第468話 赤い霧の街


 空間を跳び越え、ヴァルナヘルの近くへと移動したシュウは驚いた。

 霊体化して宙に浮いているため地上の様子が俯瞰できる。しかし目に映る景色に都市と呼べるものはなかった。赤い霧が一面に広がり、地上を覆い隠していたからだ。



「これは……」

「あれは毒霧。の生物は少し吸い込むだけで死ぬ」

「なるほど。毒が効かない『冥王アークライト』に頼むわけか」

「そう。これは黒猫としてのお願いじゃない。いわば同盟者としての頼みさ。『白蛇』が関わっているから全く無関係じゃないけどね」



 シュウは目を細め、ジッと霧の奥に目を向ける。

 人間の可視光の範囲であれば何も見えないが、シュウの眼はそれ以外の光を見ることができる。赤外線や紫外線のような通常は感知できない色もはっきりと視認できる。加えて死魔法により魂の存在を感知できるのだ。

 だから外部からでも赤い霧に包まれた大地を観察することができた。



「魂が残っている。普通じゃない生物がいるな」

「そういうこと。今回の件はその『普通じゃない』奴らが根底の問題にある。『白蛇』の実験成果がこの面倒ごとだよ」

「この匂いは血か。血を毒の霧として散布しているのか? 『白蛇』は何を研究していたんだ。どう考えても普通じゃない。覚醒魔装の規模だぞ」

「残念ながら僕にも分からない。ヴァルナヘルで異常が起こった。あそこに潜ませていた人形はあそこで起こった何かに巻き込まれて壊れたよ」

「追加の人形は送ったのか?」

「それも全部使えないよ。あの霧は魔力すら阻害するみたいでね。空間転移で人形を放り込んでもすぐにガラクタになってしまう。僕の魔力量でゴリ押そうとしたけど、繊細な魔力操作が必要な人形の魔装は駄目だったよ。この弱点ばかりはどうしても克服できないね。三か月ほど色々試してみたけど、僕じゃお手上げ。本当に厄介だよ」



 黒猫は深く溜息を吐いた。









 ◆◆◆








 赤い毒霧に包まれた街は至る所に死が散乱している。

 見渡せば必ず死体を見かけるほどにありふれていた。肉の身体を持つあらゆる生物を容易く死に至らしめる強烈な毒である。人間どころか魔族ですら回復の魔力が尽きていずれ死んでしまうだろう。

 しかしそんな中、動きを見せる者たちがいた。



「始祖の瘴血は日に日に濃くなっている。流石に……厳しいな」

「だが俺たちは逃げ出せない。霧がある限り、俺たちはヴァルナヘルから脱出できない。くそ……」

「そう腐るな。俺たちは運がいい方だ」



 瓦礫の影に隠れる三つの人型。

 彼らは致死性の赤い霧の中でもどうにか生きていた。それは彼らが特別だからである。



「最前線はどうなっているんだろうな」

「始祖討伐戦は酷い有様だって聞く。何度も死を感じたって話も聞いた」

「いくら俺たち吸血種ノスフェラトゥが不死身だからって、本当に不死じゃない。もう血を残した死体なんてねぇよ」

「そう言うな。俺たちが血を集めなきゃ、最前線で戦う奴らはどうするんだよ。それに戦えない奴だっているんだ」

「……ああ、そろそろ休憩は終わりにしよう。干からびて死ぬのは御免だ」

喰鬼グールには気を付けろよ。生きたまま食われたくなければな」



 三人はほぼ同時に立ち上がり、ふらふらと移動を始める。

 彼らは皆痩せ細り、気力を失っているように見えた。






 ◆◆◆







「防御しろ! 始祖の瘴血攻撃だ!」

「うわああああああああ!」

「避けきれ―――」



 赤い霧が凝縮され、槍となって放たれる。その数は十や二十で済まない。軽く百を超えているだろう。お蔭で毒の霧は薄くなったが、それ以上に凝縮された毒の槍が雨のように降り注ぐ。



