第435話 セフィラの傷心


  ヴァナスレイの術師たちにとって、魔神とはすなわち絶望の権化であった。

 どんな魔術も通じない。

 ならばと聖守が戦っても数度打ち合っただけで実力差が如実に現れ、それから更に数度の打ち合いで勝負は決した。手首を失った聖守ヘクトールは脂汗を流しながら膝をつく。聖王剣も取り落としてしまったので、それを基点とする魔術も使えない。聖王剣は通常の聖石よりも強大な力を持つので、より安易なイメージでも勝手に補完してくれる。より賢者の石に近い性能になっているのだ。

 だがそれも手にしていなければ意味がなかった。



「魔神とはこれほどか……」



 流石のヘクトールも驚きを隠せない。

 痛みに耐えながらも、魔神の強さが信じられないという思いを露わにしていた。もはや動けないヘクトールのもとに魔神は近づき、右手を伸ばす。

 激しく魔力が増大し、助けようと動き始めていた他の術師たちは金縛りにあった。



「初代様……申し訳ありませぬ。この老骨では力が及ばなかったようです」



 忌々しさよりも申し訳なさが先にあった。

 聖守として魔神を討ち滅ぼすべく尽力しなければならないはずだった。それが力を与えられたことに対する義務だったのだ。だがヘクトールはそれを果たせないばかりか、僅かに足止めすることもできない。圧倒的な差を前にして屈しただけだった。

 魔神の右手より生じた光る鎖がヘクトールを捕らえ、それを伝って悍ましい色の魔力が流れ込む。ヘクトールは激しく痙攣した後、魔力によって包まれた。脈動する魔力は卵のようになり、しばらくすると溶けるように消える。

 内側より現れたのは子供のような何かであった。背中には小さな羽があり、足がなく浮いている。不気味なことに額に第三の眼が輝いており、それを目の当たりにした術師たちは悍ましさのあまり身を縮こまらせてしまった。



「アールフォロ、調子は?」



 魔神が尋ねると、恐ろしい容貌の何かは首を傾げるのみ。

 すると魔神は納得した様子で頷いた。

 一方で落とされた聖王剣に目を向けると、すっかり砕けてしまっている。何かしたわけでもなく破壊されていたので、聖守の命と対応しているように見えた。



「そんな馬鹿な」

「ヘクトール様が魔族に……?」

「嘘だ、嘘だ」



 術師たちは正気を失った様子だ。すっかり取り乱し、どうすれば良いのか分からないと呻く。

 茫然とする彼らに、魔神は剣を向けた。軽く踏み込み、刃が振るわれる。術師たちの命はその一刀によって引き裂かれようとしていた。

 ヘクトールの御付きをしていた術師は死の恐怖を前にして目を閉じる。死を受け入れ、同時に死の恐怖によって心を保つ。死にたいという願いと、生きたいという思いが釣り合った結果、彼は動きを止めてしまっていた。

 もはや思考の余地すらない。

 一秒と経たずに死ぬ。

 その直感が過ってからしばらく、彼は目を閉じ続けた。



(死な、ない……?)



 いつまでだっても訪れない死は彼を困惑させた。

 あるいは死を実感させないままに『あの世』へと連れていかれたのだろうか。真実を確かめるべく、ゆっくりと両の瞳に光を取り込もうとする。

 景色は変わっていなかった。

 ここは死後の世界ではなく、まだ現実だった。だが信じられないことに。魔剣を振り下ろそうとする魔神の腕や足、胴体に至るまでが蔦のようなもので覆われている。貧弱にも見えるその植物の拘束は意外にも強度があるらしく、魔神は引き千切ろうと力を込めて震えていた。



「何が……」



 彼がそう呟くと、他の術師たちも目を開いていく。

 同様に死を覚悟していた彼らも、これらの光景を目にして驚愕する。こうしている間にも魔神へと巻き付く蔦は脈動し、魔力を吸収することで強靭さと太さを増していた。



「ごめんね。迷っちゃって」



 死がつきまとう戦場に似合わない、少女の声だった。

 だがその声は前後左右のどこからでもなく、上から聞こえる。術師たちはほぼ同時に視線を上げた。声の主はその印象通り、少女である。まだ幼さを残す黒髪金眼の彼女は、くるりと反転して魔神や子供のような魔族と対峙する。

 彼女が手を伸ばすと地面が罅割れ、そこから新しい蔦が伸びて聖守より生じた魔族を捕らえた。魔神の時と異なり術に対する強い抵抗があったものの、セフィラの力が勝る。



「空から女の子が!? いや……霊系か!」



 霊系魔物は高位になるほど人間に近しい姿となる。そして精霊エレメンタルより上になれば実体化能力まで獲得するのだ。一方で霊体化している際は特有の魔力光が滲むので、見る者が見れば簡単に判別できることだろう。

