第472話 都市国家アリーナ


 パチパチと何かが弾ける音だけが響き、夜の闇を光と温もりが押しのける。焚火を囲むのは三人。シュウと『黒猫』、そして眠る少女であった。

 崩壊したヴァルナヘルから離れ、今は水場の近くで野営している。本来ならば魔物に襲われる可能性もあるため非常に危険なのだが、この二人を前に危険と判断できる魔物などそういない。



「なかなか目を覚まさないね」

「《忘迦レテ》の影響が強すぎるのかもしれないな。それに《聖印セフィラ》を多重に施している。魂が活動レベルまで回復するのにもう少し時間がかかる」

「それなら僕は先に行かせてもらおうかな」

「顔を合わせておかないのか?」

「その内、どこかの酒場で会えるよ。本体の僕はサンドラという都市国家で主に活動している。その子を鍛えたいなら……待っているよ」



 彼女も彼女で忙しい。

 常に多くの人形を操り、大陸の東部をほぼ一人でカバーしているほどだ。妖精郷というバックアップのあるシュウと異なり、常に人の手が不足している。それを見かねてシュウも東側に手を伸ばしつつあるわけだが、それも準備が整ったわけではない。

 妖精郷の大陸管理局の分室を増やしつつ、管理体制を拡大している途中だ。そもそも妖精郷に住む魔物たちの中で戦力として働いている者は意外と少ない。またシュウの固有戦力も冥界のために働いているため大陸には回せない。煉獄の精霊がその一例だ。



「サンドラだな。分かった」

「場所はかつてのマギアあたりだよ。詳しい場所は君のデバイスに送信しておくから、後で確認しておいてくれ。じゃあ、君の相棒にもよろしく」



 空間が歪み、その奥へと『黒猫』は消えていく。

 見送ったシュウはマザーデバイスを起動する。仮想ディスプレイを展開し、数度タップしてアイリスへと通話を繋いだ。



『はいはい。どうしましたか?』

「アイリス、少し頼みが――」








 ◆◆◆







 都市国家アリーナにはたった一人の支配者が存在する。

 市民が奴隷を支配しているように、彼は市民を支配する立場にあるのだ。

 その名はンディババ。

 アリーナの中でもひと際目立つ建造物、闘技場の主人でもあった。



「偉大な支配者様、この街に聖教会の犬どもが」

「聖石寮とやらか」

「その内の一人が不審な動きをしているようです。捕らえますか?」

「構わん、放っておけ」



 闘技場の最も高い席こそが彼の居場所である。

 見下ろせば剣闘奴隷が激しく殺し合いを演じている。ンディババは軽装ではあるが、指輪、腕輪、足輪、首飾り、指輪など多数の装飾品によって彩られている。中でも右耳の飾りは一際目立っていた。黄金をベースに黒い宝石が嵌めこまれており、魔力すらも宿している。

 この耳飾りこそがアリーナにおける支配者の印。

 そして黒猫の幹部が一人、『天秤』でもあった。



「聖石寮は商売相手でもある。どうせ黄金域の探索許可が欲しいのだろう。余計なことをしでかすようなら、それを理由に金をむしり取ってやれ」

「仰せのままに」



 そう返事をして目を伏せる丸刈りの男には一本の刺青があった。頬に刻まれたソレは奴隷印である。奴隷印の数は奴隷階級を意味する。彼は一等奴隷と区分される身分であった。

 主人の財産を管理することすら任される、高級奴隷だ。その教養は特権階級者にも匹敵し、多くの権利を認められた存在である。奴隷という身分ではあるが、その生活水準は特権階級者とそれほど変わりない。それこそ、人によっては主人と同じ食卓を囲む権利すら与えられるほどだ。



