第320話 苦難のコントリアス
妖精郷は表面的にこそ自然と調和した都市となっているが、その地下には文明を感じさせる機械が大量に配置された研究室がある。シュウが命じて研究させているものもあれば、妖精や精霊たちが進んで研究していることもあり、その内容は様々だ。
またこの地下空間にはアイリスの魔装について研究する専用区画が存在した。
「どうです?」
「電子軌道の波動関数が理論値からどうしてもずれますね。我々が数式化できていない要素があると思うのですが……」
「実験値から関数を推定できませんか?」
「今のところはサンプルを集めるしかありませんね。何に依存する関数なのかも分かっていませんし」
アイリスは量子レベルでの時間停止という実験を行っている。
彼女が魔装によって何気なく使っている時間操作だが、それが物質上において厳密にどのような作用をしているのか調べているのだ。
たとえば物質を結合させる電子は、そのエネルギーによって軌道が決定する。また電子の位置は軌道上を確率的に存在しているのであり、よくある原子核の周りを回転しているイメージは誤りだ。どちらかというと確率で縛られた軌道上を連続して転移しているという認識の方が正しい。
ならば電子が確率的に存在する空間を半分に割り、片方を時間停止させ、片方をそのままにすればどうなるのか、というのが彼女の関わる実験だった。
「んー……どう見ても量子レベルでは時間停止が無視されていますよね」
「時間平衡理論や虚数時間理論を組み込んでみたのですが、どうもかみ合わなくて困っています」
主な実験方法は立方体の純物質を用意し、その半分に時間停止を仕掛けるというものだ。普通に考えれば時間が停止している境界面であらゆるエネルギーが遮断され、物質は真っ二つになってしまう。しかし物質は壊れることなくそこにあり続けるのだ。
この矛盾を解消するのが主な目的である。
提案されている時間平衡理論は、量子レベルにおいて一見すると停止しているように見えるが、実際は平衡状態でしかないという考えだ。時間停止境界領域において瞬時に動く電子と停止電子が連続的に入れ替わりを起こしているというものである。ただし、この理論は時間停止を完全な停止ではなく、限りなくゼロに近い時間の流れという風に定義する必要がある。時間の流れが急激に遅くなっていく非常に狭い領域を考慮することで成り立つ仮定だ。
もう一つの虚数時間理論は、通常実感している時間の流れとは別に虚数的な時間の流れが存在しているという理論である。停止しているのは実数軸時間のみで、虚数時間は動き続けているという理論だ。よって電子を記述する方程式に複素数時間項を入れて表現すれば解決するのではないかという考え方である。ただし完全に未成熟で、よく分かっていない部分が多い。
「んー。次元を増やしてみますか?」
「どういうことですか?」
「私の時間停止って、世界を止めているっていうより私を加速させている状態に近いんですよね。量子時間の隙間に入り込んで動いているっていうか」
「えっと、つまり時間も不連続ということですか?」
「たぶん虚数時間理論が近いことを言っていると思うのですよ。時間って魔力の元……根源量子の振動に依存しているわけですし、複素空間の回転で考えるべきです。えっと、だから横軸に実数時間軸、縦軸に虚数時間軸を取ったとき、複素数時間は原点を中心とした円を周回する値として考えるのです。だから虚数時間は実数時間に四分の一周期だけ遅れて流れるんですよね」
「複素空間に複素時間を加えて考えるということですか?」
「というか、時間の流れが変化する別系の空間と相互作用させる関数を作るって感じです」
「ああ! 次元の拡張ということですか」
「これまでは系で分けていちいち関数を変換していましたけど、それを一連のものとして記述する手法を探すべきだと思うのですよ」
非常に難易度の高い会話を繰り広げ、考察を繰り返していく二人。他の研究員も仮想ディスプレイを出して新しい式を議論したり、データの分析を始めたりと様々だ。
そんな彼らの下にアレリアンヌが現れる。
壁をすり抜けて現れた彼女はアイリスに声をかけた。
「アイリス様、あのお方から伝言です。どうやらコントリアスに向かって欲しいとか。詳細は共有フォルダの中に入っているとおっしゃっておりました」
「え? ありがとうございます。確かめてみるのですよ」
初耳だったアイリスは、早速とばかりに目的のファイルを見つける。
すぐに中身を読んだ。
「あー……」
そして申し訳なさそうに研究員たちへと告げる。
「ちょっと用事ができたのですよ。しばらく抜けると思うのです。ひとまず理論の見直しをお願いします。帰ってきたらまた実験を再開しますね」
研究員たちは残念そうにするが、不満を漏らす者はいない。アイリスが出かける理由がシュウの命令だと分かっているからだ。
今ではすっかりアイリスも受け入れられているが、妖精郷の魔物たちにとってはシュウこそが『王』であり神。仕えるべき存在と認識している。
だから彼らは転移で消えていくアイリスをただ見守り、言われたとおりに研究を進めるのだった。
◆◆◆
バロム上空決戦から十五日が経過し、バロム共和国は七割ほどの領土を取り戻していた。だが領内は神聖グリニアの派遣した軍隊が自由に行軍し、駐屯してよいことになっている。そのため元の家に戻れていない者も多くいる状況だった。
そして神聖グリニアがそこまで無茶を通すのには理由があった。
この日、コントリアスの宮殿宛てで文書による通告が行われた。
「スレイ・マリアスを聖騎士として差し出し、『剣聖』と『聖女』を解放せよ……か」
