第122話 欲という悪意
エリス帝国の皇妃エリスは悪女だ。
しかし、生まれ持った悪ではない。彼女にも純粋で純真な時代があった。
「ほら、ご覧エリス。あの方が次期エヴァンスレイン家の当主となられるアレス殿だ」
「よく顔を覚えておくのよ? 皇帝陛下より南部の統治を委託された偉大な大貴族のお世継ぎとなられる方ですからね」
エリスが初めてアレスと出会ったのは、八歳の時だ。現エリス帝国の皇室であるエヴァンスレイン家は大貴族であり、エリスの一族もエヴァンスレイン家の庇護下にある貴族だった。
父と母に紹介され、遠目から一方的に知っただけ。
しかしエリスは一目惚れした。
(なんて凛々しい方……)
貴族とは見栄が重要だ。
それが分相応なものならば良いが、中には虚勢と見栄を混同する貴族もいる。エリスは自分の美貌には自信があったし、そんなエリスの美貌を求めて婚約を迫るマセた貴族の子供も多くいた。所詮は子供のお遊びであり、本気にする必要はない。しかしそんな子供たちの婚約申し込みを真剣に受け取り、馬鹿にして見下すエリスも大人びたようで大人に憧れるだけの子供だった。
そんなエリスも六年経てば婚約を結ぶ年頃だ。エリスはアレスの婚約者となるため、努力していた。
「エリス! 最近の散財はどういうことだ! 無駄遣いが過ぎるぞ!」
「無駄遣いではありませんわお父様! これはアレス様に見初めて頂くためです!」
「我が家はあのお方と家格が違うと何度言えばわかる。お前には相応な婿を宛がうつもりだ」
「嫌ですわ!」
「エリス!」
当時エリスと彼女の父はよく言い争っていた。
エリスは六年経っても、子供のままだった。
彼女の家は貴族としてそれほど強い力を有する訳ではない。街を一つと、小さな村を六つ管理するだけの貴族だった。エヴァンスレイン家のように広大な土地を支配する大貴族には釣り合わない。それはつまり、エリスではアレスに釣り合わないことを意味していた。
アレスが特別にエリスを婚約者として選ばない限り、あり得ない話なのだ。
「いい加減、夢を見るのは止めなさい」
「夢ではないわ! 私は、私は……」
アレスに相応しい貴族の女性は幾人かいる。その女性たちは婚約者候補としてエヴァンスレイン家から認められており、またそれぞれが婚約者となるために自らを磨いていた。女性としての美しさは勿論、教養の点でも一般の貴族女性とは比較にならない高度な水準である。
エリスがそれらの女性を、家格というフィルターすら凌駕しなければアレスの婚約者となる道はない。
それゆえの散財だった。
(私は……美しくならなければならないの……美しくなって、アレス様に……)
彼女はどこまでも子供だった。
純粋で純真な子供だった。
しかしそれに強い欲が混ざることで、無意識の悪意となる。
彼女は悪女になった。
…………
………
……
…
天蓋付きのベッドで目を覚ましたエリスは、すぐにベルを鳴らして侍女を呼ぶ。そしてネグリジェから普段着のドレスへと着替える手伝いをさせた。
「皇妃殿下、本日のお加減はいかがでしょうか」
「気分が悪いわ。良くない……昔の夢を見たのよ」
「昔……でございますか?」
「そうよ。私を縛り付け、惨めを強要した愚か者の夢よ。気分が悪いわ」
エリスの感性は子供に近い。
大人としての思考力と判断力を正常に有しているにもかかわらず、その基準が子供のような感性なのだ。我儘勝手ともいう。
侍女はエリスの性格を熟知していたので、まずは機嫌を取るべく朗報を与えた。
「殿下、ルキア商会にご依頼されていた香水が届きました」
「遅かったわね。一か月ほどかしら?」
「はい。すぐにお持ちしましょうか?」
「そうね。持ってきて頂戴」
侍女は目で合図して、別の侍女に香水を持ってこさせる。
その間はエリスが退屈しないように、噂話などを交えながら楽しませた。しばらくすると美しい細工を施された木箱が持ってこられる。皇室御用達ともなれば、外装にまで拘るのだが普通だ。そして中には一流以上の代物が納められている。
箱を開けると、水色の液体がガラス瓶に入れられていた。
「これよ、これ」
軽く手の甲に香水を落とし、香りを確かめる。
いつも以上の香りであることにエリスは満足した。
そして侍女に命じる。
「今夜は陛下の寝所に行くわ。湯あみの後、この香水を付けるから準備しておきなさい」
「かしこまりました」
黒猫の『若枝』が手掛けた魅惑の香水。
そして家格の低いエリスがアレスを射止めた誘惑の香水である。
彼女は今でも、アレスに『お願い』をする時はこの香水を利用していた。
◆◆◆
シュウとアイリスは妖精郷を一時離れ、帝都を訪れていた。
その目的は空間魔術の研究を盗み出すためである。尤も、どれほどの技術が研究されているのかは不明なので、無駄に終わるかもしれないが。