「ああ、そうだ。必要ならば奴隷を貸してやれ。盾ぐらいにはなるだろう」

「しかし支配者様。彼らは奴隷を忌み嫌います」

「念のためだ。もしかすると今回は借りるかもしれんぞ?」

「はい。そのように」



 彼は黒猫の『天秤』。

 しかしながら実態を隠すようなことはせず、都市国家アリーナを丸ごと拠点として活動していた。








 ◆◆◆








 少女の意識が戻ったのは日が昇ってしばらくしてからだった。

 ゆっくりと体を起こした彼女はすぐにシュウの方へと振り向く。両目を布で覆い隠しているにもかかわらず、その感知は正確であった。



「あなた、誰ですか?」



 まずはこの状況に恐怖するのが普通だろう。

 気付けば知らない場所にいて、知らない人物が側にいるのだ。少女の年齢は十歳を超えた程度。怯えない方がおかしい。

 しかしながら彼女はきわめて冷静に、淡々と疑問だけを口にした。



(《聖印セフィラ》の影響が強すぎたか)



 魔力を制限する精霊秘術、《聖印セフィラ》。それは有害な魔力を封じ、清めることができる。人間に対して付与すれば、呪いなどを浄化することができる。

 性質上、多重に付与すれば魂のエネルギーたる魔力が不足し、精神に影響が現れる。今の少女は吸血衝動を封じるにあたり、同時に感情の多くを制限されている状態だった。



「シュウだ。そう呼べ」

「あなたは、シュウ様」

「お前の名は?」

「私は……」



 少女は口を閉ざす。

 それから何度か口を開こうとしたが、その度に声を出すことなく黙り込む。



「分からないのか?」

「はい」

「覚えていることは? 何も分からないのか?」

「血……」



 ただ一言だけ口にして、それ以上は何も言わない。彼女は心を巡らせて必死に思い出そうとしたが、明確な物語として刻まれた記憶は存在しない。

 紙芝居の物語から抜き取られた一枚のように、瞬間だけが絵として残っている。

 虫食いなどというレベルではない。

 寧ろ食べ残し程度しか記憶は残されていなかった。



「私は、ノスフェラトゥ。そう、呼ばれていました。あと、血」



 辛うじて思い出したのは、自らを意味する呼び名。そして血を欲していた、その記憶だけ。

 感情の起伏が異常に小さいということは、魂を見れば一目瞭然だ。そして記憶を司る精神部位に幾つもの欠損が生じていることも分かる。これは《忘迦レテ》の後遺症であることは明らかであった。だが、それだけが原因とは断定しかねる。

 ノスフェラトゥ、と名乗る少女の心は歪だ。

 元あった彼女の魂に対して、何かしらの加工が施された痕跡が残っている。それは間違いなく赫魔細胞を取り込んだ影響であった。



「血……」

「分かった。これを飲め」

「ありがとう、ございます」



 吸血種ノスフェラトゥが生きるために血液を必要としていることは分かっている。こうしている間にも『赫魔』の部分は少しずつ彼女を侵食し、その本能で染め上げようとしているほどだ。《聖印セフィラ》は確かに効果を及ぼしているが、完璧ではない。赫魔細胞を満たしてやるためにも血液は必須であった。

 またその血液も人間のものである必要がある。

 それは《忘迦レテ》によって回収した『白蛇』の記憶からも明らかであった。だからシュウは緊急で人間の血を用立てたのである。普通ならば都合よく血液を供給できるはずもない。しかしシュウの側にはどんな致命傷すらも無効化してしまう相棒がいる。それこそ、何リットルだろうと血液を提供できる。



「頂戴、いたします」



 亜空間より取り出したボトルからカップに血を注ぎ、それを渡した。すると彼女は整った所作で受け取り、ゆっくりと口に運んでいく。一気に飲み干すようなことはなく、味わうようにして一口ずつ喉に通していった。



(行動の一つ一つが上品だな。それにシュリットの言語……シュリット神聖王国の上流階級か。『白蛇』の記憶を見た限りだと、始祖は奴隷として買った実験体らしいが)



 シュウは目の前の事実と手に入れた情報の落差に若干困惑していた。ノスフェラトゥの仕草はどう見ても高貴な身分のそれである。庶民や奴隷が繕った程度で演じられるレベルではない。これも赫魔細胞が何らかの影響を及ぼしているのではないかと考えたが、何の根拠もない想像でしかない。



