第438話 深淵の底
セフィラの引きこもりをどうにかしようと考えたシュウは、ひとまず妖精郷の外に連れ出すということで段階を踏むことにした。
その行先はアポプリス帝国。
魔神ルシフェルの統治する天使と悪魔の国である。
「ここ、どこ?」
島の外に行く、と言われたセフィラは多少の抵抗を試みた。しかし心を鬼にしたシュウとアイリスの手によって逃げ道は封じられ、あっさりと転移で連れ去られたのである。
外に行くと聞いて人間の国だと思ったセフィラは、少し様子が違うことに気付いた。
「ここはアポプリス帝国なのですよ。覚えていますか?」
「お父様と同じ、『王』の魔物が統治する国……」
「正解なのですよ」
アポプリス帝国を訪れるとき、シュウは必ず
「まずはルシフェルに挨拶する。行くぞ二人とも」
そう言いながら与えられた部屋の扉を開いた。
すると外には、跪いて待つ人物が一人。その背には小さな翼があり天使系であることが一目で分かる容貌であった。だが小童天使というわけではない。それどころかこの国においては幹部級の人物である。
「
「はい。我らが
「話が早くて助かる」
「紹介しておく。娘のセフィラだ」
シュウが呼びかけると、アイリスがセフィラを前に押し出した。少しばかりセフィラも慌てた様子だったが、すぐに礼儀を思い出す。
「セフィラです。えと、妖精郷に住んでいます」
「これは御丁寧に。私は偉大なる神ルシフェル様の最も忠実なる配下。終焉騎士団が一人、
「は、はい。よろしくお願いします」
非常に丁寧な物腰のガブリエルは転移の術式を準備し始める。
魔神の王座は転移によってのみ到達することができるためだ。シュウ、アイリス、セフィラの三人が術式の効果範囲に入った瞬間、四人の姿は消失した。
◆◆◆
聖守クィグィリナスは一つ、大きなことをなそうとしていた。それは深淵渓谷へと赴き、そこで魔神を討伐するというものである。
積極的に魔族を狩る彼は民の多くから支持を得ている。
全てを終わらせるために魔神を倒すという宣言は、やはり民衆受けした。多くの魔族を倒してきたクィグィリナスなら、魔神も倒せると考えていたからだ。
「思った以上に渋られてしまいましたね」
「仕方ありませんよ。まだ多くの街は魔族の脅威に晒されていますから。魔神を討伐するより、多くの街を魔族から守ってほしいのでしょう。しかし聖教会の意思に従う理由はありません。私たちは聖石寮の存在意義のために戦うのですから」
険しい地形を歩き続ける聖守一行は、事前調査の通りならば間もなく深淵渓谷に辿り着くであろう位置までやってきていた。
彼に付き添う術師は合計三十人。皆が聖石寮において上位の実力と知られる精鋭たちだ。また彼らを補佐するための術師も十五人いた。補佐術師はテントの設営、食事の用意、荷運びなどを担当する。聖守を含めて精鋭の術師たちが戦闘に集中できるようにするためであった。
「発見しました! 渓谷です!」
順調に進んでいた折りに、先行していた術師たちが戻ってきた。この辺りは地形がはっきりしないので、先行させた小隊に確認させながら移動している。実際にここへ辿り着くまで幾度か迷うことになり、本来の予定よりも三日遅れていた。
クィグィリナスは引き締まった表情で周囲を見渡す。
すると術師たちも頷き、先行小隊の案内に従って先へと進んだ。それからしばらくして、ようやく目的地に到達する。そこはこの世界の端なのではないかと思うほど、大きく裂けた地形があった。
「底が見えません。聖守様、お気を付けて」
「大丈夫です。どちらにせよ降りる必要があるのですから。《
「はい」
深淵渓谷はその名の通り、底も見えない深い裂け目だ。どう考えても普通の方法で降りることはできないだろう。故に《
この魔神討伐遠征は《
「行きましょうか」
「もう行くのですか!? まだ準備が……」
「準備は既に充分でしょう。一刻も早く魔神は討伐しなければなりません」
聖王剣を抜いたクィグィリナスは、深淵渓谷を背にして全員の前に立つ。そして刃を天に掲げ、声を張り上げた。
「聞いてください」
術師たちは姿勢を正し、傾聴の態度を示した。
