第134話 『若枝』の失敗
ルキア商会の倉庫へと案内されたシュウは、『若枝』自らによって商品を紹介されていた。
倉庫だけあって薄暗く、幾人かの作業員がいる。
「会長!」
「いいわ。作業を続けなさい」
「はい!」
作業員たちからすれば『若枝』は遥か天上の存在だ。
そしてその『若枝』がわざわざ商品の紹介をしているシュウに対して疑問を浮かべている。今のシュウは元の服装と姿に戻っているので、一見すると怪しい。そんな不審人物を天上の貴人が案内するというのは、何も知らない作業員からすれば意味の分からない光景だったのだ。
「そうね……『死神』の要望ならこの辺りの商品かしら」
「これはなんだ?」
「髪に使う石鹸よ。香りがついているの。ちょっと高価だから貴族向けね。だから品質は保証するわ」
「肌用のは?」
「そこにあるわ。でもあれは固体石鹸。最近開発した液体石鹸はどう?」
「そんなものもあるのか」
シュウからすれば液体の石鹸はそれほど珍しいものではない。しかしこの時代においては先端的技術だ。流石は薬品のプロフェッショナル『若枝』である。
「興味がある。それも貰う」
「いいわ。後は香水なんていかが?」
「必要ない」
「いい香りの油もあるけど」
「それも不要だ」
折角、妖精郷という自然豊かな場所に住むのだ。香水や香り油など無粋である。
「それよりも布はあるか?」
「案内する前に、収納するところを見せてくれない? 約束でしょ?」
「いいだろう……回収しろ」
『若枝』とは異空間に物質を収納するところを見せ、それを可能とする魔物を説明する約束だった。シュウはすぐに影の精霊を呼び出し、石鹸の入った箱を影に沈めさせる。
影空間という概念的なものを操る特別な魔導だ。これには『若枝』も驚かされた。
「なんていう魔物なの? 蛇?」
「俺は影の精霊と呼んでいる」
「霊系だったのね……どこにいるの? どうすれば捕まえられるかしら?」
「さぁな。それは知らない。俺とコイツの出会いも偶然だった」
魔術《眷属召喚》により生み出したのが影の精霊だ。シュウもどこで出会えるのかは知らない。そもそも影の精霊が実在する魔物なのかも不明だ。少なくとも妖精郷にすら影の精霊はいなかった。
(やっぱり欲しいわね)
彼女も予想はしていたが、知識に無い魔物だった。同僚たる『鷹目』に頼めば見つけ出してくれるかもしれないし、自身の商会の情報網で見つかるかもしれない。しかし、『若枝』はシュウ自身が欲しかった。
その力はあまりにも魅力的である。
今代の『死神』は二十年近く活動していると『若枝』も知っている。同時に、その間に引き受けた依頼の全てを成功させていることも知っていた。
あまりにも魅力的である。
(ちょっと細工してもいいわよね?)
懐から香水を取り出し、自らに振りかける。それは『若枝』が自ら作り出したものだ。エリス皇妃のために作った催眠効果のある危険薬物である。しかも、より原液に近いものであるため強力となっている。
この香水を振りかけた女に言葉を掛けられた男は、全てを肯定してしまう。
薬物の効果で意識が朦朧として、その間に吹き込まれた言葉はすべて正しいと錯覚する。これこそ『若枝』が最高傑作の一つとまで考えた薬品だ。
そんな香水を自らに振りかけた理由は簡単である。『死神』を手に入れるためだ。
影の精霊に物品を飲み込む間、シュウはそれを観察している。『若枝』は不意に背後から近づき、腕を絡めて体を圧しつけた。
「ねぇ、私のものになってよ」
「……しつこい」
「いいでしょ?」
シュウは鬱陶しい態度と香りに辟易とするだけだ。
薬物の効果はいつまでも現れない。
これは『若枝』も焦り始めた。原液に近いこの薬品を使用したにもかかわらず、何の効果もないのだ。普通ならば自我が薄れている頃である。男ならば逃れられないはずだった。
(おかしいわね)
『若枝』は笑みを浮かべつつも内心で困惑していた。
一方でシュウも違和感のある香りを感じていた。先程まで『若枝』からはしなかった香水の香りである。どちらかといえば良い香りではあるのだが、濃すぎるのだ。どれほど良い香りでも、適度な濃さでなければ吐き気を催すほど気持ちが悪い。
そして魔物であるシュウは、肉体構造が人間とは異なる。人間に効く毒は無意味だ。つまり『若枝』の切り札とも言える香水は、シュウにとって気分を悪くするだけであった。
荷物を影空間へと飲み込んだ影の精霊は、悠々とシュウの影の中に戻っていく。シュウも気分の悪い場所はさっさと出て行きたかった。
「そうだ。今夜、私とイイコトしない?」
「鬱陶しい。もう収納も終わった。俺はそろそろ行く」
「いいじゃない。だから――」
「邪魔だと言っている」
強烈な魔力の圧が『若枝』を襲った。意思を伝達する魔力を応用すれば、殺気を飛ばすこともできる。悪意や殺意といった感情は、浴びせかけるだけで他者を怯ませるのだ。特に戦闘を得意としない『若枝』のような人間には効果抜群である。
