第441話 全なる虚無
「クク……ハハハハハハ!」
玉座にてルシフェル・マギアは高笑いする。
彼が笑うことなど滅多にない。それこそ千年や万年に一度の珍事だ。力魔法を操り、この世界を創造したルシフェルにとってあらゆるものが既知だ。驚いたり思いがけないことで面白さを感じることなど少ない。笑みを浮かべることすら稀なのだから。
「どうかされましたか?」
「この俺の世界を歪め、アビスの世界を呼んだ奴がいる。冥王の所有物の女だ」
「人間が? それは随分な才能ですね」
「ああ。まさかあれほどの……だが奴の目に留まってしまったようだな。哀れなことだ」
ルシフェルは力魔法により世界を見通す。
その眼はこの世のものではない、悍ましい何かが這い出てくる様子を捉えていた。
「久しいな。我が宿敵にして片割れ……」
虚数空間より這い出るそれは、特定の形質を持たない。
この世に現れたことで物質を手に入れ、異形として顕現する。その存在をルシフェルはこう呼んでいた。
「
◆◆◆
虚無より這い出てきたその存在は言葉によって表現することのできない形質であった。玉虫色の如く鈍い色合いを見せたかと思えば、真っ黒な触手として空間を侵食する。そして果てなき虚無の中心部には蠢く心臓のようなものがあった。
虚数空間そのものが『ソレ』であるかの如く、徐々に膨張していく。
常に呪詛を語り、シュウたちの魂を侵食しようとする。《魔神化》によって冥界を展開していなければ魂を侵され、狂わされ、すでに終わっていたかもしれない。
「アイリス! すぐに虚数空間を閉じろ!」
「ママ!」
シュウは即座に手を伸ばし、死魔法を放つ。その対象はアイリスの魂だ。より正確にはその魂に触れようとしている『何か』である。
アイリスの精神に悪影響を与えているのは間違いなので、躊躇なく『死』を与えた。
効果は抜群で、すぐにアイリスは正気を取り戻す。
「え? え、私……」
「アイリス、アレを止められるか?」
「ちょっ、え、もう無理なのですよ!? 時空間の操作が無効化されます!」
即座に魔装の時間操作で虚数空間を塞ごうとしたが、全く受け付けない。まるで魔法に対して魔装を放っているかのような感覚だった。
こうしている間にも虚数空間は自ら膨張し、触手のような形状となって空間を侵食していく。まるで傷を広げるかの如く、虚数空間が広がり続けていた。何かの意思がそこにあるのは間違いない。『王』の魔物にも匹敵する何かが顕現しようとしていた。
精神を搔き乱す狂気的な感情が湧き上がってくる。
恐怖は止まることを知らない。
「お父様、ママ」
「心配するな。俺がどうにかする!」
珍しく焦りを見せたシュウは、黒い術式を更に放って冥界を拡大した。様子見などない、正真正銘の本気を出す。そのためにアイリスとセフィラは安全地帯の内側へと入れた。
「
冥界第三層に位置する魂の処分槽。
それがニブルヘルだ。魔神術式によって空間を掌握し、書き換え、限定的ではあるがニブルヘルを召喚する。触手のような形状となって広がる虚無と暗黒に、死魔力が降り注いだ。竜巻のように回転しながら一帯を消滅させ、万物を根源量子に還元する。その余波によって死が伝播し、物質の一部が灰のようになって散っていった。
空気の消滅に伴って暴風が吹き荒れ、万象一切が狂い始める。
だが虚数時空より現れた触手も死魔力とぶつかって一方的に消されているわけではない。寧ろ死魔力を対消滅させているように思えた。
(なんだ? 深い穴に物を落としてしまったようなこの感覚……)
死魔力が消滅しているというより、深い穴に落ちて戻ってこないような感覚だ。虚数時空の奥底へと沈んでいるということが感覚的に分かる。
虚数時空より這い出る触手は空間そのものだ。空間を支える魔力の隙間が集合したものが虚数空間のはずなのである。だが虚数時空は明らかに何かの存在が憑りついている。今まで冥界門としても利用してきた虚数空間が何か異質なモノにすら感じられる。
(生きているというのか? 虚数空間は)