「私たちは歴代聖守が果たせなかった魔神討伐に挑みます。最強と名高い初代……つまり聖守スレイ様ですら魔神は相打ちするだけだったとか。残念ながら私は初代様に並ぶ、あるいは超える力を持っているとは言えないでしょう。ですが為さねばなりません。私が魔神を討伐しない限り、人々は魔族に怯え続けることになるからです」
そしてクィグィリナスは切先を降ろし、渓谷の暗い底へと向けた。刃の先より火の玉が現れ、それが先導の光となる。まだまだ底は見えないが、それでも幾らか照らされて恐怖は薄れた。
まだ二十代であるにもかかわらず、クィグィリナスは誰よりも堂々としていた。まるで恐れなどないと言わんばかりに一歩踏み出す。
「私に続いてください!」
この暗い渓谷へと飛び込む猛者はそういない。だからクィグィリナスは演説し、一番に飛び込むことで他の術師たちを鼓舞した。聖石寮最強たる聖守が『続け』と命じたのに、それを拒否する者はいない。精鋭の術師たちは聖石により《
ある程度落下が緩和されているとはいえ、彼らはあっという間に闇の奥へと消えていく。
明かりとして発動した火の玉も、すぐに見えなくなったのだった。
◆◆◆
深淵渓谷はその成り立ちから分かる通り、生物など存在しない場所だ。微生物くらいならばあるのかもしれないが、見えないならば存在しないとみなしていいだろう。
「クィグィリナス様、三人死にました」
「そうですか」
深淵の底へと降り立った時、聖守含めて三十一人いたはずの彼らは二十八人に減っていた。その理由は落下途中での発狂死である。
「まさかここまで深いとは思いませんでした」
「気が狂ってしまっても仕方ないでしょう。クィグィリナス様の責任ではありません。それに動揺している者も多い……少し休みましょう」
「そうですね。まずは無事な者で安全を確保し、簡易的な陣地を作ります」
暗黒の中を落下し続けたことで、恐怖に呑まれてしまった者がいた。感覚がおかしくなり、《
また精神状態が悪い者が多い。
クィグィリナスも無理に魔神捜索を開始しようとはしなかった。
「《
聖王剣を地面に突き立て、土の第一階梯を発動させる。ただの第一階梯ではあるが、簡単な術式だけに応用が利きやすい。幾つもの土壁がせり上がり、この場を囲んだ。簡易的ではあるが防壁の完成である。ひとまずの安全は確保できた。
動ける術師たちは土壁の上に立って周囲の警戒を始める。
その間、クィグィリナスは少しばかり休憩する。
座り込むようなことこそなかったが、姿勢を楽にしつつ思考した。
(この様子では昇る時も被害が出るかもしれませんね。それに魔神との戦いで負傷者が出れば、抱えて飛ぶ必要もあります。少し想定が甘かったかもしれません)
とにかく魔神を倒さなければ、という思いでここまでやってきた。しかし目の前に迫ったからこそ分かる必要性もある。
(一度の遠征で討伐、というのは無理がありましたか)
深淵渓谷はあまりにも広すぎる。
この場所に魔神が潜むという話だけを知っていたので、ここまでくれば簡単に出遭うだろうと思っていたほどだ。自分の考えが浅かったのだと、若干の後悔を滲ませる。
だが来てしまったものは仕方ない。
(聖守の役目を果たさなければならない。それが私の生まれた意味ですから)
目を閉じて、意識を集中させれば魔力を感じ取れる。今までどんな強い魔物からも、どれだけ驚異的な魔族からも感じたことのない魔力ばかりだ。
深淵渓谷は人の手が入らなかった隔絶された世界。
淀み、蓄積され続けた魔力は強大な魔物を生み出す土壌になってきた。燃える火の玉が照らす限りでは、まだ目視の範囲に魔物はいないはず。炎の赤が景色に映り込み、奥に佇む闇と相まって不気味さだけが存在していた。
「気を付けましょう。まだ動きはありませんが、強力な個体の気配がします」
「私は感知が苦手なのですが……それほどなのですか?」
「どれが魔神なのか判別できませんね」
「まさかそれほどの魔境とは」
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
