とても絵画的だ。

 私が行ったことは、一般的に見れば、国益をいちじるしく損なうことになるし、この国における軍の信用を地に落としかねないようなことだった。


 リン・ラフォレ=ファウルダースを、私はロイヒェンムントという海沿いの町の宿で、一時的にかくまった。戦場で彼女と出会い、無言のやりとりをし、考えるまでもなく竜を召喚し、彼女をここへ連れてきた。そうしないわけにはいかなかった。


 彼女は大召喚術師フォルトゥナの喚び出した転生者だった。それも私と同じエリクシルが召喚具として用いられ、反乱軍の幹部として、ほかの術師や魔族たちを動かしている指揮官の役割を与えられていた(もっともこのことは、彼女が正しく口を聞けるようになってしばらくしてから判明した)。

 要するに彼女は、この世界の国際社会にとって、身柄が拘束されれば即処刑を言い渡すべき重要人物である。


 戦場から連れ帰ったあとすぐに、私はリンの身体をくまなく洗った。


 汚れた服を脱がせ、宿の浴室に突っ込み、シャワーで水をかけた。身体中に付着した血液(彼女のものなのかどうかは、わからない)や泥を全て洗い流すのに、まるまる一時間ほどかかった。

 長く伸びた黒髪のごわつきは、どんなに流しても取れなかった。石鹸が必要だと思ったが、あいにくそんなものはこの宿に置かれていない。

 性器と肛門は、とくに念入りに洗った。幼児の排便の世話すらしたことがないのにいったいなにをしているんだろうと、私はぼんやり思った。そこは強く擦らなければ汚れが落ちなかったのでそうしたが、リンは終始、無反応だった。


 私はずっと無言で、まるでサーフボードの砂でも落としているみたいに、彼女を洗浄した。とても実務的な作業だった。意識を集中し、効率よくそれを行なった。振り返れば、私は彼女の少しでもきれいな姿を、早く見たかったのだと思う。


 リンは私にされるがままに全身を脱力していた。両腕は垂れ下がり、目は何も映さず、口はだらしなく弛緩しかんしていた。そして弱々しく「殺してください」と繰り返した。十回に一回くらいの割合で大召喚術師フォルトゥナへの詫言わびごとを口にした。消え入るような声だった。


 彼女の身体を拭き、裸のまま宿のベッドに寝かせた。


 窓を開け、蒸し暑い部屋に風を招き入れる。私はリンの足元に腰をかけ、小さく息を吐く。それから彼女の目を見る。その目はまっすぐ天井を見つめている。口がぽっかりと空いている。そしてやはりうわごとのように、「殺してください」とつぶやく。まるで通信機器が故障したみたいだと、私は思った。


 私はそのうわごとを聞きながら、窓の外を眺めた。日が傾き始めている。薄暗い空に、名前のわからない鳥が二羽、ゆっくりと横切っていった。鳴くこともせず、悠々ゆうゆうと無音で飛んでいた。鳥たちの姿はやがて窓の隅へ消えた。


「殺してください」とリンが言う。


 遠くには海が見えた。波の音はしないが、かすかに潮の香りがする。ずいぶん久しぶりに嗅いだにおいだと思った。そのにおいは、嫌いでもなければ好きでもない。四百年以上生きてきたにも関わらず、海にまつわる思い出はほとんどなかった。あったとしても、それは懐かしむために取り出されるような種類のものではなかった。


「殺してください」とリンが言う。


 おそらく、今この瞬間が、私の脳裏にいちばん深く刻まれる海の風景だと思った。それにふさわしいではないかと思った。とても絵画的だ。それなりに格好のついたタイトルもつけられるだろう。

 ただ、どういうときに思い出されるかは、わからない。


「殺してください」とリンが言う。


 私は実際的なことを考えた。慎重に、注意深く、次の一手を選択しようとした。しかし、自分がうまく思考できないことに気がついた。部隊に指示を出すときは一瞬で判断ができる。そしてそれはたいていの場合、的確だった。

 でも今はだめだ。論理的に、筋道を立ててものを考えることができない。今できることといえば、近くに食糧と水、清潔な衣類、それにできれば、いい香りのする石鹸を調達できる場所を探すことくらいだった。