 当然だが魔族や魔物を討伐する術師にその手の知識がないはずもない。墓地を中心に出現率の高まる不死属や霊系魔物の対処も彼らの仕事だからだ。

 ヴァナスレイの一画を消し飛ばし、聖守を魔族に変えた脅威の魔神。そして乱入してきた霊系の魔物。術師たちは一周回って冷静さを取り戻すことができた。それは死の危険を回避したことで緊張が解けたからかもしれない。一度でも安堵してしまったことで、糸が切れてしまったのだ。

 そして思い出す。

 聖石寮の使命を。



(そうだ。我々は人々のために戦わなければならない。我々という一を捨ててでも、守るべきものを優先しなければならない)



 聖石寮の教えは人々の守護である。

 魔物、魔族、魔神という脅威を退治し、安心を与える。大いなる力の象徴、星盤祖マルドゥークの存在をその身によって示すのだ。

 聖守側近術師の内、一人が魔術を発動するべく意思を集中させた。彼の聖石はそれなりの純度だが、刹那的なイメージを具現化してくれるほど優秀ではない。内部で魔術陣による処理が行われ、魔力が物理現象として表出した。

 炎の第一階梯《火球ファイア・ボール》。

 それは背を向けている霊系魔物に向かって放たれた。



「え?」



 少女の形をした魔物、セフィラは自身に迫る魔力と熱を感じて視線を後ろに向け、思わず固まる。しかも驚きのあまり集中力が途切れてしまった。魔導が弱まり、植物による拘束が弱まる。魔族の方はまだ動かないが、魔神は蔦を破って刃を振るう。

 その切先は丁度セフィラに触れるだろうと思われる間合いだった。

 前後からの攻撃に逃げ道がない。

 長く生きている割に戦いを経験したことが皆無のセフィラは、その場で思考停止することしかできなかった。何かを思う暇もなく、二つの攻撃がセフィラに直撃した……かにも思えたが、実際は彼女に届くことがなかった。



「危ないな」

「セフィラちゃんに悪さする人は許さないのですよ!」



 炎はシュウが死魔法で掻き消し、魔神の攻撃はアイリスが空間断絶で止めていた。すぐにシュウが振り返り、移動魔術で魔神を突き飛ばす。普通は弱い魔術など効かないが、シュウは器用にも死魔法で迷宮魔法を中和していた。

 すると魔神も吹き飛ばされたまま空中で体勢を変え、地面をすりながら着地する。そのまま背を向けて元来た道を走り始めた。緩まった拘束を抜け出したアールフォロも空を飛んで魔神を追う。シュウもアイリスも魔神を追撃するつもりはなく、撤退するならお好きにどうぞといった様子だった。



「ママ」

「セフィラちゃん駄目ですよ。人間は魔物が嫌いですからねー」

「でも……プラハの人たちは」



 安心感や戸惑い、そして悲しさが交じり合った結果、魔導が暴走して周囲から次々と植物が生える。もしも人間だったならば目尻に涙が浮かんでいたのかもしれない。それほどセフィラは動揺していた。



「こいつら何者だ……」

「魔物だ。霊系魔物だ」

「何が起こっているんだ」



 そして困惑する術師たち。

 突然魔物が現れたかと思えば魔神が撤退したのだ。何が起こったのか理解する方が難しいだろう。初めに現れた少女の魔物はすっかり怯えた様子であり、新たに現れた別の女が抱き寄せて慰めている。またその二人を庇うような立ち位置の魔物は冷たい視線を向けてきていた。

 まるで自分たちが弱い者いじめをしているような、そんな罪悪感すら湧いてくる。

 だがそれもすぐに吹き飛ぶことになった。



「……冥王アークライト? なのか」



 誰が呟いたのか定かではない。

 しかしこのセリフをきっかけとして皆が気付かされることになった。黒に包まれた『ソレ』は聖石寮の資料室にもある絵姿と似ていた。初代聖守スレイ・マリアスが警戒するようにと言い残した冥王アークライトの姿を描いたものである。

 だから彼らは気付いた。

 目の前に降臨した存在が、魔神にも並ぶ聖教会の敵ということに。



「あ」



 上手く声が出せない。

 魔神と対峙した時よりも強い圧力のようなものを感じた。



「はぁ……」



 シュウが軽く溜息を吐き、右手を軽く振り下ろす。

 すると大爆発が起こり、激しい衝撃によって術師たちは吹き飛ばされることになった。体力はともかく、気力が限界だった彼らはそのまま意識を奪われる。

 次に彼らが目を覚ました時、そこは独特の匂いが漂う医務室のベッドになる。

 彼が気絶していた跡地には、巨大なクレーターだけが残っていたという。







 ◆◆◆






 新年の祝宴が終わってから数日、ローランはどこかそわそわした様子だった。精神的に成熟していると言える彼が落ち着かないのは、やはりセフィラのことであった。



「陛下、お休みになられますか?」

「もう少し続ける。すぐにやめて寝るつもりだから、君は下がってよい」

「はい。どうか陛下もご自愛を」



 プリマヴェーラではない補佐官が退室する。

 植物由来の香油ランプが揺らぎ、その香りが漂うこの部屋は個人用の執務室だ。昼間は王を含めた複数人で仕事を処理する部屋を利用しており、場合によっては小会議も行う。だがここは寝室とも直結した一人仕事用の部屋となっていた。

