カーテンの向こう
ヒューリ
第1話 日差しとカーテン
隠れると見つけてくる一つ上の親戚について、最近の祐奈は避けることを諦め始めていた。避けたい理由は色々ある。それは今大学生の親戚のせいだったが。
『祐奈。ちょっと大学まで来てよ』
(嫌だな。行きたくないな)
『俺の友達が祐奈に会いたいって』
(嫌だな。私は会いたくない)
私は15で、向こうは19歳。大学2年であと少しで20歳になる親戚が大学での彼女をごまかそうと私を使ったのは私の悩みの種だった。彼の通う大学の経済学部で幅を利かせている人は金持ちだ。不興を買ったら親族がどうなるかわからない。そっとフェードアウトしたかったが、目をつけられたようで怖く。4つ上の親戚の呼び出しは私には恐怖で仕方がなかった。そのせいもあって彼女と疎遠になっている親戚が私を触るのも、嫌だった。
暖かい日差しが眩しいのに、私の心は暗い。
目を閉じて隠れていれば大丈夫。私の存在に気付く人はいない。いるようで、いないのだから。息の音さえ消えてしまえば、存在が霧散するのだ。
(私は、いない)
浮遊していく感覚がある。眠りに落ちるのとは違って、自分というものが霧散していくような。このまま全部夢だったらいいのに。
—―どうした。
(くるしいの。目が覚めたくないの)
—―代ろうか。どうせ、嫌なことが待っているんだろ?
(うん)
—―いいよ、眠っていろ。俺に体を預けていろ。眠ってる間に終わるよ。
(ごめんなさい)
意識を手放すように真っ暗の中に落ちるのは一瞬だった。
ゆっくりと瞼を上げる。彼女には明るく見えていた日差しが俺には薄暗く感じた。温かくなんかなく、冷たい日差しだ。土砂降りの方がマシだったか、と思いながらいや、まだいいと思いなおす。
(体は動くか)
視界は不明瞭だ。祐奈にははっきり見えるらしい世界が、俺にはぼやけて見える。祐奈が泣いているからかもしれないし、単純に情報を補完できないからかもしれない。
祐奈の全ての記憶を持っていればはっきりと見えるものが、俺には常に解像度が低く曇ったように見える。触れば少しずつ見えるようになるから、俺はまず最初に自分の体を少し触るようにしていた。顔と、首筋、腕、足……はたから見ればおかしい作業なのだが、そうしなければなかなか周辺情報すら曖昧で祐奈っぽくできない。
(なんとかなりそうだ)
それでも体はだるい。祐奈が気にしないようにしている事全部は、俺に交代すると過敏になる事なのだ。祐奈にとって他人は遠い存在で、頑張らなければ近づけないほどの距離を感じるらしいが、俺は逆だ。近すぎる。特にある存在だけが近すぎて、俺はそいつとどう距離を取るかいつも頭を悩ませている。
「祐奈、いや。遙」
「……何。優貴」
立とうとする前に優貴が近づいてくる方が速かった。目の前にいるから後ずさろうとするが、後ろは鏡台だ。これ以上は下がれない。
「大丈夫か」
「大丈夫だよ。別に、どこも悪くないから」
「嘘つくな。手首と太ももを見せろ」
「嫌だ」
「早くしないと内出血が治らなくなるぞ」
「打ち身なんかない」
「そんなわけないだろ」
問答無用で手首をつかんだ一つ上の弟に力が及ばないのをこれほど悔しいと思ったことはない。後5分ほどあれば感覚が戻るのが速くて避けられたかもしれない。でも、できない。
「内出血。あるじゃん、手形がくっきりある」
「それは、昨日のお前とアイツのせいだろ」
「うん。ごめん」
「何しに来た」
「湿布持ってきたから」
「今更……」
「悪かった。止められなくて」
「……しょうがない。あいつの部屋、ナイフとカッターがあったんだ。この程度で無事に逃げられただけマシだよ」
「でも……ごめん」
「しょうがないよ。大事にしたら、俺、アレに刺されるかもしれないから、さ」
「俺がいるから大丈夫だよ」
「そんなわけあるか。誰だってアイツ、怖いよ。お前、まだ16だろ。何もできなくって当たり前なんだ……よ」
「うん」
無言で湿布のフィルムをはがしていたこの一つ上の親戚は、俺がそこまで言った後に若干雑に湿布を張り付けた勢いで手を引いてきた。とっさにうまく反応できずそのまま前のめりに倒れこんだ俺は、この親戚の肩に顔を乗せる羽目になった。
「アイツ、いついなくなるんだろう」
