第2話 7月23日
夢を見ていた。随分懐かしい夢だ。もう戻らないと決めた場所で唯一まともだと思った人間の記憶を大学の仮眠室で思い出すなんて、と高石祐奈でありながらそうでない僕は、ゆっくりと目を覚ます。いつものことだ。昔のように"遙"、と読んだアイツはいない。
何度か瞬きをすればギターを撫でるように指の感覚が先に戻ってくる。音楽が好きなものにとって楽器に触るのは恋人に触るのと同じことだとどこかで聞いたが、いつも指から感覚が戻ってくる僕は、好きな人を撫でていたいという事なのだろうか。
(そんなわけないだろう)
祐奈は純粋に勉強したくてこの大学に来たかもしれない。キャンパスライフに憧れがある気持ちは僕にもわかる。平穏な日常が彼女の常に望むことであり、僕はそれを作り出すための存在であるけれども、なかなか僕の性格上それが叶わないのを申し訳ないと思ってここに逃げ込んでいる。
指先だけの感覚はどこか儚く、今は夏で、カーテンとブラインドで日差しを遮ってもこの部屋はじっとりと汗をかく。だから誰もここを使わないのがわかっていて、ここに隠れている。失った場所が見つからないから。
(そろそろ戻らないといけないのだろうか)
友人たちは1階のカフェテラスに併設されたハンバーガーショップのテーブルで楽しそうに話していた。それを眺めていたが、僕自身はそんなテンションじゃないのを隠し切れず、トイレに行くと言って3階の仮眠室に上がってきたのだった。
ブラインドに手を伸ばす。少し光が入り、シャ、という金属音が少しする。差し込む光が少し眩しいのと、熱気が顔にかかる。外の景色を見れば7月の夏らしい緑の広葉樹の葉の姿とコンクリートの道を歩く知らない人影だ。トートバックを持ってスマホを見ながら話す知らない大学生の姿が見える。大して興味もないので、すぐに視線を離すが、前髪が汗で張り付いたのが気になって、ジーンズのポケットにハンカチを入れただろうか、と手を入れた時にカタン、と何かの物音がした。
「ここにいたんだ」
声と同時に現れた男に僕は驚いた。こいつが来るとは思っていなかった。
「……どうして」
「帰ってこないから。様子を見てくるって言ったよ」
「君、別のクラスの奴と話してなかったか?」
「ああ。フランス語で同じ講義取ってるやつに課題を聞かれて。君はドイツ語でしょ?」
「うん。僕はドイツ語だよ。君もドイツ語取ってるじゃない?」
「うん。まあ、僕はフランス語習いたかったから」
「面白いか?フランス語」
「結構。恋愛の単語が多い」
「まあ、ロマンスの国だからな、あの国は」
体を起こそうとするが、腰の痛みで顔を顰めて一瞬止まる。ゆっくり上体を起こして立とうとすると脇に友人が腰かけてきた。
「今起きて出ていこうとしていたんだが」
「知ってるよ。まあ、暑いじゃない?」
「まあ、うん」
「飲む?」
急にハンバーガーショップのメロンソーダのカップを押し付けられそうになり、慌ててジーンズから財布を出した。最近中古市場で買ったDunhillの二つ折り財布はいつまで持っていられるかわからない。またなくなりそうだと思いながら使っている。
「いくらだ?」
「150円」
「払う」
150円払ってからメロンソーダのカップをもらって、飲んでみる。爽やかなのだが、暑さは変わらない。
「それ、僕飲んだんだけど。ついでに言っとくと、俺の友達からもらったからそいつも飲んでる」
「一人称が俺になってるぞ。いつものキャラはどうした。それに大変な事実を今言うなよ。君の飲んだメロンソーダに金を払ってしまったじゃないか」
僕がヤバい奴みたいじゃん、と文句を言うと。
「ヤバい奴だからいいんじゃない?」
「酷いことをさらっというなあ。この前君、ロッカールームにいたしどうなってんだよ。僕はわかるが、君のロッカーってここじゃないだろ?クラブハウス棟じゃなかったのか?」
「え?だって君のロッカーに入れてるじゃない?僕の」
「は?」
「覚えてないの?君がロッカー使わないから僕が使ってるんだけど」
「そうだったか?」
「うん」
「具合が悪い時に困るんだよ。勝手に鍵つけっぱでおいておかないでくれ。僕のロッカーのプライバシーが何もない」
「文句言うならメロンソーダ捨てるよ?」
ちょっと怒った感じの友人にしまった、と思う。こいつは具合が悪い人間が嫌いなんだよなあ、とため息が出そうになった。
「……随分キャラが変わって、僕はどうしたらいいかわからん」
「僕も同感だね」
この友人のふりをしている男は親戚だ。従弟なのだが、周りにそれを公言していない。面倒だから、と言って僕も殆どそれを周りに伝えていないが、そのせいで誤解が生まれているので頭を悩ませている。
「……お前のフラ語の講義のクラスメイトに睨まれたんだが?」
「そうだった?」
「何言ったんだよ。今度は」
「いや……特に?」
「他の皆には何もないのに何故僕だけ喧嘩を売られるんだよ……」
