第500話 雷魔法


 シュウはこの世界に冥界を生み出した後、死魔法によってアップデートを続けてきた。死魔法の本質に迫り、解釈を広げ、死の法則一つから世界を構築した。

 《冥府の凍息コキュートス》と《冥府の劫河プレゲトーン》は冥界に流れる脅威の河。絶対零度と灼熱により侵入者を阻む境界線である。魔神術式によって冥界を顕現したシュウは、この二つの大河をこの世に呼び込んだ。



「ぬぅ」



 冥界の河に沈んだグランザムは凍結と灼熱の奔流に溺れる。通常の生物であれば即死してしまう空間にもかかわらず、ダメージを受ける程度で済んでいるのは流石だ。グランザムの場合、自身の体表で雷魔法を発動することで冥界を押しのけ、どうにか抵抗していた。

 確かに同じ魔法という枠組みだが、生きている年月が違いすぎる。千の半魔族と融合することで強化されたグランザムは基礎性能が高い。魔力出力も生存能力も桁外れだ。しかし冥界を保有するシュウとは比較にならない。

 百鬼の業魔グランザムは冥王と戦うに早すぎたのだ。

 徐々にグランザムの肉体と魔力は薄れていき、やがて――消失した。






 そしてシュウのすぐ後ろに現れた。



「雷鳴よ」

「っ!」



 冥界すら押しのけるようにして激しく雷撃が奔った。暗雲と暴風が発生し、シュウを取り囲んで攻撃する。電気エネルギーは即座に吸収してダメージを抑えたが、受けに回らざるを得ない状況になってしまった。

 渦巻く暗雲は広がり続け、雷が連続してシュウに襲い来る。



(今のは空間転移か? だが挙動が変だった。それに雷や風を操る魔法とは関連がない)



 魂を見通すシュウは、グランザムがどのような動きで移動したのか見えていた。ゆっくり薄れていくようにして消失し、瞬間的にシュウの後ろへ移動していたのである。普通の転移とは違うということもあり、シュウも無理には攻撃に転じない。

 迫る雷と暴風をいなしつつ、思考を巡らせる。



(貫通、か? 電撃も暴風も普通では防げない)



 雷魔法の強い部分は防御の難しさだ。

 仮に魔力を使って防ごうとしても、それを破壊して雷撃が貫いてくる。ただエネルギーが高いというよりも、雷が触れた瞬間、防壁が自己崩壊しているのだ。どれだけ防御を固めても容易く崩されてしまうため、死魔法を使うしかない。

 そして千の半魔族を取り込んだということもあり、グランザムの魔力出力は《魔神化》を発動したシュウにも匹敵している。魔力で押し込むにしても、雷魔法の正体を明かさなければ無駄に消費するだけになりかねない。



(《冥府の凍息コキュートス》や《冥府の劫河プレゲトーン》は物理攻撃寄りだ。効いていないとなると、次に試すべきは精神攻撃)



 冥界を構築し、それをこの世に具現化する《魔神化》を実用化させ、次に《魔神化》で発動する魔神術式を低コスト安定運用するため汎用術式を生み出した。ゼロから魔術基盤とその術式を生み出すという行為であるため非常に時間がかかったが、シュウはそれにより安易に《魔神化》を発動できるまでになっている。

 物質の冥界侵入を防ぐ第一階層ニブルヘイムを汎用化したのが《冥府の凍息コキュートス》と《冥府の劫河プレゲトーン》。これは物質に対する作用を意識しているため、強烈な物理攻撃としての面が強い。



「顕現、《忘迦レテ》」



 一方で第二階層ヘルヘイムを汎用化した《忘迦レテ》は魂の力に作用する。魂の表層に張り付いている精神、記憶、能力などを漂白する力だ。

 黒い術式が書き換わっていき、絶対零度と灼熱の奔流が消える。代わりに深い闇色の沼が出現し、そこから無数の黒い腕が現れた。まるで意思を持っているかのように、腕はグランザムを追跡する。全方位から襲い来る《忘迦レテ》の腕が、遂にグランザムに触れた。



「む、これは我のッ!」



 すると明らかに反応が変わる。

 これまでは柳のように全てをいなしていたグランザムが、触れた箇所を抉り落として逃げたのだ。またシュウ自身も《忘迦レテ》により魔力吸収の手応えを感じる。



「咄嗟に触れた部分を切り離したのは正解だ。そいつは物理的に引き剥がせない」

「雷鳴よ! 暴風よ! 我が言葉を聞け!」



 グランザムは雷と風を支配し、自らを守るようにして発生させる。竜巻と同時に放電が発生し、近づく物質を次々と破壊しようとしていた。しかし《忘迦レテ》はそんな物理現象など意に介さない様子で、嵐の壁をすり抜け、再びグランザムに触れた。

