この命の使い方が、わからなくなったの。

「魔導連隊長、スズ・ラングハイム大佐。きみの前線での行いは、断じて許容できない種類のものであることは、認識しているかね?」


 獲物を確認したライオンのような目つきの男が、私に対して言った。淡々とした口調であったが、そこにははっきり、怒りと失望が滲み出ていた。


「きみが戦線を離脱したことが、間接的にでも要因となり、我が国の誇り高き命が犠牲となった。クレーメンス少佐、オーケン少佐、ブルーノ大尉――実に、ああ実に、無念だ」


 男は歯を噛み締めた。彼は総司令部の将官であった。私に厳重な注意と固い警告、そして今後の、双方にとってあまり好ましくないであろう処遇について言い渡すために、わざわざ首都からここへきたのだった。

 私がオルフの戦線を離脱した日からは、約一ヶ月が経過していた。


 私はじっとその将官のネクタイを見ていた。しわひとつないシルクの、えんじ色のネクタイだった。


「きみが指揮官においても、そしてもちろん、その体質がゆえに実戦においても有能なのは知っている。皆、信頼を置いている。だからこうして私も、わざわざ海沿いのこんな辺鄙へんぴなところまで足を運んだ。理由があったのではないかと。理由があるならばそれを聞いてから、然るべき処置をしようと。しかしきみは口を閉ざす。残念なことに、何も語ろうとしない」


 ロイヒェンムントは、軍の駐屯地のひとつになっている。

 ルーンクトブルグの南に位置する、海を臨む観光地だ。戦時中でもなければ、きっとこの宿のエントランスも、多くの客で賑わっていたことだろう。今は私とこの将官の男、そして護衛についている召喚術師の男の三人だけだった。


 その空間は、ひっそりと静まり返っていた。がらんどうの空間には賑やかな色彩のカーペットが敷かれ、南国風の鉢植えがいくつか並んでいる。あまり世話をされていないらしく、葉の先端が茶色に枯れていた。大きな木材のテーブルと凝った装飾のついた椅子のセットがひとつ、ロビーの横に鎮座している。私たちはそこに腰かけて、このエントランスを満たす空気にもまったく引けを取らない、重苦しい内容の話をしている。


「逃げたのです」私は無表情で言う。「迫りくるオーガーの群れに、恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたのです」


「信じられません!」

 そう言ったのは、将官の隣に座っていた護衛の若い術師だった。


「黙っていろ、レーマン」将官は片手を上げてたしなめる。


「申し訳ありません」レーマンと呼ばれた術師は、口を小刻みに震わせる。「しかし、ラングハイム大佐はそのようなお人ではありません」


 なにか理由がおありなのです――レーマンは目を伏せて、目の前のテーブルの木目を見ながら言う。私に言うのではなく、将官にいうのでもなく、自分に言い聞かせるみたいに。

 彼は小柄で、常になにかに怯えたような表情をしていた。将官護衛の仕事は、召喚術師の中でも腕の立つものが就くのが通例だ。彼はこう見えて優秀なのだろうと、私は思った。


 将官の男は咳払いをした。喉をチューニングするかように、と、リズムよく二回刻んだ。


「逃げた。よかろう、ラングハイム大佐。それ以上、弁解したいことは?」

「いいえ。ありません」

「ならば、少なくとも降格は避けられないだろう」

「覚悟しております」


 将官は小さく鼻を鳴らし、立ち上がる。

「しばらく任務には戻れないと思え。ここで謹慎処分きんしんしょぶんだ。処遇は追って通達する。いくぞレーマン」


 私は座ったまま、宿のロビーから出て車に乗り込む将官と護衛のレーマンを、ぼんやりと見つめた。レーマンはよたよたと将官につきながらも、こちらを二度ほど振り返った。私は二回とも目を合わせなかった。

 部屋を確認されなくてよかったと、私は思った。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 将官からの通達で、私は大佐から少尉に降格となった。

 階級など、そのときの私にとってまったく関心のない事柄だった。軍で支給されるレーションのクッキーが、ジンジャーからチョコレートになったと言われたのと同じくらい、どうでもいいことだった。


 恐れをなして戦場から逃げ帰った指揮官。


 これがもし国内で報道されているとしたら、私は首都に帰ったとたん、家畜のふんでも投げつけられるだろう。いくらでも投げてくれていい。家畜の糞でも火炎瓶かえんびんでも手榴弾しゅりゅうだんでも、手当たり次第投げればいい。いくらでも殺されてやる。殺せるものなら。