思わず耳を塞ぎたくなるような音が谷底で木霊する。背筋に嫌な感覚が走り、変な汗が流れた。クィグィリナスの魔力感知に引っかからなかった存在が、聴覚によって訴えかけてきた。まるで狂気が足音を立てて迫ってきているかのような、激しい焦燥感と抗いがたい恐怖がそこにある。
「……」
術師の一人が無言で何かを訴えていた。
クィグィリナスの耳には何も聞こえてこなかったし、彼の口も動いてはいなかった。だが、確かに彼はこう告げていたのだ。
『助けてください』
魔力は意思を伝える。
その性質が何かの拍子に働いたのかもしれない。詳細な理由はクィグィリナスの知るところではなかったが、確かに彼が伝えたかった
反射的に手を伸ばす。
しかしクィグィリナスの手は届くことなく、彼は突如として弾け飛んだ。
「ッ! 何が――」
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
また術師が弾け飛ぶ。熟れた果実が潰れるように。
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
また術師が弾け飛ぶ。熟れた果実が潰れるように。
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
また術師が弾け飛ぶ。熟れた果実が潰れるように。
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
また術師が弾け飛ぶ。熟れた果実が潰れるように。
「――起こっているというのですか!?」
こうしてる間にも何かを引きずるような音は続く。その度に術師の身体が弾け飛び、理由も分からず即死させられる。敵の姿が見えないにもかかわらず、『攻撃』は止まることがない。
不可視の恐怖がそうさせるのか、誰一人として悲鳴すら上げなかった。ただ狂気だけが伝搬し、恐慌だけが支配する。これらの光景を前にした彼らは言葉を紡ぐということすら忘れてしまっていた。ただクィグィリナスだけが正気を保っていたのだ。
一人、また一人と弾けて赤い液体をぶちまけていく。
不気味な引きずる音は鳴りやまず、魔術の明かりが照らす渓谷の底が赤く赤く、濃い紅に染まっていく。
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
最後の一人になったクィグィリナスの耳に、今までより更にはっきりとした音が聞こえた。左足から何かが這ってくるような感覚を覚える。
「ッ! 離れてください!」
足に力を込めると、その『何か』の感覚は消えた。
その代わりとして目の前に何かが集まっていく。ぶちまけられた赤色が生き物のように蠢き、一か所に向けて集結していた。やがてクィグィリナスの眼前で完全に一体化し、正体を露にする。
誰一人として種の名は知らない。
敢えて言うならば系譜に名を与え、それを知っているルシフェルくらいなものだろう。深淵渓谷という魔境が生み出した『王』へ至る寸前の強大な粘液系魔物。単純な有機物が魔力と結びついたことで誕生するそれは、微生物だけが存在する死の渓谷に相応しい魔物だった。
微生物レベルにまで分裂し、有機生命体へと寄生して同化する
「魔物……なのですか?」
激しく脈動する
そしてクィグィリナスは気付く。
炎の魔術を明かりにしていたので周囲が赤く照らされていたから勘違いしていた。
ズルズル。
グチュグチュ。
ベト。
ベト。
何度も聞かされた死の音が響いた。それは赤い霧が地面を這う音だったのだ。分裂した赤い細胞も空を飛ぶ力はない。重い気体が流れているようなものだ。その、音だった。
「ぉ、ぉおおおおおおおおおおおおッ!」
彼はいつも悲しみに暮れていた。
人々に訪れる数多の不幸を嘆いていた。
だが聖守として一度たりとも悲嘆を見せたことはない。どれだけ苦痛の光景を見せられても、聖守として人々の希望となり続けた。守るべき人がいる限り、
クィグィリナスは今だけ、激しい感情を見せつけて斬りかかったのだった。
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