ばか野郎! 目的を忘れたのか!

 フィルツ大尉は、言葉を失った。


 目の前で起きた出来事を、脳が処理しきれていないような状態が数秒間続いた。その光景はもちろん、フィルツ大尉だけでなく、この中央広場にいたルーンクトブルグ国民全員が目の当たりにした。そしてその目にしっかりと焼きついた。


「天罰だ!」


 近くにいただれかが、大声でそう叫んだ。

 天罰。そう形容してもおかしくない光景だった。


 とにかく、首相の演説の最中に、ケルニア大聖堂のステンドグラスが割れた。なんの前触れもなく、色鮮やかな背景と髪をく女神が、粉々になった。


 耳をつんざくような大きな音を立てた。そして直下にいたコルネリウス首相を、大量の破片が襲った。スーツを裂き、皮膚を裂き、首相のでっぷりした身体は、あっという間に血でまみれた。


 観衆からは地獄のような叫び声が上がった。

 そして皆、割れたステンドグラスを見て、目を疑う。


 そこには巨大な蝙蝠こうもりが、つややかな黒い翼を広げて、悠々と羽ばたいていた。ステンドグラスを突き破り、まるで女神を食らった悪魔のように、広場を見渡している。


 観衆は我を忘れて逃げまどう。蒼白な顔で、互いにぶつかり合い、足をとられて転びそうになりながら、少しでも蝙蝠から離れようと走る。


「魔族か!」デニスが魔導銃を取り出して叫ぶ。

「おそらくは」我を取り戻し、フィルツ大尉も魔導銃を取り出す。


 蝙蝠は大きくひと鳴きする。金属を引っ掻いたような鋭い声だった。そして観衆には目もくれずに、血まみれになっている首相に覆いかぶさるようにして降り立つ。周囲の憲兵がアサルトライフルで応戦するが、黒い翼に弾かれる。

 その蝙蝠がいったいなにをしているのか、フィルツ大尉のところからはよく見えなかった。


「おい大尉」

 デニスが言う。

 少し声色が変わった。興奮と緊張が混じっている。

「見つけたぞ」


「見つけたって? なに?!」

 フィルツが喧騒けんそうにかき消されないように叫ぶ。


「ばか野郎! 目的を忘れたのか!」

 デニスは逃げ惑う観衆の隙間をうようにして、ゆっくりと進んだ。


 その先にはひとりの女がいる。後ろ姿で、その顔は見えない。

 その女は、手にしている大きなカメラを、演壇にいる巨大な蝙蝠に向けていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 逃げ惑う人々とは逆走するように、アルトマン准尉は走った。

 黒い髪の、あの女性を見失わないように、しっかりと視界に入れたまま、そのあとを追いかける。途中、何人もの人と肩がぶつかり、痛めた右腕が悲鳴をあげる。


「おいラルフ! 女なんて追いかけてる場合か!」

 バルテル少尉が後ろで叫んでいる。


 頭ではわかっていた。

 巨大な蝙蝠の魔族が、あろうことかケルニア大聖堂を突き破って、コルネリウス首相を襲った。どう考えても、歴史的な惨劇さんげきだった。居合わせた兵士としてとるべき行動は、あの蝙蝠の迎撃にほかならない。


 しかし、アルトマン准尉は彼女を追いかけた。それが正しいかどうかではなく、そうするべきだと、ほとんど直感的に思った。


 広場の端まで来たところで、一瞬その黒い髪を見失う。しかしすぐに、広場に面しているホテルの中から叫び声が聞こえる。准尉は片手で魔導銃を構えて、建物の中へと駆け込んだ。


 ロビーは騒然としていた。

 高価な絨毯じゅうたんのそこここに血が飛び散っている。宿泊客たちが、まるで魂を抜かれたような顔で、壁際にへたり込んでいた。けばけばしいドレスを着た婦人が、あごを震わせながら「あれはへびよ、大きな毒蛇よ――彼らは助からないわ――」と、うわごとのように呟いている。


 毒蛇だと? いったいなにが起きている――?