(《忘迦レテ》で吸収した記憶を読み解く必要があるか……? そうなると、まとめて結晶化したのは間違いだったな)



 彼女を引き受けるとは言ったものの、想定以上に事態はややこしい。

 色々と考えを巡らせている内にノスフェラトゥも血を飲み終えたので、ひとまずの結論を出すことにした。



「これからお前には力の使い方を学んでもらう」

「力?」

「今のお前には何もない。その身に宿している力を制御し、新しい自分を手に入れろ」

「はい、分かりました」

「……驚くほど素直だな」



 感情の多くを封じたシュウが言うのも間違いかもしれないが、ほとんど主体性がない。しかし言い換えれば何色にでも染まるということであり、都合が良いのは確かだ。

 記憶がないのならば、それはそれで良い。

 彼女には『死神』という役目を引き継がせようとしている。それが叶うかどうかはさておいて、シュウの好きなように育てることができるのは利点だった。

 かつて魔神アリエットにも同じように力を与えた。しかしその時はアリエットの感情に振り回された部分も多く、制御できていたとは言い難い。結果的にそれほど悪くない流れとなったが、記憶や感情は不確定要素として大きすぎる。



「立て。ここから移動する」

「はい」



 ノスフェラトゥが立ち上がると同時に、シュウはマザーデバイスを起動した。願った術式は空間転移。その先は都市国家サンドラ。

 『黒猫』が告げた場所であった。










 ◆◆◆








 都市国家サンドラはスラダ大陸随一の軍事国家である。巨兵山と呼ばれる山の麓で栄えており、地下迷宮への接続領域が一つ、神奥しんおう域を有する。

 終焉戦争以前、神聖グリニアと呼ばれた国の首都マギアがあった場所からほど近い。

 迷宮神奥域を探索することで古代遺物を発見し、その力を利用して発展している。そしてサンドラという国家の特徴として、強大な軍事力を備えている点が挙げられた。



「少し位置がずれていたか。まぁいい。ここからは歩くとしよう……」



 シュウはまだサンドラに訪れたことがない。おおよそ、旧マギアのあたりであることだけは知っていたので、その情報から推察して転移した。



「ノスフェラトゥ、一応尋ねるが歩けるな?」

「はい」

「付いて来い」



 ノスフェラトゥは両目を布で覆っており、視覚を介した感知ができない。彼女は盲目だ。だが一方で別の感知方法を持っているらしく、まるですべて見えているかのように振舞う。

 ワールドマップを開き、まずは現在位置を確認する。

 するとサンドラよりも北側に転移していたことが分かった。



「マギアの大穴……今は神奥域か。懐かしい場所だな」



 ワールドマップ上でも観測不可領域として巨大な穴が表示されている。これは天王バハムート、当時の憤怒王サタンが破壊魔法によって生み出した惨状だ。万物を発散させる破壊魔法により地の奥底まで物質は消滅した。そして覚醒したばかりのダンジョンコアが初めて迷宮魔法を使い、地下迷宮を誕生させたのだ。

 つまり神奥域とは地下迷宮が始まった場所。

 最も歴史が古く、それだけに構造も複雑化していると予想される。



「ノスフェラトゥは戦えるのか?」

「分かりません。私には戦いというものが分かりません」

「つまりアレは本能的なものだったのか……? 理性ある状態での戦闘を覚えさせないと駄目か」



 いずれは自分のためにもなると思って安請け合いしたが、手を付けるべきところは多い。ノスフェラトゥは《聖印セフィラ》によって理性を取り戻したが、同時に戦闘能力も封じられている。今の状態での戦い方を身に着けさせる必要があるだろう。