突拍子もないが、納得できる材料が目の前にある。無であると考えていた虚数時空が死魔力と拮抗しているのだ。更には意思を持つかのように広がろうとしており、
シュウは溜め込んできた死魔力を使い切る勢いで放出し、死の嵐を引き起こし、虚数時空を封じていく。魔力量の差もあって少しずつ、本当に少しずつだが抑え込むことができていた。
「シュウさん? 大丈夫なのです? これ?」
「冥界の魔力をかなり使うが……問題ない」
口にした通り、死の魔力は虚数時空を封じ込める。
虚数時空の最後のひとかけらまで、完全に打ち消すことができた。残ったのは深淵渓谷が生み出す不気味な静寂の空のみ。
それからしばらく。
三人は一言も発することなく、身動きすることなく留まる。
「……終わったの?」
初めて父の力を目撃したセフィラは茫然としながらもそう呟く。それは問いというよりも安堵が漏れ出したようなものだ。
ようやくシュウも力を抜いて魔神術式を解除していく。空間に張り巡らされていた黒い術式が巻き戻るようにしてシュウに吸収されていき、本当の意味で元通りとなる。
「何だったんだあれは? アイリスはもう大丈夫か?」
「はい。ですけど覚えがあります。何かが私に語り掛けていました。虚数次元を開くように」
「……意思があるということか」
思えばおかしなことだ。
珍しくアイリスが大規模な魔術の実験をしたいと言い出したところから違和感があったのだ。《
「アレについて教えてほしいものだな。ルシフェル」
「構わんぞ。今の俺は気分がいい」
何の気配もなく現れたルシフェルに対し、そう問いかける。この世を構成した力魔法の使い手なのだから魔術という手段に頼らずとも転移は可能だ。
だがそんな驚きより、直々にルシフェルが動いたことの方が重大だ。
「俺は奴の力を深淵呪詛と呼んでいる。俺の力魔法と同じ性質のものだ。お前たちが虚数時空と呼ぶ世界を司っている」
「……創造者がいたのか。ただの隙間だと思っていた」
「隙間ということに間違いはない。俺からすればな。だが根源量子の世界とは異なる。つまり隙間であろうとも根源量子でない何かで満たされた世界であることに違いはない。俺の世界とは位相が異なる。冥王の作った冥界と同じだ。この世界とは少しずれた世界には違いないだろう?」
「なるほど、確かに。逆に向こうからすればこちらの世界こそ隙間ということか」
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。
有名な偉人の言葉だ。シュウは何となく、その言葉を思い出していた。そんなシュウの心を読み取ったのか、あるいはただの返事なのか、ルシフェルは深く頷いた。
「奴……あるいは奴らは精神的な存在だ。受肉を求めてこちらの世界に興味を抱いている。時にこちらの人間を誘惑し、暗躍することもある。その女はとりわけ厄介な存在に目を付けられたようだがな」
「アイリスが?」
「私がなのです?」
「ママ?」
「
「それはアイリスが虚数時空を操れるからか?」
「眼を付けられやすい理由に違いないな。よりにもよってアザトース・アビサスとは」
シュウは思わず反応した。
その名称は警戒せざるを得ないだろう。
「アザトースといったか?」
「正しい名は
ルシフェルの発した名称は理解することのできない音であった。それをどうにか言語化するならば『アザトース』となるだろう。また死魔法すらも押し返そうとしたあの力が魔法ならば納得もできる。
赫蝋の業魔を虚数空間に封じようとしたことが生贄を捧げた扱いになったのだ。受肉するための物質を求めているならば、あれほど良質な器はないだろう。アイリスはそのための案内役、ということなのかもしれない。
ゾッとする話だった。
「シュウさんどうしたのです? いつもならもっと……こう自信たっぷりといいますか」
「まぁな」
「アザトース、という名前に何かあるんですか?」
「もしも俺の予想する存在なら、色々と対策を講じる必要がある」
