第十九話 -慕情-

自分の人生を生きることにしましたから。

 カウンターでは、恰幅のいい初老のマスターが新聞を広げている。彼はときどき黒い口ひげに手をやり、いくぶん興味深そうに、紙面を追っていた。


「クンツェンドルフ総司令官が、要人を連れてソルブデンに向かったらしいな。はてさて、交渉はどうなるのやら」


 マスターは独り言のように呟く。だが実際には、カウンターに座っていた青年に反応を求めていた。小汚いこの喫茶店に、客は彼ひとりだ。


「総司令官なら、きっと平和的な解決へと導いてくれます」

 青年ははっきりと言う。しかしマスターはその返答が気に食わなかったらしい。ぶっきらぼうに「へえ、そうかい」とだけ口にした。


 マルシュタットの街は、魔導要塞化されたあのときから様変わりした。

 昼間でさえ外を出歩く人間は少なく、夜は不気味な爬虫類の召喚獣たちがうろつき、目を光らせていた。


 もうすっかり雪が積もり、この街は一年でいちばん過酷な季節を迎えた。また、物流も人の出入りも制限されていた。十二月には配給も始まり、食料や毛布などが定期的に市民へと配られている。


 青年はこの店で人を待っていた。


 彼がマルシュタットへ来る前、ある事件のときに世話になった人物だ。中央本部で偶然会うことができたので、とっさに誘ってしまった。


 コーヒーはとうに冷めている(正規のルートで仕入れられたものではないのだろう。ひどく薄く、お世辞にも美味しいとはいえなかった)。久しぶりの休暇で時間を持て余してしまい、約束の時間よりも三十分ほど早く来てしまったのだ。


 しばらくしたのち、店のベルが安っぽい音を立て、来客を告げた。


「いらっしゃい」

 マスターは新聞から目を話すこともせず、覇気のない声で言う。


「ヒルシュビーゲル――さん」

 青年は弾かれたように立ち上がった。思わず「中尉」とつけて、敬礼までしてしまうところだった。マスターが怪訝な目をちらりと向けたので、青年はひやりとする。


 外では軍人であることを知られないようにしたほうが無難だ。


「パウルさん」と、エルナ・ヒルシュビーゲル中尉は穏やかに微笑んだ。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 二人は店を出て、閑散とした街の通りを歩いた。


 正午過ぎ。この国がこんな状態でなければ、たくさんの人でごった返しているはずの時間だ。


 ぱらぱらと雪がちらついている。通りを見渡しても、ぽつりぽつりと人影があるだけだ。険しい顔をした男がポケットに手を突っ込んで、足早に去って行く。爬虫類の兵士が、真っ赤な舌をちろちろとさせて、じっとこちらを睨んでいる。


「昇進、おめでとうございます。ヒルシュビーゲル中尉」

 パウルは声を潜めつつ、彼女にお祝いの言葉を伝える。エルナは首を傾げるようにして微笑した。


「ケルニア大聖堂での出来事は、上官からこっそり聞きました。いち陸兵の僕なんかには想像すら及ばない戦いだったんでしょうね。その――悪魔同士の戦いなんて」


 元参謀長の故ボニファティウス・レーマンが主謀したクーデターは「ケルニア大聖堂のらん」として、失敗に終わった。


 いち早く陰謀に気がついたテオ・ザイフリート少佐と、大召喚術師レオン・グラニエ=ドフェールが、対魔族用に総隊された特殊部隊を率いてこれを鎮圧した。そのときレーマンの召喚獣に対峙し勝利したのが、エルナ・ヒルシュビーゲルだったのである。彼女は今回の功績を称えられ、昇進した。


 パウルは前方から来る、大きな荷車を引いた家族に目を留めた。まだ若い夫婦と、最近やっと歩けるようになったくらいの、小さい男の子だ。父親が荷車を引き、母親が大事そうに子供を抱いている。二人とも伏し目がちだった。パウルたちとすれ違うとき、男の子がじっとこちらを見つめてきた。


