第十五話 -邂逅-
カスパルはもう無理だ、大佐! 右手がぶっ飛んじまった。
――当文書は、旧イオニク公国の哲学者であり、物理学者でもあるジェフリー・ブラウワーの著書「
第二章で触れられている旧イオニク公国の滅亡については、本著作の主題とは、実際のところかけ離れた内容である。にもかかわらずブラウワーがこの経緯について述べているという事実は、我々にとって刮目すべきことかもしれない。
彼にとってこのことは、それほどの悲劇だったのである。
――イオニク公国を
この国は、西のソルブデン帝国、東のルーンクトブルグ連邦共和国に比べて、国土面積も人口も圧倒的に少ない。そのうえ領土のほとんどが、北側を山脈で遮られた盆地となっている。そのため降水量があまり多くなく、数年に一度、大規模な日照りに見舞われることがあった。
ところでイオニクは、世界有数の鉱山「グルントルド」を有しているため、価値のある魔鉱石を正しく売りさえすれば、国内をじゅうぶんに
これから話す悲劇は、リシャール四世をはじめとする国を舵とるものたちが、そういったことにいっさい関心を示さず、虚栄心の持続と私利私欲、そしてわずかな身内の保身のために、その小さな脳味噌を使い切ってしまったことに始まる。
彼らは上流階級の人間のみが楽しんでいる演劇、音楽、絵画などを守り、そして表現することさえはばかられるいくつかの
その判断基準の中に、国民という文字は存在しなかった。
さて、彼らのとった
これは最上位の愚策であるとともに、まさにこれこそが、反乱軍をまとめ君主どもに反旗を翻した大召喚術師フォルトゥナ・ファウルダースの逆鱗に触れ、頭に血を昇らせた根源と言える。
奴隷は、君主どもが考える効率的なシステムをさらに効率よく回すために、大いに役立った。
奴隷は主人の指示を受け、忠実に行動することから始まる。数分から、数時間程度で終わる単純な仕事を言いつけられ、それが終われば完了の報告をする。多少難しい作業は、難しいぶんだけ時間がかかる。その場合、奴隷を増やす。だんだんと奴隷の「市場」が出来上がり、それは拡大してゆく。
やがて、奴隷たちの身体に彼らの仕事がくまなく浸透し、もはやそれ以外の動き方をすっかり忘れてしまったというころ、ついに「指示する」という行程すら取り払われ、奴隷は自動化する。例えばある作物の栽培において、各行程ごとに行われていた指示は、年に一度指示をすれば足りるようになる。「農場いっぱいに綿花を栽培する」と主人が言えば、収穫時期には(多少の収穫高に違いはあれど)おおむね農場いっぱいに、綿花が出来上がっている。
さらにシステムが発展すると、奴隷に仕事を教えるのも、奴隷の仕事になる。
それは、奴隷たちのコミュニティの誕生と言い換えることができる。やがて奴隷の中にも優劣が生まれ、貧富の差ができ、使うものと使われるものに分かれてゆく。
言うまでもなく、イオニクは国際的に大きな批難を受ける。しかし君主どもは「召喚されたものは皆『獣』であるがために、それらが人間に
真実はどうか。
奴隷には、当然のごとく人間も含まれていた。
大召喚術師フォルトゥナ・ファウルダースは、国内の豊富な魔鉱石を用いて、幾人もの人間をこの世界に召喚した。彼は彼自身の行為にもちろん疑問を持っていたが、言うまでもなく、抗うことは許されていなかった。
しかし、あることがきっかけで、とうとう大召喚術師は行動を起こすことになる。
国内で「エリクシル」が発見されたのだ。
もう何百年も前にユニス・ラングハイム卿が用いて以来、存在していないとされた魔鉱石である。ラングハイム卿はそれを危険な存在だとして、晩年期にはエリクシルの破壊に生涯を捧げていたとされる。世間では、エリクシルは迷信や伝説でしかなく、「エリクサー」であったり「賢者の石」と呼び名を変えて認知されていた。
存在を信じる者はほとんどいない。それは奇跡的な発見であった。
イオニクの内戦、そしてオルフ戦争のわずか六年前である。
ファウルダース卿は、そのエリクシルで、人間を召喚する。
喚び出されたのは、少女だった。大召喚術師は、彼女のもともとの名前と自身の姓を組み合わせ、リン・ラフォレ=ファウルダースと名付ける。
彼はたいそう、彼女を可愛がり、
その後、ファウルダース卿は幾人もの召喚術師を束ね、戦力となる人間や魔族を多量にこの世界に喚び寄せる。指揮官を置き、部隊を編成し、いかにして国家を崩落させるかを中心に、その聡明な頭脳が使われることになる。
