第11話 取引

ヨーゼフの逮捕から3日後、アンナは自宅で夜ご飯を作っていた。放心しているようにフライパンの上の卵を眺めている。しばらくそうした後、はっとして急いで火を止める。

ああ、また焼き過ぎてしまった。

焦げてしまった卵を眺めながらため息を吐く。包丁で材料を切ったり、味付けをしている時など何かをしている時には、辛いことや悲しいことを少し忘れられるのだが、手を止めた瞬間にさまざまな感情や考えが頭の中を支配する。そうなると何にも集中できず、ぼうっとしてしまい気がつくと今やっていることが失敗してしまっているということが最近は多い。

焦げてしまった卵を処理していると、視界がぼやけていく。自分が泣いていることに気づき、処理していた手を止めて涙を拭う。

微かに吐き気がする。気持ち悪い。夜もよく眠れない。苦しい、辛い。

「パパ……」

無意識にそう呟いていた。

卵の処理は諦めて、そのままベッドに向かった。眠れないだろうが、何をしていてもこの苦しみから逃げられない。せめて布団にくるまって暖かさだけでも感じていたい。

ああ、苦しい。苦しい。誰か助けて。誰か。

頭の中に嫌な考えや感情が波のように押し寄せてくる。眩暈がする。頭が痛い。呼吸が荒くなる。

嫌だ、誰か助けて。

目を固く瞑る。苦しさを耐えるが一向に治る気配はない。

誰か……。

「アラン……」

その時、インターホンが鳴った。

……こんな時間に誰だろう。

眩暈に襲われながらも、ふらふらと玄関に向かう。ドアノブを掴み、ゆっくりとドアを開ける。外に立っている人物を見て、アンナは目を見開いた。

「……パパ」

そこにはヨーゼフが立っていた。ヨーゼフは穏やかな笑みを浮かべてアンナを抱きしめた。アンナは夢を見ているのかと思った。まるで現実感のない状況に、浮遊感のようなものを感じながら愕然とする。

「ただいま、アンナ」

その声に現実に引き戻された。その瞬間幸福感に包まれた。涙を流しながらヨーゼフに抱きつく。

「帰ってこられたんだね!」

強く抱きしめながらそう言う。

「どうしてこんなに早く帰って来られたの?」

「警察の人達が分かってくれたんだ。僕が無罪だってね」

ヨーゼフは微笑みながら答える。アンナが安堵したような声で言う。

「そうなんだ。とにかく良かった……。私寂しかったんだよ、パパ……」

ヨーゼフはそれには答えずに、少し沈黙した後アンナの耳元で囁くように言った。

「アンナ、お願いがあるんだ」

「何?お祝いに何でも聞いてあげる!」

アンナは嬉しそうな表情でヨーゼフの顔を見ながら言った。

ヨーゼフはポケットから1枚の写真を取り出してアンナに渡した。その写真には1人の男が写っていた。金色の長い髪が特徴的で、歪んだ笑顔をしている。それを見たアンナの印象は怖そうな人だなというものだった。

「この人がどうしたの?」

「今すぐこの人とちょっとした買い物をしてきて欲しいんだ」

「誰なの、この人?」

少し不安そうな表情を浮かべたため、ヨーゼフは安心させるように微笑んだ。

「ああ、大丈夫だよ。この人は『とても良い人』だから安心して行っておいで」

その言葉でアンナは、この人物が良い人であると確信した。不安は消え去り、会うことが楽しみにすら感じ始めた。

「そうなんだ。分かった。じゃあ行ってくるね!」

アンナは何の疑いもなく笑顔で玄関に向かった。ヨーゼフに手を振りながら出て行った。

「ああ、行っておいで」

そう言ったヨーゼフは不気味な笑みを浮かべていた。

「これで上手くいく」


指定された場所にアンナは向かっていた。目的地に近づくにつれて人気がなくなっていく。路地裏へと入っていき、とうとう人の気配のしない場所になってきた。街灯も減っていき、暗闇の中に入っていくような感覚に襲われた。そこからさらに奥に行ったところに目的の場所はあった。その場所は廃墟となったホテルであった。

心霊スポットのような雰囲気の場所であったため、アンナは近づくことを少し躊躇した。しかし、ヨーゼフから信頼できる人物であることを教えてもらっていたアンナは、勇気を出してその建物に近づいた。

その廃墟は今にも崩れてしまいそうな見た目で、中に入るのは少し怖かった。入り口のところで立ち止まっていると、後ろから声をかけられた。

「あ、いたいた」

振り返ると、ヨーゼフに見せてもらった写真に写っていた金髪の男が近づいてきていた。

「やあ、俺はGって呼ばれてる。よろしくね」

廃墟の雰囲気で心細くなっていたため、Gに会えて安堵した。

「えっと、あなたが父の?」

「そうそう。本当に疑ってないんだね。便利な超能力だよな」

何の話だろうと思っていると、周囲から多数の足音が聞こえてきた。周りを見てみると、複数の男たちが物陰から現れていた。その男たちはアンナへと近づいてきて、取り囲むように立ち塞がった。

その男たちをぼんやりと見ていたアンナは、そこで恐怖を感じ始めた。

「え、何?」

怯えた目で周りの男たちを見る。

「前回は1人で君を迎えに来たら失敗しちゃったからさ、今回は大勢連れてきたんだ」

自分を取り囲んでいるのは5人の男たちだったが、その隙間からさらに男たちが近づいてきているのが見えて、何かとてつもなく悪いことが起きていることに気づき始めた。

「今回は20人で迎えに来たよ。こんなところに助けなんか来るわけないけど、万が一助けが来たってこの人数相手に君を助け出すなんてとても無理だよ。君の運命は決まったんだ」

