第十八話 -悲嘆-
悲しいかな、我々が人間らしくある以上、戦争は続く。
ケルニア大聖堂はとっぷりとした夜の闇に包まれていた。
首相の暗殺事件の日から、中央広場は昼間でさえ人が減り、閑散としている。ましてや夜はほとんど人が寄り付かない場所になってしまっていた。今や大聖堂は打ち捨てられた廃墟のように見えなくもない。
そして今夜はとりわけ亡霊のようだった。無残に割れたステンドグラスの
遠くで大きな爆発音が鳴り響くと同時に、祭壇には青白い光が灯った。礼拝堂の最奥に、その規模とは少し不釣り合いなほど小さな、石造りの祭壇だ。光は最初数匹の蛍程度の輝きだったが、薪をくべられて少しずつ燃え上がる焚き火のように、しだいに自らを大きくしていった。天井高くに張り巡らされた
祭壇には、ひとりの少女が仰向けに寝かされていた。裸体の上から大きな薄い布がかけられている。少女の両手、両足は、頑丈そうな鉄の鎖でしっかりと固定されている。青白い光は、わずかに開かれた彼女の口の中から漏れ出していた。
傍らには老人がひとり、無表情で立っている。小柄で禿げ上がった頭。黒のゆったりしたローブを羽織り、両手は体の横にだらりと垂れ下がっている。
「研究は挑戦と失敗。うまくいかなくても、何度でも試してみる――だが、そう悠長なことを言っていられる時期ではとうにないようじゃ。それに客人の相手もしなければならん。まったく、老体には堪える」
そのときいくつかの影が、大聖堂の入り口のそばで揺らめいた。
「戦争がなぜ起こるか、知っておるかのう。スズ・ラングハイム
「あなたみたいな老害が極めて狭量な正義に執着し続け、年甲斐もなく口先だけで人々を騙しているからです」
スズの返答に、レーマンは口元だけで笑った。
「相変わらず手厳しいのう――となりの青年はどう思う? テオ・ザイフリート少佐」
テオは魔導銃の銃口をまっすぐレーマンに向ける。
「あなたと議論するつもりはありません、レーマン准将。すぐに投降していただきます」
レーマンは不気味に微笑んだまま、スズとテオ、そしてレオンの三人を見下ろしていた。
各研究所で爆発が発生してから、レナエラの高い「入力感度」のお陰で、陽動に惑わされずに大聖堂へ向かうことができた。今アジトの方では各研究所に向かったメンバーを呼び戻している。
(レーマンは悪魔を使役しています)
ここへ向かう途中、スズが再度忠告を口にした。
通常の魔法や魔導銃では、悪魔には歯が立たない。三人である程度時間を稼いだ上で、こちらも同等の戦力――エルナ・ヒルシュビーゲル少尉の使役する「グレッジャー」をあてがうしかない。
「悲しいかな、我々が人間らしくある以上、戦争は続く」
レーマンは片手を持ち上げると、大聖堂の高い天井にかざした。
その瞬間、悲鳴が轟いた。
貫くような甲高い声。とっさにテオたちは耳を塞ぐ。
その声は大聖堂の壁という壁から発せられているように聞こえた。遠い昔の演劇の舞台で主演女優が刺し殺され、恐怖で逃げ惑う観客たちの、声という声。それを今、時を経て再現しているかのごとく。
そしてまさに舞台女優が躍り出るかのように、ひとりの女が姿を現した。大聖堂の中心に彼女は音もなく降り立ち、その大きな目でテオたちを睨んだ。
「『悲劇のパトリシア』。いく年の時を経ても、その憎しみは消えぬ」
レーマンは歌うように言う。
パトリシア――そう呼ばれた女は全身の皮膚が真っ黒にくすんでいた。ほっそりとした腕や脚は毒蜘蛛のようにも見える。背丈は、二メートルほどだろうか。
同じように黒いドレスを見にまとい、その長い髪も爪も唇も、べろりと舐めずった舌も、深い黒色だ。徹底的に他者を否定した黒だ。