「それで髪切ってジーンズ履いてんの?」
「うん」
「風邪で声がれしたのも?」
「うん。疲れてさ」
「煙草吸ってるのかと思ったよ」
「吸ってない」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「僕、煙草吸う女の人嫌いなんだよね」
その発言を聞きながら、この親戚のキャラ変に対してどうしていいのかと思い悩む。
「君が別で取ってる講義の女性に大体、喧嘩を売られるんだよ。僕はさ、親戚とそこまで一緒じゃなくていいと思ってるから、君が取らなさそうな講義を取ってるんだけど。それをわざわざ君に説明して、君の周囲にも説明しなければいけないのか?」
「うん。説明して?」
「いや……そんなんわざわざ言わんても、て言われるだけだと思うんだが?」
そういう謎の説明するのこの辺のカップルがよくやってるじゃん、あれ見てたらわかるじゃん?というと
「たぶん、祐奈ならそういう説明するからね」
「僕は違う」
「うん。ねえ、それ、いつから?」
何時から?いつからだろう。具合が悪くてロッカールームにいた時には既にこうだった。強烈な腹の痛みと、吐き気と。一瞬意識が飛んでからずっとこうだ。
「なあ、君、さ」
「うん?」
「僕が祐奈と入れ替わると、わざわざ戻しに来るよね?」
「そんなことないよ?」
「嘘をつけ。この前からそうだ。やっと祐奈が好きな服着て出かけたのに、大学来てからお前関連で疲労して僕が出てくる羽目になった。周期がはやい。このままだと僕が倒れる」
「だって。君のままでいてくれないから」
「は?」
「カーテンもないし」
カーテン。僕の部屋のことだろうか。確かに僕の部屋は今、寝床がロフトなので腰痛で梯子が昇れない僕は床にマットレスを引いて寝ている。それがどうしたというのか。
「寝室がある部屋に引っ越してほしいんだけど。できないならこう、壁にベットとかあるタイプの部屋にしようよ」
「なんで君が僕の寝室の構造に口を出してくるんだ???」
「気に入らないからさ」
まだこいつ根に持ってんのかよ、と僕は頭を抱えた。
「別れたと言ったろ。僕だって君の彼女に口出ししないのに、君はなんでそんな僕の彼氏にツッコミをいれるんだ?」
「気に入らないから。僕の親戚になってほしくないので」
「いや……そこまで?」
「うん。結婚相手にはちゃんとした人を選ぶべきだ」
「正論だが。君の審査が必要だったのか?」
「うん」
「そりゃあ、驚きだな……」
脇に座ってる親戚から制汗剤の匂いがする。どっかでこれ嗅いだのだが銘柄を忘れた。僕が使っているSEA BREEZEではない何かなのは確かだ。普通はこういうのが男だ。手に入らないもの。
「そのDunhillの財布どこでもらったの?」
「買ったんだよ。中古で」
「売ってるの?」
「うん。ちょっと高いけど。スカートを履かないならこれが楽だ。チェーンを付けてると絡まれる」
「ああ、まあ、そうだよね」
「暑いし、髪にアイロンするのも疲れてるし。祐奈によくわからんボディスクラブの話をした?使うのはいいんだけど、疲れるんだよ。まあ、匂い消すのにいいんだけど。メンズのは肌荒れするからさ」
「メンズの使ってたの?」
「ああ。薬局で安かったから。適当に買ったら男性用だった。もったいないし使ってたんだが。誤解もあるから今は女性用に戻した」
「あーそれでね……」
「ユニクロで適当に服買うと男女で同じの売ってるからたまに間違えねえ?ジーンズ買ったらデカいしさ。でももう服考えるのも暑くて面倒じゃん?」
「暑いの苦手だったっけ」
「いや、最近さ、腎盂炎とヘルニアなおしたばっかりだから。疲れて。肝臓もヤバいって言われて、必死だよ。だから最近ハンバーガー食べてないだろ」
それをいうと脇に腰かけている親戚は驚いた顔をした。
「それでお弁当だったの?」
「うん。ちょっとね。急に体が弱ったんだ。驚いてるよ」
「ホントに具合が悪かったの」
「ああ。結構病院、行ってるからね」
「なんで言ってくれないの。親戚なのに」
(あ、やっぱ怒ってんな、こいつ。やばいぞ)
どうしたらいいんだろう。謝るべきかもしれない。
「悪かった。いうタイミングがなくって」
「いつもそう。僕に言わないでしょ。なんで親戚なのに知らないのって言われるんだ」
「だって、親戚だって言ってないだろ」
「そうだよ。言ってないけど。でもなんかバレてる」
「どっかで言ってるんだと思うぞ。でも、名前を読んでないだろ?祐奈と話してるときに聞かれているか?あっ」
「え?なんか覚えある?」
いやあるよ。バリバリあるよ。君、案外忘れっぽいな。
「いや……この前、君が祐奈を問い詰めてたろ。正確には僕だけど。ほら、使ってるトリートメントの匂いがどうとか。彼氏が居るなら親戚である僕に言えって言ったでしょ!って詰め寄ってたろ?」
「あ」