報を受けたイグニアスは上院を招集するより先にセルアとスレイを呼び寄せた。現在のコントリアスにとってこの二人の力は絶対に必要だ。国家として決定する前に、個人の意見を聞いておこうと考えた。
決して音が漏れない密室で文書を読まされたスレイは思わず溜息を漏らす。
続けてセルアも口を開いた。
「いよいよなりふり構わなくなりましたか」
彼女がそう言った理由は、文書の最後に付けくわえられた一文である。
要約すれば、従わなければ武力介入も辞さないというもの。明言はしていないが、従わなければ黄金要塞を差し向けると言っているのだ。
「……陛下はどのようにお考えですか?」
「ふむ。この際セルア殿のことは一旦置いておこう。まず私が考えるべきはお前についてだ。私の妹の婿でもあるお前は家族も同然。渡せと言われて大人しく渡すようでは我がコンティアーノ王家が下に見られているようなものだ。断固として抗議するべきだと考えている」
「しかしあれが国民に向けられるとなると」
「分かっておる。民のことを思えば屈した方が良いのだろうな。だがあの兵器が平然と使われる未来は、魔神教によって完全に支配された未来だ。誰も自由に発言すらできないかもしれない。思想すら統制され、逆らえば滅ぼされる世界が見えるようだ。未来を思えば従うことだけが正しいとは思えんな」
黄金要塞という大量破壊兵器は、国一つを容易く灰燼に帰す。
子供と大人が喧嘩をするようなもので、勝負は分かりきっているのだ。多少の抵抗はできるかもしれないが、それだけである。
ただ、手がないわけではない。
「我が国は中立を宣言している。神聖グリニアはそれを破ろうとしているのだ。国際法に反する行為として大帝国に助けを求めることはできる」
「それは頼りになるのですか?」
「元から国際法は『できれば守るべき』というルールに過ぎない。破ったところで法的な拘束力は存在しない。というより、国際法を破るような国家に対してそれは意味のない行為だからだ。普通は周辺国からの信用を失うということで守られるがね。だが神聖グリニアは魔神教の宗主国でもある。彼らが是と言えば、他国は従うことだろう。事実、少し前に侵略されたばかりだからな」
「そう、ですね」
「話が逸れたな。大帝国が我々の要請に応えてくれるかどうかは五分五分だ。どちらにせよ助けてはくれるだろうが、その後は大帝国同盟圏として参戦することを求められる可能性が高い。それでは変わらん」
この戦争が始まる少し前、同じく中立を維持するべく戦争を仕掛けた天空都市は神呪弾によって滅ぼされてしまった。戦えばコントリアスも同じような未来を辿る可能性が高い。
服従か、死か。
銃口を突き付けられながら選択を迫られている気分だ。
「私があの国に戻れば戦争は回避されるでしょうか」
セルアはそう口を挟む。
それに対してイグニアス王は首を横に振った。
「かねてよりスレイを聖騎士にしろと煩かったのだ。セルア殿だけを引き渡して終わるとは思えない。それに神聖グリニアはシンク殿が行方不明となっていることを知らないらしい。あなただけが戻ったとして、神聖グリニアが納得するはずもない」
「それは……」
「実をいえば我が国はシンク殿を失った時点で戦う道しかないのだ」
「……申し訳ありません。この国を巻き込んでしまって」
セルアは座ったまま深く頭を下げる。
元はこの世界大戦を止めるためにコントリアスに希望を見出した。中立国であることを利用し、対立する神聖グリニアとスバロキア大帝国を仲裁できるのではないかと考えた。だがその努力も虚しく世界大戦は始まり、何者かの策略によってセルアとシンクは裏切りの聖騎士という扱いを受けてしまった。
この国に大きな迷惑をかけたのは間違いない。
だがイグニアス王は目の前に責任を押し付ける理由があっても、そうしようとはしなかった。
「今は建設的な話し合いをするとしよう。私はこれより議員を集め、この国の行く末を決める。シンク殿のことで戦争になるのは間違いないだろう。故に話し合いは民の避難場所や、戦争の落としどころを決めるものになるはずだ。セルア殿……申し訳ないという気持ちがあるならば、我が国の為に最後まで尽くしてはくれまいか」
絶対に断れない、意地の悪い問いであることは分かっている。
だがイグニアスは国のため、絶対にセルアを逃すわけにはいかなかった。
「分かっています。責任は果たします」
顔を上げたセルアは、そうはっきり告げた。
◆◆◆
神聖グリニアがコントリアスに対して事実上の最後通牒を突き付けてから十日後、遂に返答が行われた。それは応じることができない、つまり戦争になっても仕方がないというもの。
だが魔神教最上位意思であるマギア大聖堂はこの回答を予測していた。
「神子殿が言われた通りでしたな」
「では予定通りにコントリアスを攻めるのですね?」
「仕方あるまい。それが最良という予言なのだから」
彼らは神子セシリアの予言通りに動き、コントリアスへの宣戦を決定した。しかも今回は神子が自ら乗り込んだ黄金要塞により攻め入るというのだ。初めからこうなるのは分かりきっていた。
ある意味で茶番だったのである。
アギス・ケリオン教皇は酷く平坦な声で告げる。
「この戦争を終わらせるため、コントリアスには犠牲になってもらうしかあるまい。我々に立ち向かうことがどれほど愚かなことか、世界に知らしめる必要がある。恐れてはならない。これは正義を証明する聖戦なのだから」
そこにはかつて西側の民を憂いていた熱心党党首の姿はなかった。
ただ教皇として、魔神教の長として、神聖グリニアを治める者として、必要な犠牲を強いる人物になり果てていた。
大勢のため、少数を犠牲にすることを是としていた。
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