第470話 《忘迦》


 《忘迦レテ》は音もなく発動した。

 ヴァルナヘル全域に広がった冥府の泉は非常に分かりやすい異変である。しかしそれで終わりではない。黒く染まった地面から無数の腕が現れ、吸血種ノスフェラトゥたちを襲い始めたのである。



「な、なんだよこれ!」

「これに触れるな。なんだか力が抜ける」



 血液を探してヴァルナヘルを彷徨っていた吸血種ノスフェラトゥの二人組は、突然の変化に驚きを隠せない。慌てて飛び上がり、崩れた建物の上に避難した。だが黒い腕は素早く伸びて二人を追跡し、その身体に触れる。

 着地を狙われたことで回避もできず、全身が脱力して二人は倒れる。



(な、なんで……)

(動けない。くそ!)



 必死にもがくが、その間にも《忘迦レテ》は止まらない。次々と黒い腕が彼らを襲い、やがて彼らは動くことも考えることもできなくなる。

 しばらくは動きを見せていたが、遂には二人とも完全に動かなくなった。

 よくよく見れば胸は上下に動いており、呼吸が継続していることは分かる。しかし意識は失われ、能動的な動きはできなくなっていた。







 ◆◆◆







 黒い腕は回避など許されないほど無数に現れている。

 しかも回避しようとしたところで追いかけてきて、しつこく身体に触れてくるのだ。身体能力の高い吸血種ノスフェラトゥもすぐさま《忘迦レテ》に掴まってしまった。

 ヴァルナヘルで唯一の集落となった紅巾衆の拠点には非戦闘員が多く匿われている。前線で暴れる始祖との戦闘音すら聞こえないこの付近では、三百を超える吸血種ノスフェラトゥが身を隠している。その全員に対して黒い腕は憑りつき、その効力を発揮していた。



(消えていく……溶けていく)



 『白蛇』の称号を与えられた老人、クロスはデスクで前のめりになりながら意識を失いつつあった。デスクには大量の紙が散らばっており、顕微鏡のような実験器具も幾つか散らばっている。そして彼の右手には一枚の金貨が握られていた。

 黒猫の所属であることを示す黄金の硬貨。

 尾を噛む円環の蛇が描かれた幹部の証である。

 クロスは大量の黒い腕で身体の各所を掴まれている。刻一刻と精神が蝕まれ、彼の中身が抜け落ちていく。肉体的には人間などとは比較にならない強度であるにもかかわらず、全く抵抗できない。そこには苦痛もなく呻き声を上げることもできない。



(私は―――誰だ)



 その手から力が抜けて、『白蛇』のコインが転がっていく。左右に揺れながらもデスクの下にまで落ちたコインは、軽快な音と共に数度跳ねた。その後もコインは床を転がり続け、やがて床の穴から下へ落ちそうになる。

 だがそうなる前にシュウが拾い上げた。



「これで回収完了、と」



 これで今代の『白蛇』は始末できた。

 正確に言えば、まだ殺したわけではない。そもそも《忘迦レテ》は殺傷能力のない魔法だ。死魔法であるにもかかわらず殺傷能力がない、というのは奇妙な話なのだが。しかしこの魔法の本質は魂への干渉である。幽忘術式ヘルヘイムの汎用術式である《忘迦レテ》は物理的な殺傷能力がゼロである代わりに、魂の精神領域を殺す。

 記憶、そして魔装のような魂に付着する魔力の力を削ぎ落す。

 魂を浄化するための冥府階層を限定開放するための術式なのだ。



「上手くいったが……覚醒魔装士にどこまで通じるかは微妙な所だな」



 元は覚醒魔装士に対する死魔力以外の対処法として考案していた術式だ。しかし無限に魔力が回復し続ける覚醒魔装士は通常の死魔法で殺せず、その魂を守る魔力を削ることしかできない。それを考慮すれば《忘迦レテ》もどこまで通用するのか分からない。

 尤も、現在ではそのモチベーションも変化して、虚数時空の住民に対する有効札にならないかと考えているのだが。



「もう少し出力を出せるように調整するか」



 《忘迦レテ》は開発して間もない術式だ。

 しかしながら肉体強度では防ぎきれないという点で既に優秀さを発揮している。膨大な魔力で再生するタイプの敵、同じく魔法を有する敵、そして精神的な存在である虚無たち。どちらかといえば虚無を意識しているのだが、結果として吸血種ノスフェラトゥのような面倒な相手にも有効であることが分かった。



