を手に入れようとするやつの大体の心理だ。ただ、そうなると君も狙われるから、慎重にね。僕はそっとしておくのをすすめるよ」


写真で済むかどうかはわからん。最終的にもっとエスカレートする場合もあるけど、と言えば。


「大丈夫じゃないかな」

「ほんとか?」

「だって。皆忘れてるから。僕が、結構怖い奴だって」

「君、優しいって人気なんだろ?」

「うん。でも、僕、結構悪い奴なんだけど。遙は覚えてないかも。一番最初の時の、僕」


僕、あの時に戻りたくなかったの。遙がそばにいたから3年まで収まってたんだけど。やっぱり遙に変なことされると、僕どうも、悪い人になっちゃうんだよね、と従弟が笑うので。


「うーん。優貴、大人しくしてろって、言われてるだろ。挑発に乗ったらダメだよ。悪いお前が好きだから戻したい奴らもいるんだよ」

「うん。でも写真は許せないので」

「よく考えなよ。自分一人で何とかしないで、そういう時こそパパに言えよ。お坊ちゃんなんだから」

「うん」

「思いつめたらダメだよ。そんなにメンタル持たないと思ったら、将来どっかの会社で同じ部署にぶち込まれるぞ」

「それはそれで」

「いや、君、大変じゃん?僕と同じとこなんてさ。1年次の再現でもするつもりなのか?」

「うん。だって一番マシだったし」

「どこかだよ……」


僕、1年次2回やってんだぞ、と言えば。


「そこ覚えてんの」

「うん。3ヶ月に1度検診受けてるだけなのに、周り中がお前が僕を孕ませただの大変だったじゃん。ただのPTSDの治療だし、原因は井上の親類じゃん」

「そこまで思い出してる?」

「うん」

「井上については?」

「巻き込まれて大変だなあと。もともと陽気だったのに陰キャになってしまったじゃん。弘樹が励ましてるけど」

「うん。弘樹がね」

「アレだって、元々は今の状況と同じだろう。女は陰湿だ。君は僕の従弟なだけなのに無粋な邪推ですべてが狂っている。脳味噌を治療してくれればいいのにな」

「怖いね。脳をぐちゃぐちゃにしたいの?」

「いや、人の着替えの写真を盗撮してばらまくような精神を治療してもらいたいんだよ。その結果に頭がぐちゃぐちゃになるのは本人の責任でしょ」

「なんだか、本当にそうされそうじゃない?」

「そんなわけねえよ。脳がぐちゃぐちゃになってることすら知覚できなくなるんだから。そんなこと、わかるわけねえよ」


僕らがそもそも正常であるかもわからないのだから。僕らが感じ取っている世界も全てうそかもしれないじゃない?君と僕が従弟であることも本当かウソかわからないかもしれないんだ。


「君は、本当に今見ているものが全部本当のことだと思うか?」


仕組まれたシナリオだとか、小説の中だと思った方が楽なんじゃないのと言えば。


「遙は、そういうから意外と優しいよね」

「僕は優しくない」

「僕も優しくないよ」


少し下を向く。君と僕がこの、本当かウソ化もよくわからない世界にいて従弟で、お互いに喧嘩をしておらず、ただ無事に暮らしたいと思っているだけなのになぜそれが叶わないのだろうか。

そばにいても、離れてもそれが叶わない。手に入れたいものはそれで、僕らはそこであがいているだけだ。他に何を求めたというのだろう。少なくとも僕は、そうなのだが。


「なあ、君が本当に欲しいものって、なんだよ」


僕は君と喧嘩しないで暮らせたらそれでいいんだよ。君が犯罪に巻き込まれず、友達と過ごしたり、仕事ができると言われていれば。僕も仕事があって仕事が続けられれば、それでいいんだ。今は大学でその状況にならないかとあがいているのだけれど。


「うん、遙と同じもの。多分ね、やっぱり最初が正しいと思うんだ」

「最初?」

「うん、最初。僕と君は最初は同じコミュニティに属していた。それが正しいから、それに僕は戻そうと思うんだ」

「どういう?」

「遙はわからなくてもいいよ。僕がこう、勝手にやるので」

「いや、その」

「ずっとそうだったろ」


従弟は紅茶を急に飲んで、カップを置くと椅子から立ち上がる。それから僕と同じようにひらひらと手を振って出ていく。どうにも長くいると似るらしい。


「またね、遙」


去っていく姿を見送ってから。従弟の座っていた後の抜け殻のような場所を見る。

普通はここでゴミとかにツッコミを入れるのだろうけど、僕はそれよりも気が重かった。


「優斗が、またなんか……はじめんのかよ……」

「優斗?」


声にドキリとして振り向く。そこに坂井弘樹が、いて。


「優斗って誰?」

「いや、何でもない。優貴に会った?」

「ああ。さっき、そこで」

「そう。ごめん、それ優貴のだから、片付ける」

「あっそ。しかし、またなんか深刻そうに悩んでんな。どうしたんだよ」

「いや……」


クラシックのBGMは優貴がわざと止めていったようだ。今の研究室に響いているのは坂井弘樹の声だけだ。もうすぐ皆が集まる時間である。


「片付けるなら早くした方がいい。俺はいいけど、他の奴らがまたうるさいぞ」

「あ、ああ。うん」


弘樹の雰囲気が、情報棟の最上階のレストランにいた時に似ていた。なんだろう、この坂井弘樹の雰囲気は。怒っているような、探っているような。


その時に、少しだけ聞こえたものが、あって。


『あの』

『うん、どうした』

『明日のシフト変わってもらっても、いいかな』

『嫌だ』

『え』

『ん?明日来ないの?バイト』

『ちょっと、病院に行かないといけなくて』

『病院?』

『うん。ちょっと』

『どっか悪いの?』

『えっと、その』

『言えない病気なの?』

『違うの』

『じゃあ言えるでしょ。何の病気で病院行くの?』

『その、生理痛が酷くて』

『生理痛?婦人科?』

『うん……だから、ちょっと休むの』

『彼氏が居るの?』

『え?いないけど?だって痛いし……体しんどいもの』

『ほんとに?』

『うん。どうしたの?』

『何でもないよ』


急にフラッシュバックする会話が、目の前の坂井弘樹の声で再生されるので僕は一旦坂井弘樹をまじまじと見てしまった。


「何?」

「いや……なんでもない」


気のせいだろう。祐奈の記憶の断片かもしれない。多分、祐奈が坂井弘樹に近い人物が知り合いだったのだろう。でも、目の前の彼と話し方が違うのだ。声は同じなのだが。


(記憶違いだろう)


祐奈が好きだった人が、誰だったのかの手掛かりを坂井弘樹が持っているような気がするのだが。でも、彼に僕の別人格を聞いてどうするというのだろう。

到底言っても信じられない話だ。小説のような感覚を彼に言ったところで正気を疑われるだけである。


カップを持ってゴミを抱えて、ぼうっとしながら研究室をでる。カップを落とさないようにしなくちゃ、とそちらに神経を集中していたので、の句は坂井弘樹の独り言に気づいていなかった。


「やっぱり、俺のことだけ思い出せてないな」












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カーテンの向こう ヒューリ @hyuri06

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