第434話 魔神侵蝕
ヴァナスレイはシュリット神聖王国の中でも聖都シュリッタットに並んで重要な都市だ。聖教会の戦力として、人を護る力の象徴として設立された聖石寮の本部があるからだ。
二代目聖守デュオニクスが策定した対魔族、対魔物を想定した戦術のお蔭もあって術師の死亡率はかなり低減している。同じく策定された教育カリキュラムによって質の高い術師が育成されており、聖石寮の力はかなり大きくなっていると言える。
三代目聖守ラグルズは魔族討伐に対して様々な功績を挙げた。生粋の戦い好きだったという性格も合わさり、積極的に山水域の近くまで遠征を繰り返したほどだ。それによって生涯で三十六体の魔族を葬り、最期は襲来した疽狼魔仙を撃退し、浴びた呪詛が原因で死ぬことになる。
そして現聖守でもある四代目聖守ヘクトールは蟲魔域の探索と蟲系魔物の討伐に注力した。魔族は襲撃がない限り戦わず、その一生を蟲魔域に注ぎ込んだ男だった。
「ヘクトール様、お加減は如何ですか?」
「最近は体が鈍って仕方ないよ。私も流石に歳だからね。昔のように蟲魔域の魔物を殲滅なんてできやしない」
「おやめください。聖守様はもう七十にもなるのでしょう?」
「今年で七十一歳だよ。しかし私も死ぬまで責務を全うするつもりさ。最期の時まで聖王剣を振るっていたいものだ」
そう言いながらヘクトールは帯に差した聖王剣を撫でた。
新しい聖守が就任するとき、この聖王剣は生み出される。器となる剣に複数の聖石を使用し、聖守の血液を触媒として儀式は完成する。これによって聖王剣は当代聖守の専用武器となるのだ。聖守に合った剣が必要となるため、新しく生まれた聖守は十五歳になるまで剣の腕を磨き続けなければならない。
魔石を一撃で砕くこの剣は魔族特攻装備であると同時に、聖石の一種でもある。この剣を握る限り、聖守はまるで聖石を保有しているかのように魔術を扱えるのだ。故に他の術師たちと比較することもできないほど強い。それこそたった一人で蟲魔域で発生した蟲系魔物の群れを殲滅できるほどに。
だがすっかり生え際が後退し、代わりに髭を長く伸ばした彼は若い時ほどは動けない。剣で勝負すれば若手の兵士にすら劣るほどになっていた。
「この戦いが私の最期となるかもしれない。私は四代目聖守としての責任を果たすつもりだ。初代聖守スレイ様の遺志は私が実現する」
こうして彼が覚悟の言葉を口にするのは、ある預言のためである。
数日前、聖都シュリッタットの聖アズライール教会にて預言石が反応した。最高神官は預言石の間にて儀式を行い、
預言はすぐさまヴァナスレイへと伝えられた。
「まさか魔神が攻めてくるとは。私も御供いたします」
「君は止めておくべきだ。魔神と戦うことができるのは私……聖守以外に不可能だろう。衰えた私にどこまで可能なのか、それは分からないがね」
「いいえ。ヘクトール様と共に戦います。私以下、聖守直属の術師たちは同じ意志です」
この預言があったことで、ヴァナスレイは警戒態勢が敷かれている。
襲撃に備えて他の街からも術師を集めてきたほどだった。
「スレイ様。どうか私に加護を」
聖王剣の柄を握り、ヘクトールはしわがれたことで呟く。
その瞬間、聖石寮本部にまで届く爆発音が鳴り響いた。即座に襲撃だと気付いたヘクトールは側近たる術師の男と目を合わせる。
「承知しました」
彼は全てを理解し、行動を開始した。
そしてヘクトールも聖王剣の鞘に触れ、祈るように目を閉じた。少しの後、再び目を開いた彼は小走りで部屋を出る。最期の戦いに身を投じるために。
◆◆◆
ヴァナスレイを襲撃したのはたった一人の男だった。
片刃の黒い剣を持つ彼こそ魔神。
聖教会が最大の敵と定める存在であった。
「こ、こいつが魔神!?」
「まるで人間じゃないか!」