「わからない。あと6年ぐらいはかかるよ、最短でも」
「俺、21だよ。お前は20だね」
「うん」
「20まで、なんとか、頑張ろうよ。成人したらこんなところいなくていいだろ?親権だって意味はなくなる」
「うん」
「20になったら好きなところに行きなよ。そうしたら幸せになれるかも」
「うん」
「死なないでよ」
「死なないよ」
「本当に、約束だよ。大人になったら、ここを出て戻らないっていってよ」
「うん。大人になったら、もうここには戻らない。別のところに行くよ」
「うん」
この一つ上の親戚が本当は誰よりこの家の中で優しいのは知っていた。名前の通りに。大人になったらこの人にはもう会えないのだな、というのは一抹の不安があったが、それは致し方ないことなのだろう。
「大丈夫だよ、優貴。祐奈は死なないよ」
「俺が言ってるのはお前だよ。遙。昨日はお前だった」
「よくわかるね」
祐奈の振りはうまかったと思ったんだけど、と俺が答えると。
「触ったときに反応が違うから。祐奈は触ったほうが安心するのに、お前は違うね。怪我してるときは遙だなってよくわかるよ」
「俺だって怪我しない時ぐらいある」
「あんまりないよ。本当は皆、お前が遙でずっといてほしいと思ってるような気がする。俺は、祐奈と遙が一緒がいいけど」
「優貴ってちょっと、変わってるよね。俺と祐奈が一緒でいいなんてさ」
「うん。俺もちょっとそう思うよ」
「ありがとう。まだ死なないよ」
泣けばよかったのかもしれない。涙が出ないまま、ただ淡々とそう話すしかなかった。カーテンで仕切られたその空間だけが俺には、少しの安全な空間でもあって、そして、同時に他人が近すぎる空間だった。
それから、カーテンの向こうに逃げ込もうとするといつも先にこの一つ上の親戚がいて、戸惑うようになった。そもそも、この兄の昼寝する場所だったらしい。
「ごめん、別のとこに行く」
「今日はそうして。別の日ならいいよ」
兄がいない日にしかカーテンの向こうに逃げ込めない。でも、いつも兄がいるような気がして入れず、数日は入れないでいた。
そうこうしているうちに優貴が在宅した日は散々なだった。優貴がいたのはいいのだが、夕飯前にブランデーケーキとを食べさせられて強烈な眠気に襲われ、優貴の部屋で寝落ちしたのである。起きたら隣にいた。床じゃねえのかよ!という俺の叫びは彼には採用されなかった。
「だって俺の部屋だし。俺、床に寝るの嫌だし。お前動かすの重いし。一階に布団持ってくの面倒だし、俺も眠かったし」
「いや、だからってさ」
「別にいとこだし、気にしないかなって」
「姉ちゃんに恨まれるんだけど」
「恨まれとけば?」
「なんでだよ……」
遙の姉ちゃんは俺の趣味じゃないからさ、と謎のことを言う優貴は寝ぼけているようだった。この人がこれだけ寝ぼけているという事は、お吸い物に酒でも入っていたのかもしれない。
「昨日の蛤の澄まし汁?であってる?それがさ……なんか酒臭いんだよ。要らないって言おうと思ったんだけど、もう面倒だから飲んで他をやめた」
「他を食べた方がよかったんじゃ?」
「面倒だった。アイツ今日彼女のとこ行くって言って帰ってきてないから、やっと寝れるし……あいつ何時お前を部屋に連れ込むかわかんないから」
「ごめん」
「俺はああいう大学生にはなりたくないんだけど、血が争えなかったら嫌だな。ああいうのに引っかからないようにして」
「頑張るけど……」
「でもさあ、俺の友達にも聞くと大体同じ事しか考えてないんだよね。俺も同じなの?っていうさ……不安が常にあるわけ。寝るのに苦労する」
「あんまり寝れないの?」
「寝れない。昨日は酒の力で寝た」
「料理酒ね」
「まあ、そう。基本的に寝れないから。上手く眠れたことなんかない」
「大丈夫?」
「まあ、慣れてるから。最近、慣れた」
こっちにはパソコン持ってこれないから面倒だよね、ネット環境ないし。パソコンあれば勉強とかさ、できるからいいんだけどという優貴は普段と違っておしゃべりだ。
あの寡黙な兄は何処に?と思ってみていると
「話し過ぎた。ごめん」
「いいよ」
「将来は、俺と遙は反対になってるかもね」
「どういうこと?」
「遙の方がおしゃべりかも」
「……ごめん、なんか」
