第10話 チャンス

ヨーゼフは次第に抵抗する力を無くしていき、とうとう腕に力が入らなくなった。

このまま握り潰す。

アランは力を込めた。力尽きたと思ったヨーゼフは、再び弱々しく悲鳴をあげ始めた。

「アラン!」

突然聞こえた声にアランは戦慄した。聞こえるはずのない声だった。聞こえてはいけない、声だった。

ゆっくりと振り返ると、そこにはアンナがいた。

「アンナ……」

なぜここにいるんだ……。

アンナは怯えた表情で泣きながら、アランとヨーゼフを見ている。

「ア、アラン……。お願い……、パパを殺さないで……」

「アンナ。これは……」

「パパは何もしてないの。私、知ってるんだよ?何かの間違いなんだよ……。信じて、アラン……」

違うんだ、アンナ。お前は騙されている。こいつは何人もの人間の人生を狂わせて、自分の娘であるお前を売ろうとした。金のために。

アンナはふらつきながらアランに近づいてくる。アランの頬を冷や汗が伝う。アランの左手を、震える手で握った。

「アラン、お願いっ……」

絞り出すような掠れた声を震わせながら言った。触れれば壊れてしまいそうなほど、精神状態が不安定になっているのが見て分かる。

だめだ、今これ以上傷ついたらアンナは……。

「パパを、失いたくないよ……」

アランの頭の中に過去の映像がフラッシュバックした。自分の手で両親と祖父母を殺し、その血溜まりの上で絶叫している自分の姿だった。あの苦しみに今のアンナは耐えられない。そんな気がした。

アランはヨーゼフを一瞥した。

「ア、アンナ……」

ヨーゼフはアンナを微かに笑みを浮かべて愛おしそうに見ていた。

アンナは超能力でヨーゼフが無罪だと信じ込まされている。ヨーゼフを殺すことで超能力は効力を失い、真実を知ることができる。

アランはヨーゼフを殺した後のことを想像する。

だが、アンナはそれでどうなる?父は悪人だったと納得して、父の死を受け入れることができるだろうか。父の死と、父が悪人だったという事実がアンナを追い詰めてしまわないだろうか。

自分の左手を握っているアンナの柔らかく小さな手が、冷たくなっていることに気づく。血が通っていないと錯覚するほどに冷え切った手。アンナの顔を見ると涙と鼻水で濡れていた。顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうなほど青白くなっている。過呼吸になりそうなほど呼吸も乱れている。

超能力によって信じ込まされているとはいえ、この男の能力の場合は犯罪者であることを証明すればそちらを信用できるはずだ。アンナと初めて会ったあの時、最終的には人身売買の男が悪人だと感じていたため、それは間違いないだろう。

何が正しいのか。何が正解なのか。考え続けても答えが出てこない。アンナが最も傷つかない方法が分からない。だが。

アランはヨーゼフを見る。ヨーゼフは視線に気づき怯え始める。しばらく見た後アランは決心したような顔をした。

だが、決断しなければ。

目を閉じてしばらく考える。やがて決心したように、ヨーゼフを見た。

「……おい」

声をかけられたヨーゼフは怯えた表情でアランを見た。

「警察に出頭しろ」

そう言われてヨーゼフは目を見開いた。

「殺さないのか……?」

「最後のチャンスだ。アンナを幸せにすることに残りの人生を捧げろ」

そこで一度言葉を切り、ヨーゼフを掴んでいた手を離した。解放されたヨーゼフはふらついて尻もちをついた。

「そうすれば殺さない」

「あ……」

ヨーゼフは呆然としたような表情を見せた後、安堵した顔になり、涙を流し始めた。

「ありがとう……。約束するよ。必ず」

そう言いながら頭を下げる。深々と頭を下げるヨーゼフを見ながら、アランは一度深呼吸をした。それから殺気を放ちながら、威圧するように言った。

「覚えておけ。鷹は獲物を逃さない。約束を破ればお前を殺しに行く。どこに逃げてもだ。分かったな」

ヨーゼフは涙を拭いながら「ああ、誓う……」と呟いた。

「アンナを幸せにすると誓うよ」


ヨーゼフが出頭するところを確認してから、近くにあったベンチに座って煙草を取り出した。1本取り、口に加えてからライターを探す。ズボンのポケットに入っているのを見つけ、ライターを取り出して煙草に火をつける。空を見上げて、それから目を閉じる。大きく息を吸い込み、大きなため息を吐くように煙を吐き出した。薄く目を開けると、白い煙が空気と混ざるように消えていくのが見えた。

胸を刺すような痛みを少しでも忘れたくて久しぶりに煙草を吸ってみたが、痛みは少しも消えなかった。もう一度だけ深く息を吸って、取り出したポケット灰皿で煙草を消した。ゆっくりと煙を吐き出しながらポケット灰皿をしまう。

「アラン……」

アンナの声が聞こえて、そちらに目を向ける。アンナは相変わらず顔色が悪いまま、俯いて近づいてきた。アランの隣までくるとゆっくりと隣に座った。しばらく沈黙が流れた後、アンナは口を開いた。

「パパは無実だって警察はわかってくれるよね……」

震える声でそう言ったアンナに、慰めるような言葉をかけることはできなかった。アランは俯き、「さあ、どうかな」とだけ答えた。

アンナはアランの方に体を向けて、アランの服を震える手で握った。

「こんなの、間違ってるよ……」

そのままアランの服に顔を埋める。服が濡れる感覚があり、アンナが涙を流していることに気づく。どうすることもできず、アランは何も言わないままじっとしていた。

アンナの震えが伝わってくる。聞こえてくる嗚咽に、胸の痛みは増していった。

「アラン……、助けて……」

消えてしまいそうなほど小さな声で、叫ぶように言った。

「私……、怖いよ……」

不安と恐怖に襲われているアンナの姿を見て、アランは痛みに耐えるように目を閉じた。

震えながら泣くアンナがこれからどうなっていくのかを想像する。良い想像がなかなかできなかった。アンナが幸せに過ごしている姿を想像するのが難しい。

俺は、間違ってしまったのだろうか。……残酷な結末を選んでしまったのかもしれない。

アランは目の前が真っ暗になったような感覚に襲われた。


PSIのトレーニング場でアランはダンベルを使ってトレーニングをしていた。汗だくになりながらトレーニングをしていると、背後から「お疲れ」という声が聞こえてきた。

振り返るとリュカがそこに立っていた。

「やあ」

リュカは軽く手を上げて挨拶した後、アランの隣まで歩いてきた。

「……また何か悩んでいるみたいだね」

アランの表情を見て察したリュカは、穏やかな口調でそう言った。アランはリュカから視線を外し、斜め下辺りを見ながらしばらく無言で考えた後、口を開いた。

「俺はまた間違えたのかもしれない……」

リュカはそう言ったアランの顔を見て、にこりと微笑んだ。

「大丈夫だよ。アランはその子のために悩んでいるんだからね。相手のことを考えられている内は、何か間違いがあってもどうにかなるものさ。優しさなんて難しいものはさ、どれだけ優しい人でも間違うことがあるんだよ。だから自分は間違っていないって思い始めたら、優しさの押し売りをしてしまっていてもそれに気づけなくなってしまう。間違っているかもしれないと悩み続けることは、その人を確実に助けるためには必要なことなんじゃないかな」

そう言ってアランの肩を優しく叩いた。

「だから大丈夫。アランは本当に優しいから」


アランはシャワールームで汗を流していた。深呼吸をするように深く息を吐く。

シャワーを止めて、閉じていた目を開く。

覚悟を決めたような表情で、アランは前を睨んでいた。

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