魔族を知る術師たちは、当然ながら魔神も化け物だと思い込んでいた。しかし実際には普通の人間と変わらない。だが明確にヴァナスレイに攻撃を仕掛けてきた時点で、敵であることは明白だ。そして預言のことも合わせれば、黒い刃を持つ男こそが魔神ということになる。
「おおおおお! 《
術師の一人が聖石により炎の第一階梯を発動した。聖石は魔術陣を介することなく、その内部機構によって魔術を発動してくれる。だから魔術について多くを知らなくとも、発動の意思だけで術を放つことができた。
とはいえ聖石も万能ではない。
よく知らない魔術までも聖石で具現化することはできないのだ。現代の術師では第一階梯を多少改変する程度が大抵。実力がある者は第二階梯や第三階梯まで操ることができるだろう。
炎の玉が勢いよく飛翔し、魔神へと直撃した。
「やった……」
「魔神と言ったってこの程度かよ!」
しかし燃え盛る炎の中から黒い斬撃が飛び出し、《
そして炎は弾け飛び、内より無傷の魔神が姿を見せた。
「化け物か」
「拘束だ! まずは動きを止めろ! 魔族討伐と同じ手順だ」
「《
魔神の足元より水流が生じ、それは渦を描きながら彼を囲む。魔族でも数秒から数十秒は拘束できる第三階梯の魔術だ。これを行使できる術師は少なく、高位の魔族討伐にも出陣する。歴戦の術師が放った魔術は信頼を得ており、必ず魔神の動きを止めると皆が確信していた。
だが水の牢が魔神を覆った瞬間、術は弾け飛ぶ。
魔神は青白い光に包まれていた。
「呪え」
黒い刃を手にする魔神は、そう口にしながら振るう。
解き放ったのは闇の第十二階梯《
このような街中で放てばどうなるか、想像に難くない。
術師たちは瞬時に消し飛び、ヴァナスレイの一画が消失する。本来ならば都市一つを容易く壊滅させる威力だが、魔剣の力によって抑えた威力での発動となった。それでも物質が蒸発したことによる体積膨張で大爆発が生じ、《
「……ッ」
更地になったその場所で、魔神は立ち止まった。苦しみ悶えるような表情を浮かべ、衝動を抑え込むようにして身を震わせていた。
宵闇の魔剣を地面に突き刺す。
するとその刀身を覆うようにして黒い魔力が集まり、鞘となった。宵闇の魔剣とセットで作られた常盤の鞘である。死魔法で生み出されたこの鞘は、物質に依存しない。魔剣のある所に留まるのだ。
「私は……俺は……」
『憎め』
「聖……守……」
『聖守を呪え』
「人を護り……」
『人を殺せ』
「世界を、救済……」
『世界を滅ぼせ』
常に聞こえ続ける少女の憎悪。
涼やかなはずのそれは劫火の如き熱を帯びており、毒のように浸透し、どろどろとしたしつこさがある。ヴァナスレイの街並みを見て、それを自ら破壊して、一瞬だけ理性のようなものを取り戻した。正確には魔神の呪いによる精神侵食が、心を揺さぶられるほどの動揺によって瞬間的に停止したのだ。
深淵渓谷で何度も呪いの言葉と戦った。
頭の中で響き続ける『魔神』の声はずっとスレイを苛む。
(お前は私が生み出した。私は……お前を、受け……)
『殺せ。呪え。魔神と化せ』
(戻らなければヴァナスレイを――)
『お前の作ったヴァナスレイを――』
(守るために)
『滅ぼすために』
最後の理性が溶けるまで僅か。
一度は呪いに負けてしまったが、再び深淵渓谷に戻らなければならない。
「あれが魔神だね。思ったよりも人間らしい見た目のようだ」
踵を返そうとした魔神スレイの耳に老人の声が届く。
呪いに抵抗し続ける彼はゆっくりと視線を移動させ、その声の主を目にした。すっかり年老いたその男は術師を幾人も引き連れ、既に剣を抜いている。また彼の衣服はどこか見たことのあるものだった。
「聖守」
小さく、ほぼ口も動いていない声だ。
そのため老人には伝わらなかったようだ。