「さて、あとは始祖とやらか」



 未だ《忘迦レテ》は止まらず、冥府の泉からは無数の黒い腕が生えている。それらは静かに、静かにこの世のものを奪い去っていく。

 赤い毒霧に包まれたヴァルナヘルで生き残っていた吸血種ノスフェラトゥたち、そして喰鬼グールたちは魂の力を奪われ、眠るように精神活動を停止させている。

 シュウは手元に黒い結晶を生み出す。

 そこから小さめの黒い腕が現れ、蠢いていた。








 ◆◆◆







 紅巾衆の始まりはアルザード王国にまで遡る。

 暗黒歴一五六二年、北より現れた赫魔の女王はアルザードを破壊し尽くした。人間を食料として扱う赫魔はアルザードの民を殺し、あるいは誘拐したのだ。だが全ての人間が消えたわけではない。幾らかの人間は東方に逃げ延びた。

 クロスという男もその一人だったのだ。

 彼は少ない仲間と共にシュリット神聖王国へと移動し、そこで復讐を誓う。家族を、友を、尊敬する隣人たちを、そして国を滅ぼした赫魔に並々ならぬ怒りを覚えていたからだ。

 しかしながら彼は戦う者ではなかった。

 戦士が尊敬されるアルザード王国では珍しく、戦うことが苦手な男だった。運動神経は悪く、体も小さく、そして気も弱い。だが一方で頭がよく、医学を志し、戦士たちの助けになることを願った男であった。



「赫魔には不思議な性質がある。その身体の一部を切り取ってもしばらく生きている。肉を与えれば活動し、溶かして取り込むこともあるんだ」



 クロスは医者であると同時に赫魔の研究者でもあった。

 これまでに撃退された赫魔から細胞の一部を採取し、その性質を研究していたのだ。それは多くに理解される仕事ではなく、一部の仲間たちと共に進めていた秘密であった。その秘密の地下室が赫魔の大襲撃から逃れるために役立つとは思いもしなかったが。



「赫魔を倒すには力が必要だ。こいつを解明してその力を手に入れることができれば……」

「だが危険じゃないのか?」

「危険なものを安全に扱うために研究するのさ」



 そんな風に仲間と笑い合っていた日々は壊れた。

 研究が実る前にアルザード王国は滅び去り、クロスは復讐の心を抱いて移住した。しかし移住先は慣れない異国の土地である。シュリット神聖王国はアルザードほど開放的ではなく、赫魔の研究を続けるのは困難であった。

 聖石寮は魔族について生態調査を行っており、討伐や迎撃に役立てている。だが捕獲して生体研究などは行っていない。赫魔と魔族の違いはあるが、クロスのように細胞を採取してその力の源を解明しようという動きはなかった。

 だから聖石寮や聖教会からすればクロスのやっていることは明らかな異端である。地下室で隠し通していた祖国と異なり、シュリットの地でクロスの研究を完全に秘匿するのは困難であった。どこから漏れたのか、クロスは聖教会から危険人物として追われてしまう。



「勝利には理解が必要だ。なぜそれが分からないんだ」

「聖教会の法はあなたを罪人と見なした。大人しくしなさい」

「もう少し! もう少しなんだ! 後少しで光明が見えるはずなんだ!」

「危険な研究だ。回収しろ。精査して、後に破棄する」

「やめてくれ!」



 彼は一度逮捕された。

 だが数少ない仲間のお蔭で脱獄が叶い、取り返した研究の一部を伴って更に東へ逃れる。聖教会に手配され、聖石寮からも追われる身となった彼は幾つかの街を経由する。時には危険な森に潜み、術師たちによる追手を凌いだ。

 やがて辿り着いたのがヴァルナヘルである。

 ここは逃れ者が集まる街。

 クロスたちを受け入れるには充分な器であった。この街にも聖教会は存在したが、元から移民が多くどこからともなくやってきた集団をいちいち調べたりはしない。人に紛れたことでクロスたちは時間を稼ぐことが叶い、紅巾衆という表向きの立場すら確立できた。