 そのため王の執務室といっても最低限のものでしかない。



「ふぅ。もう少し待ってみるか」



 もうすっかり暗い窓の外を見遣る。

 後少し早い時間帯ならば、街に灯る火もしっかり見えた。だが流石にこの時間帯となると、警備用に灯されている最低限だけだ。

 ローランは心配を隠せない。

 部下たちも何となく察しているのか、夜更かしする彼に忠言することもなかった。



「今日も帰ってこないのか」



 大きく溜息を吐く。

 毎夜のようにセフィラの帰りを待っているが、連絡一つない。配偶者として王妃はいて、確かに愛していた。しかしセフィラはそれとは別に頼りになる存在だ。その関係性を言葉で表現するのは難しい。だが少なくとも親友以上の仲だったとは思っていた。

 何も言わずに長期間いなくなるなど、なかったことだ。

 今日は諦めて寝よう。

 ローランが手元のランプを消火しようとしたとき、視界の端で何かが揺らいだ。



「何者だ!」



 咄嗟に跳び下がり、近くに立てかけてあった槍をつかんだ。護身用というより装飾品として部屋に置かれていたものなので、握った感触はしっくりこない。しかしながら武器がないよりは遥かにマシだった。

 距離を取り、その『何か』を目にした。

 黒に包まれたそれは音もなく現れ、佇んでいる。



「誰か――」

「無駄だ。誰にも聞こえない。音を遮断する魔術を使った」



 思わずローランは口を閉ざす。

 王のいる部屋は必ず護衛が立っている。何か声を上げれば必ず突入してくるはずだ。しかしながらそんな様子はなかった。



「怖がるな。そして落ち着け。俺はセフィラの父親だ」

「……冥王」

「そういうことだ」

「セフィラはなぜいない?」

「少し嫌なことがあってな。立ち直れないでいる」



 突然のことに驚いたが、ローランは意外と落ち着いていた。シュウがセフィラの父親であるという事実が聞いていたのは間違いない。こうしてシュウと対面するのは初めてだが、それほど警戒していなかった。そもそも冥王という存在が伝説的過ぎるため、実感が湧かなかったということもある。

 何よりもセフィラが心配だった。



「彼女に何があった?」

「まぁ、色々な。少し時間はあるか?」

「……話を聞かせてくれ。時間は問題ない」



 王の部屋はしばらくの間、が消えることがなかった。









 ◆◆◆








 妖精郷の大樹神殿の一室。

 そこはシュウとアイリスの寝室であった。シュウは眠らないことも多いので頻繁に利用するわけではないが、一応はアイリスのために存在している。

 今日はそこにアイリスとセフィラがいた。



「人間って何なのかな」



 ある意味で哲学的な問いだった。

 生物としては貧弱だ。牙も爪も野生を忘れた程度しかない。身体能力も高いとは言えない。彼らの強みは知能だった。道具を作る、作戦を立てる、といった行為は勿論だが、何よりも社会性に優れた生物と言えるだろう。

 単独としては弱い。

 だが彼らは一つに集まることで加速度的に強さは増す。

 一つになって、敵を排除する。



「セフィラちゃんは初めて人間の悪意に触れましたからね。本当はいろいろ勉強してから触れてほしかったのですけど」

「ごめんなさいママ」

「どうしますか。プラハに戻りますか?」

「……やだ」



 アイリスは何度か問いかけているが、その度にセフィラは首を横に振る。精神的にも成長していたセフィラも、まだまだ子供でしかない。広いようで、狭い世界しか知らない子供でしかなかったのだ。



「人間が怖い。どうして酷いことしていないのに、あんなことするのかな」

「魔物が怖いのですよ。怖いから、遠ざけようとするのです」

「私は何もしてないもん」

「はい。セフィラちゃんは悪くないですよ」



 何度慰めてもセフィラは納得できなかった。

 それもそのはず。

 実際にセフィラがしたことは、人間を助けることだ。魔神に殺される寸前だった人間たちを守ってみせた。攻撃されるどころか、感謝されて当然である。恩を仇で返すような真似をされる経験はセフィラを深く傷つけた。

 なぜならセフィラはプラハ王国で女神として君臨している。神殿で崇められるような神格ではなく、王と契約する超常的存在という意味での女神だ。つまり本質的には魔物であることをプラハの人々は知っている。



「プラハの人たちも私に嫌なことするかもしれないもん。やだ、もうあっちに行かない」



 セフィラの意志は堅く、すっかり引きこもりになっていた。






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