「四代目聖守ヘクトールの名において命ずる。その覚悟によって魔神を討ち果たせ。たとえここが死地になったとしても、未来を掴み取らねばならない。我らに
まずは魔術攻撃から始まる。
空間を飽和するほどの勢いで炎の魔術が放たれ、魔神を焼き尽くさんとした。だが魔神の
『殺せ。聖守を、術師を、人間を殺せ。ヴァナスレイを滅ぼしつくせ!』
その瞬間、スレイは魔神の意識へと切り替わった。
◆◆◆
戦いの上空で三つの影があった。
この戦いを目撃するべく結界を張って見下ろしている。一応はあらゆる角度で戦いを観察できるようにと光学収集型観測魔術を使い、定点カメラ映像として幾つか表示させていた。
「凄い魔術。魔神ってあんなに……」
「アレは俺が初代魔神に与えた武器だ。魔神の本当の力はあんなものじゃない」
「宵闇の魔剣、常盤の鞘ですね」
「魔剣はともかく、鞘はあまり意味がなかったかもしれないがな。ただでさえ迷宮魔力の守りがあるわけだからな」
「元は対スレイさんを想定していますからねー……普通の人間には厳しいかもしれないです」
闇のアポプリス式魔術が込められた宵闇の魔剣。
それらはアリエットの復讐に役立つよう作った装備だった。シュウにしてみれば趣味の延長で作った遊びの品だったが、現代の人間から見ればオーパーツなどという範疇に収まらない。
「もう少しバランス調整するべきか?」
「人間側に力を貸しますか?」
「いや、それはダンジョンコアが勝手にやってくれるだろう。だが時間がかかる。俺たちは魔族を幾つか間引く方がいい」
当然のように今後の戦力バランスを議論し、二人は魔神に虐殺される今いる人間たちへは意識を向けていない。セフィラは戸惑った様子でシュウとアイリスに尋ねる。
「ね、ね。いいの?」
「何がだ?」
「あの人たちを助けなくて。プラハの人たちみたいに」
「必要ない」
シュウの素っ気ない返事に無意味と悟ったのか、アイリスへと目を向けた。
しかしアイリスも困ったような表情を返すだけ。
二人に人間を助けるつもりは一切ないということだった。
「流石に全滅だな」
「ですね」
スレイは自らの魔装を使うまでもなく、魔剣だけで終わらせるようだった。魔剣に込められた魔術も最初に発動して以降は使っていない。最後の理性が魔装や魔剣の力を使うことを圧し留めているのかもしれなかった。
だが剣技と魔神の頑丈さだけで最強となり得る。
まして低位の魔術しか使わない術師など敵にもならない。頼みの聖守ですら押されている。七十一歳にもなる彼では肉体の衰えがどうしても足を引っ張る。
遂に手首を斬られ、彼は聖王剣を落としてしまった。
(やっぱり、見ていられない)
セフィラは豊穣の女神として信仰されている。
人間は弱く愚かだ。
人間は強く賢い。
人間は複雑で面白い存在だ。
百年ほど関わっている内に、愛着すら覚えるようになった。プラハ王国という小さな世界でのみ人間に触れてきた彼女は、自身の価値観によってシュウとは異なる思いを持っていた。
(あんな可哀そうな人たち、助けてあげないと……でも)
父と母はまるでその気がない。
上位者たる二人が助けないと決めているのに、勝手をして良いのか。それだけがセフィラの衝動を押し留める。
「お父様、ママ」
「どうした?」
「何か見つけたのです?」
それでも二人に呼びかけたのは、セフィラの価値観がそれだけ強かったということだ。ローランという強い心を持った男と出会い、百年にわたって人の発展を見てきた。
人間たちの先を見てみたいと思う。
これこそがセフィラの偽らざる本心だった。
「私、あの人たちを助ける。お父様もママも動かないなら私が行く」
返事も聞かず彼女は飛び出した。
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