第1話 僕らはハクジョーを持った先生と出会った

 ボクの人間関係は80人で終結する。

 本土から船で4時間。海の中に迷子のように佇んでいるこの島は、ボクが3つの時から人口が変わっていない。



 住所だけで言えば東京のこの島は、田舎と呼ぶには余りにも自然に覆いつくされている。もはや木々の多い場所ではなく、森に町が迷い込んだ感じだ。



 島の男のほとんどは漁師であるため、開発されているのは漁港とその付近のみ。

 コンビニもスーパーもないこの島では、野菜も肉も漁港内の市場で一緒くたで売られている。



 そりゃあ、病院だって一か所しかないから、骨折も鼻風邪も全部一緒に診てるくらいの島だもの。新しいモノを取り入れて作るより、あるものを活用する方が、島の人には馴染み深いし、やりやすい。



 長く生活している大人ほど、そういうことをよく言っているのを聞く。



 そんな島で、たった9人の子ども達ボクらが通うためだけにある小学校は、結構特殊な場所なのかもしれない、



 1年生から6年生までみんな同じ教室。学校にいる大人は、校長先生と担任のおじいちゃん先生。副担任のマミ先生の3人だけ。




 そのおじいちゃん先生が、ついにこの3月で定年を迎えた。




 ボクが生まれてから小学校に入るまでの間しばらく島を離れていたらしいけど、その時以外はずっと、島で教鞭をとり続けていた。

 だから島の大人のほとんどが、おじいちゃん先生に教え子だ。

 4月からも用務員として学校には残るけれど、正式な先生ではなくなってしまった。



 きっと本土の学校であれば、人数が減った分、新しい人が来るのだろうけど、こんな離島には来ないだろうな。



 島の大人の誰もがそう思っていた。小学生のボクらも同じ意見だった。



 そして迎えた始業式の今日。教室で校長先生から『新しい先生が来た』と聞いて、僕らは顔を見合わせた。



「マミ先生はそのまま副担任として。その新しい先生が、今日から皆さんの担任になります」



 本当にこんな所に新しい人が来たのか。みんな驚きながら、心の中では嘘じゃないかと疑っていた。



 ざわつく僕達を見て、校長先生は嬉しそうにニヤニヤする校長先生。しばらくして、わざとらしく咳ばらいをすると、今度は真剣な顔になって言う。



「その先生は、この間まで大学生でした。担任を持つのも初めてだし、社会人も初めてです」



 僕達はさらに驚いた。てっきり、もっと年上の人が来ると思っていたから。



「そして、恐らくは皆さんが初めて出会うタイプの大人だと思います。けれど、ぜひ大人としてではなく、一人の人として接して欲しいと思います」



 いつまで経ってもの僕らにとって、それは聞き馴染みのない言葉だった。



「と、校長があれこれ言うのもこれくらいにいて、詳しいことはご本人の口からね」



 するこ校長は廊下に向かって「どうぞこちらへ」と声を掛ける。




 黄ばみがかった白い引き戸を開けて入ってきたのは、吸い込まれるように真っ黒な長い髪に、白い杖を突いた女の人だった。女の人は、持っている杖を足の先で、振り子のように小さく振りながら、教卓へ真っすぐ歩いて行った。



 10歩もいらない短い間。その間、その人は一度もこちらを見なかった。



 カツンという音が、静まり返った教室にはよく響いた。どうやら、女の人が持っている棒が教卓の隅に当たったようだ。

 すると女の人はようやくこちらに向き直ると、今度はお腹の前のあたりの宙を手で探り始めた。



 特に、何かを落としたようには見えなかった。校長先生もマミ先生も、見ているだけで何も言わないから、僕達もそれに倣うしかなかった。



 シン......と静まり返る教室。ただ女の人は緊張した様子も、申し訳なさそうに小さくなる様子もなく。教卓の縁を掴むと、自身の立ち位置を調整してから、持っていた杖を節ごとに小さく折り畳み、教卓の上に置いた。