しかしその目だけは血のように赤かった。それは怒りで煌々と火が灯っているようにも見えた。
その顔は感情を欠いていたが、頬には涙がとめどなく伝っていた。
「想像していた悪魔とは、少し違うな」と、テオは額の汗を拭いながら言う。
「姿かたちは、悪魔において問題ではない――さっそく来るぞ!」
レオンが説明を終えないうちに、その黒い女は奇妙な動きで腕を掲げ、空間を引っ掻き回し始めた。まるで天敵から逃げ惑う虫のような動きだった。
それが止まったかと思うと、何もない空中からなにか細長い棒のようなものを取り出す。
それは長い柄のついた
テオはとっさに魔導銃を可動し、彼女の胸部をめがけて閃光を打ち込む。甲高い音をたてて真っ直ぐに光が突き進み、それは彼女の鎖骨のあたりを貫いた。
しかし、それをまるで気に留めずにパトリシアはこちらへ向かってくる。
「全く歯が立たないな――くっ!」
大きく振り下ろされた鎌の軌道を、テオたちはすんでのところで避ける。
「防戦を強いられるのはわかっていたことだ。とにかく距離を取れ!」
レオンはそう叫ぶと、ローブから数枚のカードを取り出す。
どうやらそれはトランプの絵札のようだった。
キングとクィーン、それにジャック。四種類全てのスート、合計十二枚を扇のように構えると、小さく呪文を唱える。
レオンがパトリシアの前にカードを一枚放ると、石床を突き破って高い壁が出現した。
複雑な絵柄が施された、鋼鉄の壁だ。レオンは次々にカードを放り、怒り狂っているパトリシアを壁で取り囲んでいった。
「時間稼ぎにしかならん――悪魔『悲劇のパトリシア』。あれは若くして命を奪われた女性たちの、怨念の集合体のようなものだ。一度ターゲットを絞り込むと、息の根をとめるまで執念深く追いかけてくる」
パトリシアは一瞬にして鋼鉄の壁に四方を覆われた。
内側からは悲鳴のような叫びと、鎌を打ち付ける音が響いている。
「大召喚術師――我が国の誇る最高峰の術師と手合わせできるとは、光栄じゃ。しかし、そんな手品で封じられるなどと思わぬことよ」
レーマンがそう言うと、パトリシアの叫び声が次第に小さくなり、けたたましく響いていた金属音は止んだ。
「少佐、レーマンに照準を合わせたまま、あれとは距離をとってください。私が隙を作ります」
スズが両手にはめているいくつか指輪が淡く光を帯び始める。
壁の内側では叫び声がむせび泣きに変わっていた。洟をすすり、嗚咽を漏らし、掠れた低い声で泣いている。その響きはあまりに悲痛で、聴く者の感情を大きく揺さぶる。
「泣き落としでこちらが手を緩めると思うか?」
レオンが作り出した壁に絶えず魔力を送り込む。
「泣き落とし? そんな子供騙しの手など、持ち合わせておらぬよ」
次の瞬間、パトリシアの声が再び叫び声に変わった。スズたちの肌を逆立てるような、おぞましい声。テオは心臓が大きく揺れ動くのを感じ、吐き気を覚えた。
そして「べちゃり」という、なにか濡れた固形物が地面に落ちる音がした。いつのまにか汗のにおいが充満している。ひどく不快で、湿り気を帯びたにおい。それが壁の内側から漂ってきた。
「声がする――あの黒い肌の悪魔のものではない、べつのなにかの」
テオは魔導銃をレーマンへ向けながらも、意識を集中することができない。浅く息をして、ひたいの汗を拭った。
太く低い声がする。掠れた呼吸音と一緒に。
鋼鉄の壁に、亀裂が走った。
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