腰を抜かした『若枝』はその場でへたり込んだ。ガクガクと体を震わせ、青褪めた表情で茫然としている。シュウほどの魔物の殺気を浴びたのだから当然だ。寧ろ廃人にならなかっただけマシである。
「次から相手には気を付けろ」
先代の『若枝』から交代したことで、今の『若枝』は『死神』の恐怖を知らない。
シュウはそう言いつつ、倉庫から去っていった。
◆◆◆
(ば、化け物よあれは)
茫然としていたところを従業員に助けられ、『若枝』は自室で震えていた。今も残る殺気の悪寒は心の奥底から蝕むようだ。一生の恐怖として残るだろう。いわゆるトラウマとして刻まれていた。
一瞬にして格の差を知らしめられたのだ。
もう『若枝』に『死神』をどうこうするつもりはない。手を出してはならないと本能が叫んでいた。
「逃げるわ……」
ふらりと立ちあがり、彼女は決意する。
もうエリス帝国にはいられない。一刻も早く『死神』の領域から逃げ出さなければという思いに駆られていたのだ。
『若枝』は荷物をまとめることもなく、馬車に乗って国を出ていく。
そしてそれは正解と言える行為だったと後に彼女は知った。
◆◆◆
シュウは『若枝』の店から出た後、大聖堂を目指していた。目的は聖騎士たちの動向である。この国にSランク聖騎士が訪れていることは既に知っている。そのため、どんな行動をしているのか確認するため大聖堂に訪れたのだ。
ちなみに魔神教の大聖堂は一般に開放されており、また掲示板には聖騎士の活動などもしっかり記されている。情報収集をする魔物などいないと考えているため、魔物討伐については事細かく記されているのだ。逆に闇組織の摘発情報についてはほとんど公開されない。
(さてと……人が多いな)
大聖堂前の広場は毎日のように人混みが生じている。特に商人や商人の使いは頻繁にこの場所へと訪れるのだ。
その理由は簡単である。
教会が討伐した魔物とその魔物が出現した位置を知るためだ。掲示板にはそれが細かく張り出されているので、それを確認して移動ルートを決定する。たとえ遠回りでも、魔物の討伐された安全な道を選択するには情報収集が必須なのだ。
魔神教は戦力である魔装士を独占している。
その代わり、このような情報は頻繁に更新する義務があるのだ。そうでなければ人々が安心して暮らすことなど不可能である。
それで掲示板のある広場はいつも人が多い。
「南の街道はもう安全みたいだな……南周りにするか?」
「いや、東を掃討するみたいだぞ。例の遠征が終わったらすぐだってよ。それまで待った方がいいだろ」
「だが遠征もいつまでかかるか分からないぞ。それなら遠回りでも先に出発した方が早いって」
「だが街で宿泊した方が楽じゃないか」
「馬鹿! 誤魔化して後でバレたらご主人にお仕置きされるぞ! 俺はもう二度とごめんだね」
「わ、分かったよ。南周りだな!」
「ああ」
シュウの隣で話し合っていた男二人の会話から、ある単語を拾う。
(遠征……?)
わざわざSランク聖騎士がやってきたのだ。その国の大聖堂としては、厄介ゆえに放置している魔物を討伐しておきたいと思って当然だろう。
だがシュウには何かが引っかかった。
(確認するべきか)
中々進まない人混みを少しずつ進んでいき、ようやく掲示板が目視できる位置までやってくる。まだ文字が見えるほどの距離ではなかったがこれで充分だ。
シュウは瞳に魔力を集め、魔術陣を形成する。光の屈折を操作する魔術により、疑似的な望遠鏡を作成したのだ。このような無茶は人体では難しい。人体構造に影響を与えかねないので、激痛が走り、下手をすれば失明の危険もある。しかしシュウは魔力で肉体を構築した魔物なので、この辺りの問題は全てクリアしていた。
視野がぐんと前に進み、掲示板の文字がハッキリ読めるようになる。
(遠征……遠征……)
一通りは読みつつ、気になっている遠征の欄を探す。
そして遂に見つけた。
同時に愕然とした。
(皇帝の命令で……妖精郷の捜索と征伐だと!?)
嫌な予感はしていたが、まさにその予感は当たっていた。
しかしシュウはすぐに冷静になる。妖精郷には迷いの結界が張られているのだ。簡単に辿り着けるとは思えない。迷っているとすれば、まだ海上だろう。
(……何かの方法で霧の結界を無効化していたら、もうすぐ妖精郷に辿り着く時間だ)
遠征に出発した日から逆算すると、楽観視はできない。
(念のため、戻るか。換金は中止だな)
まだ余っている金は大量に残っている。しかし、それは後でもできることだ。まずは妖精郷に残したアイリスの安全を確認するため、一度帰還することに決めた。
シュウは人を押し退け、広場の外へと向かっていく。途中で文句を言われたり怒鳴られたりもしたが、すべて無視した。
手遅れとなる前に、急ぐのだ。
そしてシュウのこの考えは正しかった。
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