「死なないからと言って無駄にダメージを負うな! 血に渇けば本当に死ぬぞ!」

「無理に決まっ――ごほっ!」

「アステル!」



 一人の男を槍が貫いた。

 綺麗に喉を貫通し、首が弾け飛ぶ。だがその頭部は塵のようになって消失し、頭部を失った胴体の上に再構成された。



「ちっ……吸血種ノスフェラトゥになって良かったぜ。普通なら今ので死んでる」

「大丈夫かアステル?」

「気にするな。それよりお前も結構刺さってるぞ」

「問題ない。血は沢山飲んできた」



 赤い霧を固めた槍は分解され、抜かずとも消えていく。そして彼らの身体に空いた穴はあっという間に塞がってしまった。



「それより始祖は?」

「ピンピンしているぜ。こっちは全滅寸前だってのによ」



 視線の先。

 そこには再び赤い霧を槍にして浮かべる少女がいた。両目を黒い布で覆い隠し、襤褸の布を纏った少女の周りには血肉が散らばっている。どうにか接近しようとした者の末路だ。

 彼女こそ始祖と呼ばれる吸血種ノスフェラトゥ

 全ての吸血種ノスフェラトゥの始まり。

 不死の中の不死だ。



「なんでこっちが見えるんだよ。あいつ目を塞いでるのに」

「霧の中にいる限り俺たちのことは手に取るように分かるんだろうさ」



 始祖と戦う吸血種ノスフェラトゥたちは死屍累々だ。

 とはいえ致命傷すら回復する彼らにこの表現が正しいかは分からないが。

 そうこうしている間に始祖の様子が変わった。彼女の周りに赤い霧が集まり、それらが槍などとは比べ物にならないほど巨大なものになる。



「は、離れろ! 血の眷属だ!」



 それは竜であった。

 鋭い牙、鱗を持つ身体、そして刃のような爪。あまりに巨大なその獣は全身が深紅であり、赤い霧をオーラのようにまとっている。

 すぐ側にいた吸血種ノスフェラトゥの一人を噛み砕き、飲み込んだ。

 ああなると幾ら不死性が強くとも蘇ることはできない。至極あっさりと成し遂げられた不死殺しに吸血種ノスフェラトゥたちは畏怖の表情を浮かべる。暴れまわる赤い竜は始祖を守るような立ち位置から動かず、吸血種ノスフェラトゥたちは逃げるので精一杯だ。



「近づいたら磨り潰される。離れたら槍が降ってくる……こんなの、こんなの……どうやって倒せばいいんだ! 誰か教えてくれよ! いつになったらこの戦いは終わるんだよ!」



 その慟哭は赤い霧に吸い込まれる。

 始祖に抗う彼らの壊滅は近い。









 ◆◆◆








 赤い霧の内部に侵入したシュウは、ひとまず気配を消して観察に徹していた。ヴァルナヘルのほぼ中心地で行われている激しい戦いもその対象である。



吸血種ノスフェラトゥ……ね」



 致命傷で死なない。

 それは魔物や魔族に見られる特徴だった。どう考えても魔装や魔術で説明できる範疇を越えている。普段ならばダンジョンコアの関与を疑うところだが、今回はそうでないことを知っていた。



「これが『白蛇』の成果ってやつか。それにこの霧……体に纏わりついて鬱陶しいな」



 感知すれば魔力を含む霧であることはすぐ分かった。

 血を媒介にしたこの赤い霧は凄まじい毒素を含んでいる。その辺りに転がっている死体はぐずぐずに溶けてしまっていた。通常の腐蝕とは明らかに異なる有様である。



「黒猫が言うには生きている人間ほど効果が強く出るらしいが……この毒ならヴァルナヘルには入れない。そして毒に適応した人間が吸血種ノスフェラトゥってことか? もう少し情報を集めたいところだな」



 これが研究の成果ということであれば、必ず過程の記録が存在する。問題はそれが処分されず残っているかという点だが、そこは心配する必要のない話だろう。

 シュウは魂の感知を利用して密集地を発見する。

 中心部での戦いはまさしく最前線だ。そこから離れて幾つかの陣地があり、補給路のようなものも構築されている。魂も多くはそれらの陣地に固まっている。それ以外にも赤い霧を彷徨っているらしい魂が散見されるものの、多くは一塊になっていた。

 そこでシュウはそれら陣地を回っていくことにした。








 ◆◆◆







 ヴァルナヘルで最も多くの吸血種ノスフェラトゥが滞在している場所がある。そこはかつて紅巾衆という自警組織の本部があった場所であり、今は原形を残しつつも廃墟と化していた。しかし今や原形を残した建造物は貴重である。仮に廃墟であったとしても、多くの人が集まり、寄り添い合っていた。



「なぁ、答えてくれよおやっさん。俺たちはいつになったら始祖に勝てるんだ。いつになったらこの毒霧から解放されるんだ」



 ダンッ、と床を叩きながら一人の男が愚痴をこぼす。

 この部屋に椅子は一つしかなく、その一つには老人が腰かけている。だから腰を下ろすとなれば地べたに座るしかない。生活に必要であろう物はほとんど存在せず、その代わり大量の棚や箱が並べられていた。棚には糸でじた紙束が収納され、かなりの数がはみ出していた。



「おやっさん……あんたの研究はすげぇよ。俺たち紅巾衆が大きくなったのは吸血種ノスフェラトゥの研究が実を結んだからだ。始祖が完成して、その力を俺たちに移植して……あの頃は良かった。聖石も迷宮遺物もない俺たちが魔物をぶちのめせるようになったんだぜ」



 そう呟く彼に対し、老人は何も言葉を紡がない。

 手元の紙に何かを書き込み続け、偶に顕微鏡を覗き込む。そんな姿を見て男は溜息を吐きつつも語り続けた。



「俺たち吸血種ノスフェラトゥは血を飲まなきゃ生きていけない。血に渇けば喰鬼グールになって理性が飛んじまう。そんな危険を抱えていてもこの身体は最高だ。手足どころか、首を吹っ飛ばされたって死なない。俺たちのシマを守るためには必要な力だと思ったさ」