アイリスが目を付けられているというならば、これからも干渉してくるかもしれない。そもそもアイリスが突然《
直接的に出現するのではなく、こちらの世界の住人を利用する。
そのやり方はおそらくルシフェルを意識したものだろう。
「自ら
「そういうことだ」
ルシフェルが肯定したことでより納得は強まった。
冥界を創造し、管理するシュウの領分は死後の世界だ。『死』という状態を新しく定義した冥界を維持管理することがシュウの仕事であり、ルシフェルの世界に干渉することは好まない。あくまでも妖精郷という拠点があるからこそ滞在を許しているのだ。
またルシフェルの世界をより完全にするための協力者という立場もある。ある種の同盟関係なのである。
虚数時空に住まうらしいアザトースも同じだ。自らの意思でこの世に具現化しようとすれば、それを認めないルシフェルに押し返される。そんな面倒を避けるために人間を誘惑し、召喚させようとしているのだ。それならばこの世の存在たる人間が引き起こした事象なのでルシフェルも邪魔しない。
「世界は面白い方がいい。だが世界の『王』が直接動いては面白みがない。そのために人間という種を作ったのだ。努々、お前も心に留めておくことだ」
言いたいことだけを言って彼は姿を消す。
彼は面白いのかもしれないが、シュウからすれば新しい厄介事だ。なぜなら虚数時空は冥界門として利用しているのだ。色々と考えるべきことが多い。アイリスが目を付けられた以上、あまり触れたくなくとも研究する必要がある。
「冥界門のメンテナンスをする必要がありそうだな」
今日は情報量の多い一日だった。
赫蝋の業魔の発生。
虚数世界の『王』、
単語にすればたった二つの出来事だが、その濃度は吐き気を催すほどだ。特に後者はインパクトが強すぎた。赤い巨体の業魔など思考の隅に寄せられてしまうほどに。
「セフィラちゃんも今日は帰りましょうか。アポプリスで遊ぶのはまた今度ですね」
「……うん」
「その方がいい。忙しくなるしな」
「ですね」
故にシュウですら失念していた。
赫蝋の業魔は細かく分裂した細胞を操ることができた。戦いの最中、それらの細胞は飛び散っている。更に言えば魔族は魔物と異なり、肉体を得ている。故に魂が消えても身体は消失せず、残り続ける。有機体を侵食する赤い細胞はまだ残っている。魂がなくとも、性質はそのままに。
◆◆◆
赫蝋の業魔は虚数時空へと葬られた。
今頃は虚無たちに貪られ、その魂までも食い散らかされている頃だろう。しかし冥王アークライトとの戦闘で飛び散った細胞片は元の世界に残ったままであった。それらは深淵渓谷を中心として各地に散らばり、有機生命体と融合する。
流石に意思のない植物と融合するのは無理だが、動物や魔物はその対象だった。
たとえばある獣は地面に落ちた赤い塊へと不用意に近づき、牙を突き立てようとした。途端に赤い塊は蠢き、憑りつき、侵食し、獣を変貌させてしまう。
「ォォオオオ……アアァ」
呻き声なのか鳴き声なのか、赤い獣から音が漏れる。
欠片とはいえ絶望級魔物を取り込んだ業魔なのだ。獣は確かな意思を持っていたが、あっという間に力に呑まれてしまう。全能感ともいえる力の奔流を実感した獣は、同時に『飢え』を覚える。赤い獣は赫蝋の業魔から性質を引き継いでいる。つまり膨大な魔力を生成できる代わりに痩せ細って壊れていくのだ。
早く食わなければ。
そんな本能により獣は目につく餌を襲い始める。強大な力を得たが故に、捕食者の頂点に君臨している。魔族とまではいかないが、それに近しい新しい存在となって獣は暴れ始めた。
生きるために肉を喰らう。
普通の獣と同じ本能であるが、それが強すぎた。
飛び散った破片はかなり多い。
赫蝋の業魔の細胞片に寄生された動物は、凶暴さを増して彷徨う。獲物を喰らい尽くし、新たな餌を求めて遠くへ遠くへと移動する。
人間と接触するのも、時間の問題であった。
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