 また彼女の場合、吸血種ノスフェラトゥとしての力だけでなく魔装の力も覚えさせる必要がある。

 ノスフェラトゥが魔装の力を覚醒させていることは間違いない。



「予定を変えよう」



 立ち止まり、深く息を吐く。



「先に迷宮だ。『黒猫』に会わせるのは今度でもいい。戦い方を覚えなければ話にならん」



 行き先を変更し、北を向く。

 ノスフェラトゥは何も言わず、粛々と付き従った。








 ◆◆◆







 九聖が五席、オスカー・アルテミアは個人的な用事のためアリーナで東奔西走していた。彼の目的は実家の勝手な行いによって売り払われた妹を探すこと。奴隷国家であるアリーナならば見つかると考えていたが、結果は芳しくない。

 寧ろ、日に日に動きにくくなっている。

 尋ねた商館では曖昧な対応をされたばかりか、何かと理由を付けて追い返されることも増えた。



(やはり聖石寮の術師ということが足を引っ張るのでしょうか)



 オスカーについての情報はすっかり出回っているらしく、私服で赴いても結果は変わらない。おそらくはアリーナの権力者から何かの圧力がかかっているのだろう。シュリット神聖王国の権力者でもあるオスカーは、雰囲気からそのような印象を覚えていた。

 またオスカー自身も聖石寮の仕事がある。

 黄金域の探索を行い、そこから古代遺物を持ち帰る必要があるのだ。黄金域はアリーナの所有物であるため、相応の対価を支払って探索している。だからこそ、成果を出さなければならない。私用にばかり身を費やしているわけにもいかないのだ。



「オスカー様、そろそろ休憩を終わりにしませんか?」

「そうですね。探索を再開しましょう」



 そう告げると、周りで休憩していた術師たちは次々と立ち上がる。

 彼らが今いる場所こそが黄金域と呼ばれる迷宮だ。黄金域は地表部分だけでもかなり広く、危険度が高いということもあって深層までの探索は進んでいない。

 黄金域の探索難易度を高めている原因こそが、番人の存在であった。



「まずは散開し、周囲の情報を集めてください。番人を発見しても慎重に対応し、必ず戦闘は避けなければなりません。番人に見つかってしまった場合、逃げて身を隠すのです。周回ルートは頭に叩き込んでいますね? では頼みます」



 術師たちは幾つかのグループに分かれ、情報収集を開始する。

 黄金域は古代の兵器が多数発見される迷宮域だ。中には使い方の分からないものまで含まれ、実際に役立つ兵器はそれほど多くない。しかしながら数少ない利用可能な古代兵器は強力である。その一つが、術符と呼ばれるものだった。

 見た目は金色のカードでしかないそれは、使用することで魔術を発動させることができる。残念ながら使い捨てではあるものの、技術も必要なく、起動すれば魔力なしで術式を発動できる。何より嵩張らないので持ち運びにも便利だ。

 だが聖石寮が最も求める古代遺物は番人そのものである。



「今回こそ見つかると良いのですが……」

「そうなればオスカー様の大手柄ですよ」

「確かに手柄は必要です。しかし番人を操り、我がものとする技術はアリーナへの恭順を拒絶する理由になります。それが最も重要なことです」



 シュリット神聖王国は都市国家アリーナとは相容れない。

 しかしながら黄金域を探索するため、アリーナでわざわざ許可を取っている。本来ならば勝手に探索すればよいものを、わざわざ多くの対価を支払って探索許可を得ている。それはアリーナの支配者ンディババが迷宮の番人を操る能力を持っていたからだ。

 黄金域の番人は多脚の古代兵器である。巨大な蜘蛛を思わせる見た目で、迷宮を探索する不届きものを発見すると容赦なく熱線を放ってくる。しかも術師の操る魔術では全く傷つかない。



「この黄金域はおそらく古代の兵器工場……番人を操り、更に深層にまで行くことができれば大きな力が手に入るはずです」

「今回こそ発見まで至りましょう。番人を制御する技術を! そしてンディババを見返してやるのです!」

「そうですね」



 オスカーは深く頷き、自分たちの目標を改めて確かめる。

 彼ら聖石寮は聖守を失い久しい。だからそれに代わる力の一つとして、古代兵器を求めていた。それも術符のような個人の力を底上げするものではなく、戦局をひっくり返すような殲滅兵器を求めていた。





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