それについて私は思う。なんて悲しいことだろうかと。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ラングハイム
観測手の兵士が、スコープを覗き込みながら緊迫した声で叫ぶ。
私は三角帽子を深くかぶりなおし、ゆっくりと腰をあげる。
11時の方向を眺めた。広範囲にわたって、
「ブルーノ、カスパル、ローレンツ、ジルヴェスター。火属性の上級魔法を」と、私は小さく開けた口で言う。
「カスパルはもう無理だ、大佐! 右手がぶっ飛んじまった」一人の兵士が早口でそう言い、土埃で咳き込んだ。「大佐みたいに、つぎつぎ新しい腕は生えねえんだ」
ああ、さっきのゴーレム戦か。私はぼんやりと思い出した。
「――わかりました。カスパルは衛生兵とともに下がっていてください。動けるものは前へ」
そう言って、私は小高い丘の先端まで歩いてゆく。血で汚れたローブとブーツにはたくさんの土がこびりついている。
私に並ぶようにして、ブルーノ、ローレンツ、ジルヴェスターが歩み出る。同じように、身につけている野戦服はボロボロで、ところどころ破れていた。灰色の顔に
だが、目にはまだ光が残っている。短剣や杖――それぞれがそれぞれの魔導具を掲げる。
オルフ戦争は、だれも予想していなかったほど大規模化し、今やイオニク、ソルブデン、ルーンクトブルグの三国で完結する戦争ではなくなっていた。
反乱軍が召喚した魔族は
魔族の討伐が開始されて半年が経過し、これまでに戦死者は民間人を合わせて130万人を上回った。戦傷者はその倍になる。軍事介入した他国の兵たちも巻き込み、現在はイオニクを囲うようにして、大規模な掃討戦が繰り広げられている。
ルーンクトブルグ軍の魔導軍、魔導連隊隊長として、私は一個中隊を率いて前線へ赴いていた。ここはイオニクとルーンクトブルグの国境線に位置するオルフ台地。主戦場である。
見渡すかぎりの世界は、すべて戦場。地平線の先の先までくまなく、戦場だ。
幾度となく爆煙が立ちのぼっている。腹の奥まで揺らす、地鳴りのような音を響かせる。魔導銃を可動する際に発生する閃光と、金属を切るような甲高い銃声が途切れることなく飛び交う。天までのぼる炎の
遠くでどこかの部隊が構築したらしい結界が崩れる。また地鳴りがする。そして魔族の唸り声。人間の悲鳴。竜巻のような風のうねりが起きる。今度は魔族の悲鳴だ。声からすると、かなり大柄の魔族――あれもオーガーだろうと、私は思う。切り刻まれる肉の、湿った音。
人間は人間以外ものを、魔族は魔族以外のものを、とにかく徹底的に壊していく。
その光景をぐるり眺めてから、私は迫りくる巨人たちの群れを睨みつける。黒々とした巨体が、目を血走らせている。太い脚と、太い腕。それはまさしく、人間をすりつぶすためだけに持っているように見える。
「いっそあいつらが私を殺せるなら、無駄な魔力を使わずに、真っ先に殺されてやるのに」
私は右手に魔力を込める。中指にはめられた赤い宝石が光を放つ。
「大佐!」観測手がもう一度叫ぶ。「9時の方向! お、おそらく魔導師、距離約600m!」
私は魔法を中断する。「反乱軍の残党ですか?! 特徴は?」
「それが――とても小柄で」観測手が言い
「かしてください」
私は観測手からスコープをひったくり、9時の方向へむける。
レンズ越しに見た私が見たのは、少女だった。
見た目だけで言えば、私とほとんど変わらない。長く黒い髪をなびかせている。着ているのはローブというより、ほとんどぼろ切れのように見えた。土で汚れ、血もべっとりと付着している擦り切れた布が、身体に張り付いているだけだった。
そして私はなにより、彼女のその瞳から、目が離せなかった。
その瞳は、光を失っている。
言うまでもなく、戦場では、すでに命を宿していない目の人間はたくさんいる。目の前に迫る死から逃れるために、何も見えなくなってしまった目をしている人間は、たくさんいる。
しかし、彼女のそれは、またべつの種類の瞳だった。
スコープでのぞいたその少女は、まっすぐこちらへ歩いてくる。
そして唐突に、右手を横へ突き出した。
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