「昨日まで下調べをしたが……思ったよりも警備が厳重だ。やはりアイリスは留守番だな」
「またなのです!?」
「正面から行くのは面倒だ。俺だけなら霊体化ですり抜けもできる」
「はぁ……仕方ないのですよー」
アイリスは足手まといとまではいわないが、シュウと比較すると見劣りする実力しかない。アイリスにできてシュウにできないことはないのだ。
基本的に二人は一緒にいるようにしている。
いざという時、アイリスを守るためだ。
しかし危険な場所に潜入するとき、アイリスを連れて行った方が危険だと判断した場合はシュウも単独行動を好む。今回の場合や『死神』としての暗殺任務がその例だ。
「この宿屋はセキュリティも高いし、高級志向だ。それに幻術で顔も隠している。部屋から出なければ問題ないハズだ」
「ベッドを温めておくのですよ」
「寝る場所は別だ。なんのためにツインベッドにしたと思っている」
いつものやり取りをした後、シュウは窓から外を眺めた。
その先には丁度、皇帝の住まう宮殿が見える。国家機密を研究する魔術研究所は宮殿の中の塔の一つというのが『鷹目』からの情報だ。
郊外の研究所ならともかく、宮殿の中にある研究所に潜入するのは難しい。
アイリスを連れていけないのはそのような立地の故だった。
「行ってくる」
「待っているのですよ!」
「ああ」
シュウは魔力で黒い外套を生み出し、全身を隠して窓から外に出る。そして夜の闇に紛れつつ、屋根伝いに宮殿へと向かって行った。
◆◆◆
霊体化と振動系統魔術による幻覚で姿を隠したシュウは、易々と宮殿に侵入していた。シュウの前には高い防壁も厳戒な警備も意味がない。
(確か、こっちか)
綿密に下調べをしているので、魔術研究をしている塔までの道順は覚えている。見回りをしている警備兵も透明化しているシュウには気付くことがなく、素通りしていく。
エリス帝国の宮殿には侵入者を警戒するための警備網が厳重に組まれており、普通の侵入者ならば建物に辿り着く前に見つかって捕まる。警備兵は魔装士か優秀な魔術師なのだ。そして同時に、優秀な研究員としての魔術師も沢山いる。そのような魔術師が塔で研究するのだ。
塔は目立たないような造りである。
しかし、魔術師でもあるシュウが見れば厳重に魔術の防御をかけていることがわかった。魔道具と同じ技術である。陽魔術を塔そのものに付与しているのだ。
(中々に工夫しているが……まだ甘い)
死魔法で局所的に魔力を消し去っても警報が鳴るように仕組まれている。つまり何も考えずに死魔法を使えば気付かれてしまうのだ。
ならば、もっと大胆に使えば良い。
塔全体に仕込まれている全ての魔術を死魔法で殺す。
シュウが魔力を掌握し、ギュッと右手を握り潰すような仕草をする。すると全ての魔術が消えた。防御も警報も一気に消えたので、誰も気づかない。優秀な魔術師も、術式が一斉に消去される事態など予想もしていないのだ。
(さて、目的のものを頂くか)
シュウは悠々と塔の中に消えて行った。
◆◆◆
時を同じくして、宮殿の奥の間では皇帝アレスと皇妃エリスが床を共にしていた。二人には既に後継者候補となる息子が三人いる。しかしエリスは定期的に皇帝と寝ていた。
それは皇帝を誘惑し、思い通りに動かすためである。
欲には際限がない。
エリスはアレスを手に入れ、更に他のものまで欲していた。
「ねぇアレス。前に言っていた妖精のことなんだけど、ダメかしら?」
「妖……精……ああ」
「妖精の血は永遠の美を与えてくれるの。私にずっと綺麗でいて欲しいでしょ?」
「う、あ、あぁ」
アレスは理性的な普段の様子からは考えられないほど虚ろだ。舌が痺れたかのように呂律が回らず、瞳も宙を泳いでいる。
『若枝』が調合した誘惑の香水により、アレスは思考力を奪われているのだ。
エリスが頼んだことに頷いてしまう状態である。
そしてこの薬品の利点は、効果が永続することである。思考力が奪われるのは短い間だけだが、徐々に洗脳されていくのだ。毎日繰り返すことで、エリスの頼みごとをアレスは自分で判断した事柄だと錯覚してしまう。『若枝』が調合したのはそんな恐ろしい薬品だった。ちなみに、女性には効果がない。
「妖精を取り尽くすの。いいでしょ?」
「ああ……」
薬物の効果により、倫理観が取り去られる。
そして女が魅力的であるという思いを湧きあがらせる。
この二つの効果により、アレスはエリスの願いを断れない。寧ろ、絶対に聞き入れなければならないという強迫観念に襲われる。
「妖精……手に入れ……」
「そうよアレス。頼むわね?」
「ああ……」
大国の皇帝がしてはならない決断をしてしまった。
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