「そういうんじゃなくて。たぶん、俺は眠れない原因が何かわかるようになっていて話せない。遙は、隠さなくていいから話す。それだけ、かな」
起きるよ、と結構素早い動きでベットから降りてすたすたと洗面所に行く優貴はいつもの優貴だ。何かあったのだろうか。俺の手首の内出血は消えていて、しばらく4つ上の兄は彼女の家に行くから帰らないとのことだ。まだしばらく無事な日が続く。その無事を作り出しているのはこの一つ上の兄で、その人はまだ、16だった。
*
何時ものカーテンの部屋がそのままだったのをみて、優貴は少し不満そうだった。
「ここ、使ってないの?」
「うん」
「どうして?」
「ちょっと、恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
「優貴がここを昼寝に使ってるのをさ、皆知ってるから。ここに逃げ込むと誤解が発生する」
「その方がいいんじゃないの?」
「だって。また巻き込まれるよ」
「別に。みんな知りたいんだ。遙の好きな人」
「俺の好きな人?どういうこと?」
「遙の好きな男のタイプが知りたいわけ。そういうの好きじゃん?話してて楽しいんだろ。俺や他の親戚の恋愛話はできないから。角が立って」
「角が立つの?」
「角が立つと思うよ。別れちゃったら自分たちのせいになっちゃうじゃん?遙が好きな人と別れたところで、困らないから話してるんだろ」
「……嫌だな、そういうの。俺だって普通に恋愛したい」
「俺もそうだよ。恋愛なんかしてほしくないのさ。自分たちの知ってる人と適度に恋愛して話題をもたらしてほしいけど、結婚してほしいわけじゃないから」
「よくわかるね」
「俺の方が恋愛詳しいから。モテるからね」
「そうなの」
「信じてない?」
「いや……大体わかるよ。お前は上手いから、普通の女性ならお前が好きだろうね。堕とせると思うし、結構、依存的になりそうな予感がする」
「うん。大体それで揉める。最近も揉めたし」
「大変だな……」
「浮気が嫌いだから、俺。上手ければ浮気しないかなって」
「そういうこと……」
「うん」
16歳が言う事とは思えない。既にこの歳で一つ上の兄は浮気が嫌いだった。この兄の優しいところと、酷く冷徹なところの落差を普通の女性がどうとらえるのかが俺にはわからない。とりあえず、俺はこうはなれないと思うだけだった。
『遙』
その声で名前を呼ばないでくれ。俺は祐奈じゃないのに、どうしてその声で俺を呼んで俺に触るんだよ。どうして、血がつながっていなくても家族みたいにしてくれるんだ。なのにどうして、
(どこまで、君の手の内なんだ。優貴)
外に出たらきっともう会わない。早く逃げなくては、ここから。この兄に心が捕まったふりをするべきなのか、逃げるべきなのか。
あと6年の間に、この兄が別の好きなものを見つけているのかもしれないけれど。
(大丈夫、何もない)
早く強くならなければ。この人がいるうちに。弱くなったら、この人がいないと生きていけなくなってしまう。それだけは、避けなくては。この実家を出て生きるなら強くならなくてはいけないのに。
『本当に、約束だよ。大人になったら、ここを出て戻らないっていってよ』
約束した通りに。でも、別の場所で同じようなところにまた来てしまったらどうするのだろう。その時に、貴方はいないのに。
(それでも、何とかしていかなければ。私の人生なのだから)
恋愛はいらない。人並な行為としての付き合いは必要なのかもしれないが平穏さの方が大事だ。恋愛がなくとも平穏であるならばそれが一番望ましい。そういう生活をしていれば兄は安心するのだ。なるべくそうしたい、今度、優貴に聞いておかなければ。
(覚えていられたら、いいのに)
明日は祐奈かもしれない。祐奈になったら俺の感情は失われてしまう。この体が祐奈のものである限りそうなのだ。俺が好きなものも、俺の感情も全部、祐奈になったら消えてしまうものだ。それを受け入れてるけれど、少しだけ辛い。そもそもが祐奈であるならばこれが俺の本当の感情ですらないかもしれない。模倣した感情だったらどうしよう。
俺が選んだと、しっかり言える日は来るのだろうか。
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