 力の減衰を感じたグランザムは激しい雷光を放ちながら自爆し、百以上に分裂して逃れる。その後すぐに一所に集まり、重なるようにして元の一人に戻った。

 シュウは間髪入れずに《忘迦レテ》の腕を這わせようとするが、グランザムは完全に姿を消失させてしまい無駄に終わった。



「なるほど」



 この応酬によりようやくシュウも理解する。



「つまりお前の魔法は存在確率の操作、あるいはエントロピーの逆転か」



 それはシュレディンガーの猫と呼ばれる思考実験により説明される量子世界の事象だ。

 たとえば二つの箱を用意し、その片方にだけ金塊を隠したとしよう。箱が閉じられている状態では金塊の入った箱がどちらか判別できない。つまりどちらの箱にも五十パーセントずつの確率で金塊が入っていると説明できる。だがひとたび片方の箱を開けてしまえば、金塊が入っているかどうか分かってしまう。したがって片方の箱は確率百パーセント、もう片方は確率ゼロに収束する。

 つまりグランザムは確率操作あるいはエントロピーの逆転によって、既に収束した事象を確率状態へと戻していた。百パーセントその場に存在していたはずだが、五十パーセントの存在確率にまで落とし、代わりに別の場所でも五十パーセントの確率で存在していることにする。あとは新たに生成した確率を百パーセントにしてしまえば疑似的な転移となる。

 電子や空気分子の存在確率を操れば雷撃も暴風も自由自在だ。



「まぁ、この精密性と汎用性なら確率操作のようだな。今は空間全体に存在確率を広げることで、あらゆる攻撃を透かしているわけか。確かにそれをされると死魔法も届かない。届かない確率が常に選択されるからだ」



 ここにグランザムの姿は見えないが、確かに存在している。それは冥界を部分顕現しているシュウだからこその確信だ。しかし存在していると同時に、存在していない。だから冥界の影響を受けない。



「《忘迦レテ》が致命的だと察したお前はこう考えたわけだ。時間を稼ぎ、俺が術式を解除するまで待てばいいと。悪い策じゃない。《魔神化》はそれなりの力を使うからな」



 《魔神化》とは文字通り、世界を塗り替える行為。本来は沈んでいる冥界を一時的に浮上させ、空間に割り込ませる行為だ。消耗する魔力も気力も通常の魔術とは桁が違う。汎用魔神術式によって多少軽減しているが、それでも維持し続けるのは難しい。

 魔力だけなら冥界に蓄えたものでまかなえても、それを維持する集中力が足りない。



「だが魔法の正体さえ分かれば対策もある。確率を操るという能力が真実であれば、その性質を活用するために範囲を制限する必要がある。お前がどこまで確率を拡散させることができるのかは分からんが、それならこちらで領域を区切ってしまえばいい」



 確率とは、結局のところ合計で百パーセントになるものだ。二つの箱に分ければ五十パーセントずつ。四つの箱に分ければ二十五パーセントずつ。十個の箱に分ければ十パーセントずつ。このように広げれば広げるほどに確率は小さくなるものだ。

 少なくともグランザムは千体に分身することができて、その全てに自分自身を宿すことができる。これは確率によって並行存在を生み出している状態といえる。『もしも』の自分を同時に千体生み出しているようなものだ。

 しかし可能性の拡散である以上、必ず合計値は百パーセントに収束する。

 つまり全てのグランザムが含まれている領域は必ず存在し、シュウはその全てのグランザムを冥界に閉じ込めている状態だ。



「出てこないなら仕方ない。このまま冥界を閉じて沈めてやるよ」



 数学上、存在確率は空間の限り広がっている。宇宙の端から端まで、限りなくゼロに近い確率であっても可能性が残されている。

 この存在確率が完全にゼロとなるのは、無限の位置ポテンシャルエネルギー障壁があるときだ。つまり物質世界と冥界の境界線がそれにあたる。百鬼の業魔グランザムは冥界門を通過するか、雷魔法で無理やり打ち破るほかに冥界から脱出する方法はない。