 私はベッドに寝ているリンの足元に腰掛けて、彼女を今後どこに匿おうか、考えを巡らせていた。


 首都はだめだ。どこにでも隠せるように見えて、どこにも隠し通せる場所はない。それが首都マルシュタットだ。政府の力も、報道の力も、そして軍の力も、隅から隅まで行き届いているのが、マルシュタットなのだ。

 いちばんの候補はラインハーフェンだった。私がユニス・ラングハイムと育った南東の村だ。ほんの短い期間だったが、幸せな時代だった。


「あの鳥はなに?」


 突然投げ込まれたように、声が聞こえた。


 私は飛び上がった。

 振り向けば、リンが窓の外を指差している。

 夕暮れどきの空を、少し眩しそうに見つめている。


「ほら、二羽一緒に飛んでいる」と、リンは澄んだ声で言う。


 私は少し考えてから言った。

「私も種類まではわかりません――小さい鳥ですね。セアカモズかなにかでしょうか?」


「どこへ行くの?」

「渡り鳥だったら、たぶんかなり遠くまでかと」

「帰ってくる?」

「おそらくは」


 リンはふと押し黙った。

 その黒い瞳は、私のすぐ後ろを見た。


「綺麗な指輪だね」と、彼女は言う。


 私のすぐ後ろにあるキャビネットの上には、いくつか指輪が置かれている。魔法や召喚術を使うときに用いるものだった。いつもは銀のシガーケースに入れて持ち歩いているが、この部屋に来てからはそこに置きっぱなしになっていた。誰も盗もうとする人間は、ここにはいない。


「これはすべて、昔に愛し合った人から貰ったものです」

 私は答える。


「そのダイヤモンドは?」

「二百四十年前に、エルヴィーラから。彼女が二十二歳のときに」


「黄色のトパーズは?」

「二十三年前に、リリーから。彼女が七十五歳のときに」


「大きなルビーは?」

「百六十二年前に、ローゼマリーから。彼女が五十八歳のときに」


 リンはふうっと息を吐く。また窓の外に視線を向ける。


「その方々は、もうこの世にはいない」


 それは質問ではなく、自分自身のための確認の言葉だった。そのことについて悲しんでいるわけでも、喜んでいるわけでもなかった。

 ただ、少し寂しげな表情をしていた。


「はい。もちろん皆、すでにこの世を去っています。ときどき思い出して寂しくはなりますが、悲しいことではありません。皆自分の人生を、自分ごととして生きて、そして死にました。立派なことです」


「フォルトゥナ様も、立派に死んだ」リンは言う。「反乱軍の首謀者として、処刑された。でも、最期の最期まで自分の考えを曲げることはなかった。それは曲げるわけにはいかなかった。曲げられてしまうわけにもいかなかった。世界に対して、フォルトゥナ様は主張し続けた。それは立派なことだと私は思う」


「ええ。とても立派なことです。本当に」

 私は小さく、しかしはっきりと、彼女に同調する。


「私は死ぬことができない。あなたと同じ」

「はい」

「フォルトゥナ様が死んで、頭の中がめちゃくちゃになった。どう生きていいか、わからなくなった。私はもっとあの人の役に立てたと思う」


 リンはもう一度、私を見る。

 私たちの黒い瞳がぴたりと合う。


 彼女の目には、旅に出ていた主人あるじがいつのまにか帰宅していた。遠いところから大きな荷物を抱えて、くたびれて、自分の住み慣れた家に帰ってきたのだった。


「この命の使い方が、わからなくなったの」


 彼女は両手で顔を覆った。

 みるみるうちに、大粒の涙が溢れてきた。頬が赤く染まり、目が腫れて、あっというまに顔がぐしゃぐしゃに濡れてしまった。何度も嗚咽を漏らし、引きつったような音が部屋に響いた。


「フォルトゥナ様がいないと、道がわからない」途切れとぎれにリンは言った。「お力になれず申し訳ありません、フォルトゥナ様。ごめんなさい、フォルトゥナ様。どうかお許しください、フォルトゥナ様――」


 私は彼女となりに行って、腕を回し、肩を抱いた。とても小さく、もろい身体だった。熱を帯びた細い骨を感じた。私は彼女の髪にそっと額をつける。石鹸のにおいがする。


「道なら一緒に探しましょう。あいにく、時間ならたっぷりありますから。あなたにも、私にも」

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