「む、迎えって何?」

「俺たちは人身売買組織『アルファ』のメンバーなんだ。君は商品として、俺たちに連れて行かれるんだ」

「い、嫌だ……。助けて、パパ……」

「あー、パパは助けには来ないよ。だって君はパパに売られたんだから」

最初は言っている意味が分からなかった。その意味を理解した時、今度は頭が混乱した。

何を言っているんだ?パパがそんなことをするわけない……。

「君を商品として俺たちに売ることで、君のパパは金を得ることができるのさ。そして君は、玩具を欲しがっている金持ちのお客様方に売られるんだ」

この人たちは私を騙そうとしている。パパは違う。私のことを大切に思ってくれている。だってパパは『良い人』なんだから。

「う、嘘だよ……。パパは、そんなこと……」

「あ、一応保険として録音しておいた音声もあるよ。聞く?」

そう言ってGはスマートフォンを操作した。そして邪悪な笑みを浮かべながらスマートフォンから音声を流し始めた。

「ほら」

「娘を向かわせた。金は早く払ってくれ。これから遠出しなければならない。金が必要なんだ」

聞こえてきたのは間違いなくヨーゼフの声だった。呆然としているアンナの顔を見てGは満足げに笑った。

「嘘だよ、こんなの、嘘だ……」

涙が自然と流れ出していた。

「嫌だよぉ……。パパぁ……」

絶望に満ちた表情で泣いているアンナの顔を見て、Gは指を差しながら嘲るように笑った。

「ああ、いいねその表情!お客様はそういう表情が大好きなんだ。オークションがあるからさ、その時にもその表情を見せてよ。そうすれば買い手が見つかるさ。買い手が見つからなかったら、お客様に気に入ってもらえる商品になるように俺たちに教育されちゃうよ。頑張ってね」

周りにいる男たちがにじり寄ってくる。激しい恐怖に襲われたアンナは叫びながらうずくまった。

「やだっ!嫌だ助けて!パパ!パパ!」

「叫んだって無駄だよ。この辺は人が通らないからね」

男たちはニヤニヤと笑いながらアンナの腕を掴んだ。ガタイの良い男たちに両腕を掴まれたアンナは、逃げることも抵抗することもできず引きずられていった。

「ほら車に運んでー」

「さあ出かけるよお嬢ちゃん」

「やだあああああ!やだあああああ!パパ!助けてパパ!パパー!パパー!パパっ……!パ……」


夜の港をヨーゼフは歩いていた。ここに来た目的は、アルファのメンバーから金を受け取るためだった。波音を聞きながらコンクリートの上を歩いている。風が気持ちいい。

金を受け取ったら、鷹に気づかれる前に出国する必要がある。私が警察に超能力を使い、無罪だと思い込ませて釈放されているとは流石にまだ気づけていないはずだ。私は最速で動けている。鷹といえど、どこに逃げたか分からない人間には手を出せないはずだ。うまく逃げれば生き残れる可能性は十分ある。刑務所の中で何十年も過ごすなどごめんだ。私にとって人生とは、自由でなければ意味がない。閉じ込められて生きていくなど意味がないのだ。私の自由が奪われて良いはずがない。

暗闇の中にスキンヘッドの大柄の男の姿が見えた。手にはアタッシュケースを持っている。ヨーゼフはその男に近づいていき、声をかけた。

「やあ、金を受け取りに来たよ」

スキンヘッドの男ロブはヨーゼフに気づいてそちらに視線を向けた。睨みつけるように見た後、アタッシュケースを持ち上げてヨーゼフに渡してきた。

「ああ。あいつらから商品を受け取ったって連絡がきた。こいつに約束の金額が入っている。受け取れや」

ヨーゼフはほくそ笑みながらそのアタッシュケースを受け取ろうと手を伸ばした。


「言ったはずだぞ。最後のチャンスだと」


突然背後から聞こえてきたその声は、聞き覚えがあった。その声がアランのものであることに気づいた瞬間、ヨーゼフは総毛立って振り返った。その時にはアランの拳が顔面にめり込んでいた。激しい衝突音と共にヨーゼフは吹き飛ばされ、地面にぶつかってバウンドしながら転がっていった。壁にぶつかって止まり、意識を失いそうになって全身の力が抜けた。

アランはヨーゼフのところへと歩いていき、ぐったりとして呻いているヨーゼフの胸ぐらを掴んで持ち上げた。

「あ、ああああ」

ヨーゼフは情けない声で悲鳴をあげる。

「なんでお前がここに……⁉︎」

怒りに満ちた表情でアランは睨みつけた。

「最初から分かっていたんだよ。てめえがこういう行動に出るってことはな」

「最初から……?」

最初からって、いつからなんだ?

そう疑問を抱くと同時に、どうすればこの場を切り抜けることができるかを必死になって考えた。そこで頭に浮かんだのはアンナのことだった。

「そ、それよりアンナ……。そうだ、アンナを助けないと」

ヨーゼフは必死に叫びながら訴えた。

「私に構ってないでアンナを早く助けないと!手遅れになるぞ!」

しかしアランは焦った様子もなく、冷静にヨーゼフを睨みつけていた。

「そっちは問題ない」

その表情を見てヨーゼフは絶望感に襲われた。

「仲間が向かっている」


「なんだか楽しそうだねぇ」

Gたちがアンナを連れ去ろうとしていた時、暗闇の中からそんな声が聞こえてきた。そちらに視線を向けてみると、狂気的な笑みを浮かべながら1人の女がゆっくりと歩いてきていた。

「私もまーぜて」

場違いな甘えた声でそう言いながら、リアが現れた。

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