「再びこれだけの設備を揃えることができた……実に長かった。私もすっかり髪が白くなってしまったよ」



 彼が仲間の手によって聖教会から取り戻せた研究資料は僅かだ。小瓶の赫魔細胞サンプル、彼のまとめた研究資料の一部、そして実験用の器具が少しである。実験用の赫魔細胞は培養することで増やせる。しかし成果をまとめた資料を多く失ってしまったのが痛かった。

 一度通った道とはいえ、研究のやり直しは苦痛に感じる部分も多かった。

 しかし結果として初めより大きな成果となったのは間違いない。それは大きな支援を受けることができるようになったからだ。



「やぁ、僕は『黒猫』という者さ。君のことを見込んでいる。僕の組織に入らないかい?」



 どこにでもいるような平凡な青年にそう問われたときは驚いたものである。しばらくは怪しんで相手にしなかったが、『黒猫』の資金力や情報力を知ることで考えを改めた。紅巾衆を設立できたのは、クロスが『白蛇』として黒猫に迎え入れられたことが大きな要因となっている。

 ヴァルナヘルの土地を手に入れ、借り入れた資金を使って組織を拡大することができた。

 またそれによって入手した資産や権力を利用し、奴隷を使った人体実験も叶った。



「東方の商人から購入した奴隷は全て死にました。新しく仕入れる必要があります」

「そうか……上手くいかないものだ。成功すれば人を越えた力が手に入るはずなのだが」

「もうすぐ西側からの行商人が訪れる時期です。彼らから奴隷を買いましょう。西側の商人が奴隷を扱うことは本当に少ないのですが……」



 赫魔細胞を利用した強化人間の作製。

 それこそがクロスの望んだ結果である。これを為すためには人を使った実験が必ず求められる。クロスは紅巾衆の権力や財力を使って犯罪者奴隷を購入し、それらに対して赫魔細胞の移植実験を行ったのである。薬剤や魔力的な手法によって副作用を抑え、コントロールする術を見つけようとしていた。

 残念ながら全ての奴隷を使い切っても惜しい所までしか届かず、全て赫魔化する結果に終わる。幸いにも紅巾衆は強者揃いだったので、拘束具で動けない赫魔化した奴隷を処分するのは容易かった。



「西の商人から仕入れることができたのは……この少女一人か」

「申し訳ありません。どうやらアリーナに持ち込む予定の奴隷ばかりだったようで。しかしこの少女は目が見えず、価値が低いのです。そして体力もないとのことで、アリーナまで持っていっても元を取れない可能性が高いと判断されたのでしょう。途中で死んでしまうかもしれませんし」

「そうか、目が見えないのか。できることなら健康体が良かったのだが」



 実験体として優れているのは当然ながら体力のある男だ。それも健康体であればより良い。赫魔細胞は強烈であり、ひとたび定着すればあっという間に侵食してしまう。何人もの好条件だった実験体が赫魔の力に屈したことから、クロスも今回の実験体に期待などしていなかった。

 両目を覆い隠された少女は一言も喋らず、ただジッと何かに耐えているようだ。



「流石に失敗すると分かっていて実験はできない」

「しかしクロスさん、どうやらこの少女は年齢に見合わない魔力を持っているようなのです。紅巾衆の中に魔力を感知できる者がいまして、彼が酷く驚いていました」

「強い魔力……それは」

「はい。三つ前の実験で分かった、赫魔の力に耐えうる素質の一つです。肉体強度が低いからこそ、魔力による抵抗値を見積りやすいと考えています」

「なるほど。確かに試す価値はあるようだ」



 紅巾衆が購入した一人の少女が全ての始まりとなる。

 目が見えず、まだ幼い。とても実験に耐えられるとは思えない肉体だ。しかし魔力という点においては追随を許さない。

 稀にあるのだ。

 幼いながらに強大な魔力を保有している子供が。そうした子供は特異な力に目覚めている場合が多く、気味悪がられる。奴隷として売られた理由はそれだろうと当たりを付けた。



「哀れな子だが、人の未来のためだ」



 成功率を上げるため、それほど強い赫魔細胞は使わなかった。

 間違って自分に寄生されないよう、鉄の手袋を嵌めて慎重に移植させる。この作業自体は簡単で、意図的に傷を作り、それを埋めるように赫魔細胞を移植して回復の魔術をかけるだけだ。移植する赫魔細胞に合わせた傷の大きさ、回復力の大きさを調整する必要がある。その最適解はこれまでの実験で分かっているため、失敗することなどない。