「僕も寝起きでぼーっとしてたからよくわからない反応したような気がするが、後でなんか言われてごまかしてたじゃん?」
「ああ……あれか……」
ちょっとのどがかわいたからそれ頂戴、と勝手にメロンソーダを奪い取った親戚は結構、深刻そうな顔をして悩みだした。
「どうやってごまかそうかなあ」
「まあ、そのうち忘れるんじゃない?君が僕を呼ばなけりゃ。祐奈の好きに生きさせたらいい」
「祐奈はすぐ変な男に引っかかるから。君はそもそも恋愛に興味がないからさ」
「それはそうだ。僕は人に興味がない」
「うん。それはもう少し治してよ」
「なぜ?」
「親戚ぐらいには興味を持ってよ。一人じゃ生きられないだろ」
「そうだけど、ね」
(でもさ、君が親戚だと僕が認識していたとして。余計に僕が一人だと自覚してしまうじゃないか)
君は親戚で、君の人生があって。これからがあるわけで。僕は君の親族なんだけど、親族は何処まで踏み込んでいいものなの?兄弟近い感覚なら、もっとしんどいような気がするのだ。
「僕と君は親戚だよ。近い親戚。君を小さいころから知ってるけど、話しづらくなった。こういうのが大人になったっていう事なのかなあ」
「話しづらい?僕と?」
「うん。なんか常にお前の周り、女が居るし。すげえみられるの、君と話してると」
「そういうの嫌なの?」
「見られるのが嫌なんじゃない。センシティブな話をするのに向かないシチュエーションが多いんだ。君は僕のことを信用していないし」
「だって」
「うん、だから。言わないよ。君の弱みになるだけ。知らなければ、知らなかったで済まされる。僕のことを聞いてもしょうがないと思えば、君に僕の話をしたり、聞いたりしないから。文句は言われるだろうけどね」
「じゃあ仲直りできないじゃん」
「できないんだよ」
ゆっくり立ち上がって、数歩先に進んで振り返る。
「僕と仲直りするなら、何か賭けろ。君の大事なものを賭けて僕と戦うんだ。負けたら仲直りするよ。君に何でも話すし、君のしてほしいことを一つ叶えようかな。でも、僕が勝ったら僕の願い事を叶えてもらう。いつもそうだったろ」
「引き分けだったら?」
「お菓子をやるよ。親愛なる従弟様に」
「またか」
「うん、まただ」
ずっとそうなんだ、君と僕は引き分けなのさ。君は負けていなくて、僕も負けない。
「惚れた方が負け、って理論なら目指すのは引き分けだ。そうだろ?」
「Oui」
「ずっと親戚でいてくれ。とりあえず僕より長生きしてくれよ」
ベットに腰かけていた彼も立ち上がろうとしたが、気が変わったようだった。
「もう少しここにいるよ。一緒に出ると目立つ」
「うん。僕は先に降りるけど、誰にも合わなかったら外にいるよ」
仮眠室を出て、のんびり階段を下りていると下で眼鏡の男性に会った。
(誰だ?)
顔を見られた。だが、誰だったか思い出せない。会釈をして立ち去る。トイレに入っていくその人の記憶が霧散し、カフェテラスが視界に入ってくると、別の友人がどこ行ってたの、と声をかけてきた。
「ロッカールームに行ってたよ。鍵がなくて探してたんだけど。どこに置いたか思い出せなくって」
「あんた、ロッカーのカギはアイツに預けてたじゃん。ロッカールームで会わなかったの?」
「トイレによってたから、入れ違いになったかも」
「えっ鍵だと思ってあんたを追いかけて行ったよ?」
「あ、じゃあ迎えに」
「やめなよ、またややこしくなるし」
(そうだな、ややこしいねえ)
彼と僕の関係性はややこしいのだ。いっそのこと僕が彼を恋愛対象にすれば楽なのかもしれないが、あいにくと僕は恋愛に興味がない。そういう権利は祐奈のもので、僕のものではないからなあ、と思っていると親戚がのんびり帰ってきた。
「ロッカーに用だったんじゃないの?」
「トイレに寄ってたよ。3階にあるだろ」
「ああ。だからね……」
カーテンの中と、カーテンの外でこの男は雰囲気が違う。ありがたいことでもあり、苦しいことでもある。だから僕はギターを忘れられない。
(ハープでも作ればいいのかな)
でも、理想の青年とか噂されるこの親戚についてハープに例えられたら困るなあ、と思いながら卒業までの時間を数える。研究室を選ぶまでに時間がまだあって、でも卒業までに体力が持つかも不安材料だった。
(このままでは)
夏の暑さですべて忘れられないだろうか、とぼんやりカフェテラス側の大窓を眺める。どこかに消えてしまいたい。静かなところに隠れてしまえば、忘れられるのかもしれない。今度は図書館にでも逃げ込もうか。
—―どこかに、逃げてしまいたい。
誰も来ないところに隠れて体を治す方がいいのかもしれない。この酷いメンタルを抱えて過ごし続けるのが辛く、その姿を親戚に見せるのも、親戚から嘘つきだと思われるのも、辛くて僕はどこかに消えたくなっていた。
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