「殺してください」とリンが言う。


 そしてそのときにはもう、私はこの子と生きていこうと決めていた。


「私たちは、死ねないんですよ」と私は優しく言った。


 彼女は不意に、静かになった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 生活用品は、ひとつとなりの街まで行ってやっと手に入った。ほとんどが法外な値段で売り出されていたが、私は迷わず買え揃えた。石鹸と清潔な下着。コットン素材のシャツとパンツ、ワンピースにカーディガン。そのほか適当に、必要と思われるものを調達した。


 私たちはほとんど会話をすることなく、その宿の一室で時間を過ごした。

 リンがここにいることを、駐屯している兵士に見つかるわけにはいかない。それだけは、絶対に避けなければならなかった。そのため外出はせず、一日のほとんどをベッドの上で、彼女の世話をして過ごした。もっともリンも、外へ出たいと言い出すことは一度もなかった。


 長く伸びた黒い髪を一日一回、石鹸で洗った。少しずつだが、ごわつきが取れ、指通りがよくなっていった。四日目からは、自分でシャワーを浴びることができるようになった。もう嫌なにおいは消え、髪からは清潔な石鹸のかおりが漂うようになった。


 最初は入浴や食事、排泄はいせつ、着替えと、日常生活のほとんどを私が介助していた。ただ日が経つにつれて、まるで骨と筋肉が正しい動き方を思い出してゆくように、そのひとつひとつの所作を、彼女が自分で行えるようになっていった。


 彼女の身体にはもちろん傷ひとつなく、健康だった。戦場ではたくさんの攻撃を受け、たくさんの血を流したはずだ。しかしそれがどんな損傷であったにせよ、きれいに治癒されている。身体的な欠損はすべて復旧している。私と同じように。


 リンはとても色白だった。そしてその腕にも脚にも、ほとんど筋肉がついておらず、華奢きゃしゃな身体つきをしている。

 それはエリクシルの力の影響だ。私もそうだった。ほとんど体力がつかないのだ。しっかりと鍛えて、脂肪を筋肉に変えても、どうやらそれすららしい。


 身体はともかくとして、やはり大きな問題は精神のほうだった。

 うわごとは(昼間に限っては)もう言わなくなった。だが彼女には表情がなく、口は半開きになったまま、終始窓から外を見ていた。もしかしたら実際には、なにも見ていなかったのかもしれない。こちらの問いかけにも、ほとんど反応しなかった。


 どうして自分がこの部屋にいるのか、私は誰なのか、そしてこれからどうなるのか――そういう事柄に関して、まったく興味がないように見えた。彼女の自我をつかさどっている主人あるじは、心にしっかりと鍵をかけ、どこか遠くへと行ってしまったようだった。


 私はそれを無理矢理連れ戻そうとは思わなかった。

 遠く旅に出てしまったそれを連れて帰り、強引に身体に繋ぎ止めようとしたところで、うまくいくとは思えなかった。主人に対して、正論を並べて説教を垂れ、本来の仕事に戻そうとしたところで、おそらく彼女自身が望まないかぎりは、それはまた勝手にどこかへ出かけてしまうだろう。


 もちろん力になりたいと思った。

 しかし、これはリンの問題なのだと、私は自分に言い聞かせた。


 そしてそんな状態の彼女でさえ、まっすぐに鼻筋が通っており、意志の強そうな眉を持っているのだった。

 私はいつもリンに見惚みとれていた。


 昼間、起きている時間は平穏に過ぎていく。

 しかし、夜になるとあのうわごとが発作のごとく舞い戻ってきた。夜の闇と一緒に、この部屋にはどこからともなく悪魔がやってくる。そして夜な夜な彼女に取りくのだった。


 ひどいときには、それが二、三時間続いた。私は彼女の手を握り、ひたいてのひらを当てて、じっと彼女の目を見た。光のない、どこまでも深い闇のような瞳を見つめた。彼女が一方的に叫び声をあげ、私は沈黙を貫いた。初めて戦場で出会ったときのように、私はその瞳で、いくつかの大事な情報を交換した。あるいは、一方的に受信した。額の汗を拭い、湿ったその手を握り返した。汗のにおいを部屋いっぱいに感じた。


 そしていつしか、彼女は叫び疲れて眠りについた。

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