 問題があるとすれば、実験体との噛み合いだ。

 こればかりはクロスの経験値から導き出される勘に左右される。



「これはっ!?」

「親父! どうなってんだ!? これまでの反応とまるで違う……」

「分からない……だが、まさか、赫魔細胞を克服した?」



 驚かされた。

 目の見えない少女は移植した赫魔細胞に喰われるどころか、逆に破壊してしまったのだ。人体に赫魔細胞を移植した場合、体組織による抵抗が起こる。これはいわゆる免疫作用の一種なのだが、クロスたちも朧気ながら現象を認知していた。

 しかしこれまで赫魔細胞の侵食を遅くすることはできても、完全に打ち破ることなどできなかった。まさかこのような幼い少女がそれを成すなど、更なる想定外である。



「魔力……決定打は魔力だったのだろうか? ごほっ……」

「大丈夫ですかクロスさん……んんっ」

「なんだか胸が辛いような」

「馬鹿野郎! 窓開けろ! 毒か何かだ!」



 秘密の研究を行っているというだけあって、この部屋は機密性が高い。窓は存在していたが、完全に塞いでしまっていた。まだ元気のある者は斧を取り出し、木の板を叩き割る。

 この行動によって彼らは死なずに済んだ。

 実験は中断し、まずは少女について調べることにした。



「分かったぞ。この奴隷はやはり特異な能力を持っているのだ。確か……魔装といったか。私の祖国にも稀に異能を目覚めさせる者はいた。そう、プラハ王国では魔装と呼ばれていた」

「おやっさん、そいつは一体……」

「ごく稀にいるのだ。生まれながらに強い魔力の素質を備えた者が。おそらくは血を毒に変える異能を有していたのだろう。紅巾衆に命じたのだが、この実験体の血を野生に獣に使ったところ、すぐに死んでしまったそうだ。つまり彼女に宿る血の毒が、移植した赫魔の力を破壊したのだ」



 魔装の力は特異的だ。

 そして人々には不気味に映ってしまう。かつては神聖なものとして扱われていたが、現代では不気味な魔族の力と同一視されることも多かった。それゆえ聖教会や聖石寮は異能者狩りのようなものを行っている。

 やはりこれほど幼い子が奴隷として売られた理由は間違いなくこれだ。

 クロスは改めて哀れに思うのと同時に、この幸運に感謝した。彼はこれまでも多くの犠牲を払って研究を進めている。今さら、哀れな少女だからといって実験を取りやめたりはしない。寧ろ彼女の特殊な体質による実験の成功を予感して意欲的になっていたほどだった。

 血を採取し、赫魔細胞との反応を見ることで最適条件を発見する。

 そして遂にクロスの努力は実を結んだ。



「完成だ。完璧に赫魔の力を制御している。強烈な捕食衝動もない」

「そうみたいですね。実験動物を与えた時、いきなり血を吸い始めて驚きましたが」

「捕食衝動を抑え、血液の摂取程度でリスクを抑えることができたのだ。つまりこの少女の異能は暴走する赫魔の力に対抗できる何かを備えている」



 それが始祖と呼ばれる吸血種ノスフェラトゥとなった。






 ◆◆◆







「なるほど。可哀そうなことだ。だが、これも仕事でな」



 シュウは手元に黒い結晶を浮かべつつ、視線を奥へと向ける。

 周囲には大量の吸血種ノスフェラトゥが倒れており、この場に立っているのはシュウともう一人。始祖の吸血種ノスフェラトゥだけである。

 両目を布で覆い隠された彼女は《忘迦レテ》によって精神を削りきることができなかった。



「……これでも出力不足か」



 《忘迦レテ》の発動に伴い、赤い霧は濃度を低めている。おそらくは始祖も瘴血を放つ余裕を失ってしまったのだ。そこでシュウは死魔法を発動し、周囲の霧から魔力を奪い取って消滅させていく。

 晴れ渡ったヴァルナヘルの中心地で、冥王と始祖は対峙した。







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