「さてどうする? このまま冥界に落ちるか、それとも《忘迦レテ》を覚悟して確率収束するか」

「オオオオッ!」

「何もせず冥界に沈むことは選ばないよな」



 拡散した確率を収束させたグランザムがシュウの背後に出現する。手元に雷を収束させ、破壊の嵐として叩きつけようとした。グランザムの操る雷魔法は存在確率を操り、分子結合すらも破壊する。攻撃に使えば防御不可、防御に徹すれば無敵という魔法だ。

 破壊の雷がシュウに向かって放たれようとした時、グランザムは全身を黒い腕に触れられ崩れ落ちた。魂に付随する記憶、魔力を奪われたことで動けなくなったのだ。



「分身か」



 《忘迦レテ》の腕は漂白した魂を冥界へと連れて行く。

 しかしあまりにも感触が軽い。グランザムの内側にある千の魂の一つでしかなかったのだろう。容易く分身が打ち破られたことに焦ったのか、グランザムは複数の分身体を生み出す。出力を増やすためか、それぞれに五つほど魂が込められていた。

 それらのグランザムたちは《忘迦レテ》が届くよりも早く雷魔法による嵐を発生させ、法則の書き換えによって冥界の効果を打ち消そうとする。

 だが、次の瞬間には全てのグランザムが粉微塵に刻まれていた。



「《死の鎌デスサイズ》……三重円環」



 冥府の河を同時に発動するのは難しいが、《死の鎌デスサイズ》は魔神術式の中でも軽い部類に入るため、冥府の河とも両立可能だ。

 グランザムは必死の抵抗を見せるが、確率収束により姿を現すたびに魂を削られていく。ここはまさしく『死』の空間。死の法則により支配された冥界という世界。限定的ながらも冥界を顕現させた今、冥王に打ち克つのは困難を極める。



「逃げ切れないと踏んで今度こそ姿を現したか」

「貴様、いったいどれほどの……」

「悪いが生きている年月が違う」



 内側を見れば、蠢く無数の魂を感知できる。

 そして《忘迦レテ》の黒い腕によって魔力や記憶を奪われながらも、保有する魂たちを犠牲にして魔力を溜め込んでいた。グランザムの魔力は強い光を放つ黄金の色。雷魔力とも呼べる魔法の力だった。

 それは存在確率百パーセントの雷。

 位置エネルギーと運動エネルギーを完全に保存したまま存在する。つまり一度放たれれば、どんな障害物をも貫いて進み続けるということ。



「オオオオオオオオオオオッ。我が魔力よ、死すら打ち破れ!」



 グランザムを中心として金色の魔力が放たれる。それは放電となり、そこにあるすべてを押しのける。物質であろうと生物であろうと、また空間であろうと関係ない。存在確率百パーセントとは、そこに何者であろうと他の存在を許さないということ。

 莫大な魔力を消費し、グランザムは魔神術式による冥界顕現を打ち破ってみせた。空間を侵食していた黒い術式が引き千切れ、解けていく。

 その代償として《忘迦レテ》に無防備を晒し、三百以上の魂を失ってしまった。



「だがこれで……」



 冥王の領域から脱出し、ようやく対等になれる。

 そう希望を抱いたグランザムは、すぐに絶望の淵に叩き落された。



「残念。少し遅かった。もうここは冥界だ」



 魔神術式を打ち破っても、景色は変わらなかった。

 なぜなら既に冥界に沈んでいたからである。



「ここは冥府の第二階層ヘルヘイム。全ての魂はここへ行き着き、全てを失う」



 グランザムは重力の消失を感じ、水中に沈んでしまったかのように身体が重くなる。足掻き藻掻こうとしても手足はほとんど動かず、思考も記憶も魔力も奪われていく。すぐに存在確率を薄めて逃れようとしたが、魔法を発動させることすらできない。

 ここは正真正銘のヘルヘイムだ。

 汎用術式で呼び出した《忘迦レテ》とは桁が違う。

 まず思考が溶け、次に記憶が溶け、最後に身に着けた魔力が消えていく。シュウはグランザムが完全な白痴となった後、その魔力だけを掬い取った。



「雷魔法というのか。ありがたく使わせてもらう」



 グランザムの記憶からその魔力の名を知った。

 獄王ベルオルグの獄炎魔法が地獄の創造に役立ったように、雷魔法も何かの役に立つだろう。

 魔族として取り込まれた千の魂を回収し、こうして魔法魔力までも入手した。苦労した分の収入はあったということである。



「あとはバラギウムとかいう魔族の王を探すだけか」



 手に入れた雷魔力は一旦冥界に保管しておく。

 シュウは本来の目的を果たすため、再び現世へと戻った。


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