「おい、独り言もその辺にしておけ。オヤジの邪魔になる」

「独り言だって言いたくなる。どれだけ始祖と戦ってると思ってんだ。瘴血の霧で人間は皆死んじまった。始祖と戦うために吸血種ノスフェラトゥを増やしまくったせいで血も足りない。ここから逃げようにも俺たちはシマ以外を知らないし、そもそも霧のせいで出られない。どうなっちまうんだろうな」

「おい」

「始祖は最強だ。俺たちは始祖の一部の力しか持っていない。俺たち吸血種ノスフェラトゥを百人集めても――」

「いい加減にしろ!」



 部屋が静まった。

 愚痴をこぼしていた吸血種ノスフェラトゥの男は襟首を掴まれて高く持ち上げられる。そのまま壁に押し付けられ、石壁を突き破ってしまった。



「げほ……力み過ぎだっつの。ここを廃墟にする気か」

「お前を黙らせるためなら壁の一つや二つ問題ない。オヤジの邪魔だ」

「わーったよ。俺が悪かった。もう黙るっての。だが――」

「だが何だ?」

「いや、何でもねぇ」



 吸血種ノスフェラトゥは間違いなく強い種族だ。

 人間から進化した存在だと胸を張って言える。血の摂取とて人間でいうところの食事のようなものだ。確かに猟奇的な食事になってしまうが、高い身体能力や不死性や異能との引き換えだとすれば安い。魔力も常人を遥かに超えている。

 だが、彼らは絶滅の危機に陥っていた。

 奇しくも吸血鬼ノスフェラトゥの根源となった始祖によって滅ぼされようとしていた。







 ◆◆◆







 吸血種ノスフェラトゥも戦うものばかりではない。

 人間の中に戦士もいれば農民もいるように、吸血種ノスフェラトゥにも非戦闘員は多い。寧ろ戦える者は全体の内の僅かと言えるだろう。



「血ィ……血がァ、足りないィ」

「渇く。喉が、苦しい」

「ハァ……ァ、う……」



 ヴァルナヘルの一画を統治していた自警団、紅巾衆は幾つもの拠点を抱えていた。それは本部の屋敷であったり、物資の製造拠点であったり、倉庫であったりと様々である。完全に崩壊してしまった拠点もあるが、上手く残っている場所もある。

 紅巾衆の拠点を開放し、戦えない吸血種ノスフェラトゥたちの避難所としていた。



「このままじゃ始祖に殺される前に飢え死にしちまうぜ。血液回収班は何してんだよ」

「そう言うな。もう血液が残っている新鮮な死体がないんだ。腐肉ならあるかもしれないがな」

喰鬼グールの真似事なんて御免だよ」



 人間の食糧は吸血種ノスフェラトゥにとって食料となり得ない。より正確に言えば人間の食糧も食べられるが、一部リスクを孕んでいる。吸血種ノスフェラトゥが栄養として取り込むことができるのは新鮮な血肉である。つまり生肉であれば栄養にすることもできるのだ。

 だが吸血種ノスフェラトゥたちは生肉の捕食を禁忌としている。

 その理由は生肉が美味しすぎるからだ。



「どんなに飢えても肉だけは食うなよ。殺さなきゃいけなくなる」

「食わないし食わせない。俺は我慢できずに肉を食っちまった奴を見たことがある。酷い有様だった。理性を失って、仲間のはずの吸血種ノスフェラトゥすら喰らおうとしてたんだ。ああはなりたくないね」

喰鬼グールに落ちたら二度と戻れねぇ」

「渇いている奴は日に日に増えてる。最悪、まだ余裕のある俺たちの血を飲ませるしかないな」

「死ぬ前に肉を食いたいって奴もいるくらいだ。しっかり見張らねぇとよ」

「ああ」



 生肉は吸血種ノスフェラトゥにとって麻薬に等しい。一度でも口にすれば血液だけで生きていくなど考えられないほどの劇薬なのである。理性的な思考力を失い、ただ新しい肉を求めて彷徨い歩く化け物へとなり果てるのだ。

 今のところ、これに例外はない。

 そして厄介なことに、限界を超えて血に渇いても理性が失われ、喰鬼グールになってしまう。血液がなければ吸血種ノスフェラトゥに未来はないのだ。



「喉渇いたよ。お母さん、喉が」

「お願いです! 誰か血を分けてください!」

「血の配給はまだなんですか!」

「頼むから大人しくしてくれ。血は平等に分けている。これ以上はないんだ」

「どうして私たちを吸血種ノスフェラトゥにしたの! ふざけないでよ!」

「黙れよ。だったら瘴血の霧で死んだほうが良かったってのか!」

「だったら最後に肉を食べて――」

「馬鹿! やめろ!」



 始祖との戦いは随分長く続いている。

 血液の源泉となる人間は死に絶え、吸血種ノスフェラトゥだけが生き残った。誰もが先の見えない恐怖を前に限界を迎えていた。





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