映星文世エボシ アヤセです」



 そう自分の名を語る声は、決して明るいものではなかった。

 けれど、それはまるで光を混ぜ込んだ透明みたいな色をしていて、風が吹き抜けるように鼓膜を通り、ストレスはおろか、心地よさが最初に頭に浮かんで来る。


 尖りとはまた違う。穿つために意思を削ったのではなく、とことんまで無駄を省いて、元あった、初めの姿に戻るような音。

 綺麗な飾りつけじゃなくて、丁寧な自然体。元々そこにあったモノ自体が、一番透きとおるように整えた、そんな声色。



 ただ、実際はとても緊張しているのか。さっきから目線はボクらの方ではなく、机同士の間の空間を見ているように感じる。



 黒板に振り返った映星...先生は、チョークを手に取ると、自身の名前をスラスラと書き記す。



 形を成してく文字たちは、その声色と並ぶかのように丁寧で鮮麗。

 整った角に、水が流れるようなはらい。額に入っていそうな綺麗な文字が、眼には見えない一本の芯に倣って一直線に並んでいる。



 感心と感動の熱で、張りつめた教室の空気は少しずつ緩んでいくのを感じる。

 カランッと、チョークが粉受こなうけに置かれと、映星先生は再び腰まで伸びたポニーテールを揺らして、ボクらに向き直る。




「私は弱視です。自治体から正式に認定を受けた、れっきとした障害者です」




 緩んでいた雰囲気が、一気に引き絞られる。

 先ほどよりもきつく、張りつめるように。



「いま、私は黒板に自分の名前を書きました。しかしこの文字を私自身は見えていません。顔を押し付けるようにして、漸く字の輪郭を認知できます」



 親指で後ろの黒板を指して、映星先生は続ける。



「私は3週間前にこの島に来ました。景色が良いと話を聞いていましたが、ではボヤけてしまって精彩に視えません。港にある大きな建物が漁港だということも、校長先生に教えてもらってようやく知りました」



 ボクは息を呑んだ。この島は大人がいっぱいいて、その中には当然おじいちゃんやおばあちゃんもいる。

 けれどみんなピンピンしてて、朝早く起きては、日が暮れるまで仕事をしたりして、島中を歩き回ってる。



 高齢者ではあるけれど、一人として障害者はいなかった。



 世の中にいろんな障害があることは、ボクだって知っている。

 けど、実際にに出会うのは今日この時が初めてだ。




 それこそ、テレビの向こうの有名人に出会ったみたいに、心臓の下あたりがフワッと浮いたような感じがしていた。

 同時に痛感した。漁港はこの島ではシンボルみたいなモノ。最も大きな存在でさえ、障害は見せてくれなくなるのかと。




「今この教室の枠組さえも曖昧です。もしかしたら、この声だけが皆さんの方に向かっていて、視線は何処か遠くの方に向いているかもしれません」



 なんとなくあった違和感に答えが出る。心臓の下の空気は急に体積と密度を増やし、中身を張り詰めて、ドシッとお腹の上に乗っかってきた。



「これからどのくらい勤められるかは分かりませんが、私は今日から皆さんの担任になります」



 身体も、空気もどんどん重たくなっていく。けれど不思議なくらいに映星先生の声は真っすぐ伸び、進んで行く。



「けれど、私は皆さんの顔を覚えることができません。来月になっても、来年になっても、卒業の日になっても。最後まで、ずっと」



 その声に悲しみは籠もらない。だけれど、丁寧で澄んでいるからこそ、遠くにしか居られなくて、誰も触れられないから無情だけが纏わりついてる。

 悪い事は何もしていないのに心を削られる。けれど、落ちて積もっていく削りカスに対して、痛みが比例しない。




 想う所があるはずなのに、揺れない。




 これまでにない感覚に困惑していると、映星先生は折りたたんだ杖を掲げて、元の一本の状態に再び組み直していく。



「これは白杖はくじょうという、眼が見えない私が、自分の脚で歩くためのもうひとつの身体です」



 生まれて初めて見る道具。しかも変形する姿を見てしまうと、どうしてもくすぐられるものがある。



 けれど、それを羨ましがるのは失礼なことではなのだろうか。

 頭を振って雑念を振り払おうとするも、初めて見る道具にどうしても目が行ってしまう



「かっこいい......」




 ドキッとして隣を見ると、今日1年生になったゆう君が目を輝かせながら、白杖に見入っていた。マズいと思ったボクは、咄嗟にゆう君の口を抑えた。




 急に口を抑えられたゆう君は、ぱっちりと目を開いてボクを見ていたけれど、心臓の下の空気が張り裂けそうになってて、それどころじゃなかった。



 怖くて小さく震えながら、映星先生の方に振り向く。

 しかし、そこにいた先生は、ゲームの主人公みたいに白杖を肩に乗せて、これ以上ないしたり顔でボクらを見ていた



「ふふん。そうだろう? 変形はいつの時代だってロマンが詰まってるからな」



 一層と輝きだす瞳に、塞いだ手から、口角が上がっているのが伝わってくる。

 大喜びのゆう君に対し、ボクの心境は色んな意味で複雑だった。

 ファンサに答えた先生は、そのしたり顔のまま白杖を下ろして正面に向き直す。




「眼が見えない障碍者が色々と迷惑をかけると思いますが、どうかよろしくお願いします」




 丁寧に頭を下げた映星先生に、校長先生が拍手したのに乗じて、ボクらも新しい担任に対して拍手を送る。



 ゆう君を含む1年生組はとても嬉しそうだったが、ボクを含めた数人の上級生は、どう接したらいいのか分からない迷いを隠しきれずにいた。

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