「国の東へ向かうのか、それとも国外へ逃げようとしているのか――すでに相当な数の国民が、首都から出ていってしまっているようですね」


 彼らが通り過ぎてしまってから、パウルが言う。

 エルナは無表情のまま、彼女もまた少し伏し目がちになって歩いている。


 しばらくのあいだ、二人は無言で街を歩いた。


 まだ訓練を受け始めて一ヶ月の一般兵と、召喚術師の士官。本来ならば相容れることのないような立場の二人だ。パウルは実際、ずっと背中に汗をかいていた。息が白くなるほど寒いのに、緊張で身体が不自然に熱い。喉もからからだ。


「その――中尉」

 問いかけるも、エルナは無言。


「雰囲気、変わりましたね。オシュトローでお会いしたときから」

 彼女の表情からは、やはり何も読み取ることができなかった。


 パウルの疑問に対しては答えずに、代わりにエルナは「お父様は、お元気ですか?」と訪ねた。


「わかりません。この一ヶ月、オシュトローには帰っていないので」

「そうですか」


 エルナは着ていたベージュのコートを身体に寄せた。あごの位置できれいに切りそろえられた髪に、少しだけ雪がついている。


 ちょうど公園の入り口で、彼女は立ち止まった。

「私の父は元軍人でした。もうずいぶん昔に、戦死しました」


 ほんのりと赤く染まっている彼女の頬に、その鮮やかな黄色い瞳に、パウルは胸がざわつくのを感じた。


「故郷に母をひとり残して、私も軍人になりました。母にはすごく反対されて、行かないでくれって、何度も泣いて懇願されたんです。それでも母の手を振り切って、士官学校の門を叩きました。だから私、心のどこかでずっと母に対して罪悪感を抱いていました」


「――お母様は、今お元気に?」


 エルナは手を口に当てて笑った。

 しかしどこか、虚しさを帯びた顔だった。


「最近手紙が――ああ、母からの手紙は毎月のことなんですけど――でも今回の手紙には、私と縁を切ると書いてありました」


 パウルは表情を動かすことができなかった。まだ若い彼は、こういうときに作るべき顔を持ち合わせていなかった。


「母は熱心な宗教家で、ずっと軍人である私の生き方を否定してきたんです。ついに耐えかねたのかなと思って読み進めると、この十二月で再婚するって言うんですよ。同じ宗派の男性とみたいです。なんだか、笑っちゃいますよね」


 それは、笑っちゃうようなことなのだろうか。パウルにはとても判断できそうにない。


「母は毎月私に経済的な援助を求めてきました。私なりに、これも子供の義務かなと思って送金していました。でも結局あの人は、向こうで拠りどころを見つけるやいなや、私とのつながりをあっさりと切ったんです」


 彼女はそばに積もっていた雪をすくい、両手で丸めている。


「だから手紙を読んだとき、いろいろ面倒臭いことが全部剥がれて、流れていってしまったように感じて――ただただ、笑えちゃった」


 彼女は公園の上空へ向かって、「えいっ」と雪玉を投げた。

 高々と放物線を描いて、雪玉は飛んでゆく。しかし空中で二つ、三つと割れてしまい、不恰好な雪の破片は音も立てずに、地面へ落ちた。


「あれぇ、固め方が甘かったかな」と、エルナは舌を出す。


「僕に任せてくださいよ。オシュトローでも毎年たくさん雪が降るので、よく雪合戦してたんです」


 パウルもエルナと一緒に雪を丸めて、彼女のより少し大きめの雪玉をこしらえる。


「母親のこと、憎いですか?」パウルは聞いた。


 エルナは二つ目の雪玉のかたちを整えながら、笑った。

「ううん。なんかもう、どうでもいい」


 パウルも同じように、くすりと笑う。

「僕も、父親のことなんてもうどうでもいいです。自分の人生を生きることにしましたから」


 二人が同時に投げた雪玉は、さっきより勢いよく、高く高く飛んでいった。

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