嗅ぎ慣れた、新鮮な血のにおいがする。
「そこからやる気ですか?! クレーメンス班! 9時の方向に結界!」
私はスコープを観測手に放り投げ、部隊の結界師たちに指示を叫ぶ。
クレーメンスとその部下たちは、一個中隊を囲うように散開し、いっせいに結界魔法を発動させる。
彼らの持つそれぞれの魔導具から、淡い光が生まれる。それとほとんど同時に、周囲の地面がまるで液体のようにうねる。大きな波となった大地は、ほとんど結界師たちを飲み込むかのごとく押し寄せてくる。そして彼らの目の前で、突然、凍らされたかのように凝固した。結界師たちはそれを何度も繰り返して、築城式結界を構築してゆく。
一方、少女の現れた方角からは、
広大な戦場がすっかり水に浸かってしまうほど、大量の水が発生している。白いしぶきをあげて、高い水圧を持って、それはまるで大蛇のようにのたうちまわりながら、こちらへ向かってくる。
「もっと
クレーメンスが
「ブルーノ! 巨人は任せます!」
私は火属性の魔導師を束ねていたブルーノに指示を飛ばし、結界の構築に参加する。
巨人と魔導師――示し合わせたような襲撃だと、私は苛立って奥歯を噛みしめた。そしてこの水量と水圧。水属性の上級魔法だ。こちらの結界は少なくとも五メートル以上の高さ、一メートル以上の厚さが欲しい。ただ、見るかぎり結果師たちもかなり疲弊している。さっきゴーレムとやりあったばかりだ。無理もなかった。
「できるだけ、分厚く。そう、均等に」
私はゆっくりとそう言いながら、構築中の結界に魔力を合流させる。
やがて半円を描くようにして、固められた大地の結界が、一個中隊をすっかり防御する。
波が結界に衝突し、大きな音を立てて弾けた。
まるで鞭を打つように、何度もぶつかり、壁の表面をえぐる。衝撃で地面が揺れる。堤防のてっぺんから乗り越えてきた水が滝のように襲ってくる。皆、大量の冷たい水を頭からかぶった。
一方で、丘の先端ではブルーノたちが巨人型魔族と交戦している。三人の魔導師は、まるで竜の口を備えたかのように、煮えたぎる
「
クレーメンスが顔をぬぐいながら指示を叫んでいる。
そのとき、大きな衝撃音とともに、すぐそばの壁が崩れた。
結界師がひとり、
結界には直径二メートルほどの大きな穴が空いていた。
そして、スコープ越しに見た、魔導師の少女が現れる。
私は彼女とまともに目があう。光のない、まるで呪いをかけられたような目が、私を見ている。私もその目を見つめ返す。ほんの三メートルの距離で、私たちの黒い瞳はたくさんの情報をやりとりする。数秒間、音もなく、においもなく、感触もない世界に迷い込む。戦場とはべつの時間が流れている世界に、迷い込む。
先に戦場に戻ったのは私だった。
地面に手をつけ、地属性の魔法を発動する。泥をかぶった
拘束されていくあいだ、彼女はまったく抵抗しない。自分にまとわりついてゆくそれを、ただ
周りの結界師は魔導具を構えたまま、その状況を見守っている。飛ばされた結界師は倒れたまま、ほかの兵士に抱き起こされている。意識がないようだった。
「クレーメンス、短剣を借りても?」私は言う。
「構いません」彼は魔導具の短剣を鞘に収め、私へ投げ渡す。
それを受け取り、私は少女に近づいた。
彼女は蜘蛛の巣に囚われた蝶のように手足が固められている。だが、やはり抵抗はしなかった。真っ暗な瞳で私を見る。感情はなく、ただただ虚ろな眼差しをこちらに向ける。
「すでにこの戦いは、掃討戦へ移行しています」私は彼女に向かって言う。「反乱軍の戦闘員であれば、あなたをここで殺さなければいけません」
少女はなにも言わない。私はクレーメンスから受け取った短剣を抜く。
「見たところ、あなたはまだ若いようです。不本意ではありますが、あなたが否定しないかぎり、この刃がその
少女は、小さな口を薄く開けて言った。
「殺してください」
その黒い目は私を見る。瞳は乾いている。
何人かの結界師が息を飲む。だれかが呆れたような、言葉にならない声を発する。
私は迷わず、短剣を水平に走らせて、彼女の喉を切る。
短剣の切れ味はよく、ほとんど反動はない。魚をさばくように、力を使わずに切ることができる。少女は一瞬だけ、空気が漏れるような細い声を漏らす。
鮮やかな血が飛び出す。それは私の顔を赤く染める。嗅ぎ慣れた、新鮮な血のにおいがする。周りの兵士たちのほとんどは、その瞬間目を背ける。
「総員、巨人の掃討へ」
私は周りの兵士たちへ指示を出す。ローブで短剣をぬぐい、鞘に収めてクレーメンスに投げ返す。
彼女は最初から殺されるために戦場へ来たのだろうか。
その目やその身なりからは、生きる気力を感じられなかった。戦いの先には、おそらくなにも期待していない。「殺してください」という言葉も、どこか投げ出しているような言い方だった。
私はそれに共感できた。
死ぬことに関して言えば、私は人とは違うから。死と顔を突き合わせて、腹を割って対話をした時間が、人とは比べ物にならないから。
だが一方で、平らげるべき敵である以上は殺すことに
「殺してください」
その少女は、もう一度同じ台詞を言った。
私は飛び上がり、彼女を振り返る。
少女は拘束されたまま、その目はしっかりと開いている。さっきと同じように、黒々とした瞳が、私のほうを向いている。
「申し訳ありません。フォルトゥナ様――」と少女は言った。
私は彼女の元へ近づき、掻き切ったはずの傷口を凝視する。
「まさか、あなた――」
喉に手をあてて、私はよく確認した。吹き出た血をそっとぬぐい、首をあらわにする。肌の柔らかい感触が、私のかさついた指でも伝わってくる。
傷はきれいに
私は無心で彼女の身体を観察した。
土の拘束を解き、薄汚れたローブを剥ぎとる。その肌にはたくさんの血がこびりつき、さらにその上から土が付着し、まるで畑から収穫したばかりの根菜のようだった。
傷はひとつもついていない。私は唾液を飲み込んだ。
そのとき私はひどく興奮していた。
額の汗を
部隊の兵士たちには、重要な参考人だからとかなんとか、とにかく適当な理由を口から出まかせに言った。いち部隊の大佐としてあるまじき行為だという認識は、もちろんあった。
しかし彼女を目の前にして、私はこれまでそれなりにやりがいを見出していた軍の統率、戦略の立案、軍事力の行使などといったことがらに対し、急速に興味を失ってしまった。指揮権をほかの士官へ
それが、私スズ・ラングハイムと、リン・ラフォレ=ファウルダースの出会いだった。
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