 見回すと、二階へとあがる階段のそばで憲兵が二人倒れていた。

 アルトマン准尉は迷わず階上へと進む。


 叫び声と銃声を追って、准尉は階段を駆けあがった。

 踊り場には、宿泊客を楽しませるために置かれた名画のレプリカや、光沢のある花瓶に生けられた色鮮やかな花が飾られている。このホテルの日常を象徴するような備品たちだった。それは今、まるで約束事のように黙り込み、なにもなかったかのようにひっそりと佇んでいる。上階から聞こえる叫び声を、それらは必要以上に場違いに感じさせた。


 そして准尉は三階の廊下へ躍り出る。


 そこでも憲兵が何人か倒れていた。皆、血にまみれ、首や腕が奇妙に折れ曲がっており、口から白い泡を吹いている。


 そのとき、焦燥に駆られた、干からびたような声が聞こえた。

「貴様はなんだ?! おい、警備はどうなってる?!」

 ドアの開け放たれた、三つ右側の部屋。305号室。


 倒れている憲兵をまたぎ、アルトマン准尉はその部屋へと向かう。

 魔導銃を握りなおす。


 そして、室内へと足を踏み入れた。


 305号室に、黒い髪の女性はいた。

 こちらに背を向けて立っている。

 両手がだらんと垂れ下がり、微動だにしていない。


 その部屋にはいくつかの放送用の機材が散乱していた。

 ベッドはどこかへ運び出されており、奥に大きなデスクが据えられている。スタンドにマイク、たくさんのつまみのついた音響ミキサーがある。しかし今は、突風が吹き荒れたあとのように、どれも無残に壊されて、散らかっている。スーツを着た男が二人、やはり手足が折れ曲がった状態で、血だらけで、壁際に横たわっていた。


「きみがやったのか?!」

 アルトマン准尉は黒い髪に向かって問う。


 彼女は答えない。

 彼は魔導銃を向けたまま、少しずつ間合いを詰める。


 アルトマンは息を飲んだ。

 奥にあるデスクの陰から、巨大な蛇が姿を現したのだ。


 太い胴を床に滑らせて、蛇はしゅるしゅると音を立てる。黒々とした身体は光を受けると鈍い緑色に光った。鎌首をもたげて、赤い小さな舌を出す。

 そしてその蛇は、黒真珠のような目を、しっかりとアルトマン准尉に向けた。


 その瞬間、手足がなまりにでもなったかのように重くなる。

 指先に力が入らず、准尉は魔導銃を取り落した。額の汗が顔の横をつたい、一滴床に落ちた。蛇が床を這い、こちらに迫ってくる。


退くのじゃ」

 そのとき、背後から声がした。


 それと同時に、真っ赤に燃える炎のかたまりが、准尉のすぐ脇をとおり過ぎた。それは蛇の鎌首に直撃し、弾けるような音を立てる。またたく間に炎は蛇の全身を包み込み、その身を焼いていく。長く太い胴は床をのたうち回り、壁やデスクにその尾をぶつける。ぎりぎりと、油の切れたネジを締めるような悲鳴がとどろいた。


 そしてその大蛇だいじゃは、まるで導火線が縮むようにして、そのまま消滅してしまった。床にはいびつなかたちの焦げ跡が残った。


 同時に、黒い髪の女性が、ぷっつりと糸が切れたみたいに倒れた。


 アルトマン准尉は駆け寄り、彼女の肩を抱いて起こす。

 黒い髪は汗で顔にへばりつき、あごが小さく痙攣けいれんしている。目は眠るように閉じられていた。


「操られておったのじゃろう。あの大蛇――おそらくは、メデューサの使い魔じゃ」

 炎で蛇を退けたのは白いひげをたくわえた小柄な老人だった。彼は奥のデスクのほうへ行き、その陰になっているところを見た。そして小さく顔をしかめる。


「レーマン准将! ――自分は、元魔導銃連隊所属――」

「よいよい。名乗りは不要じゃ」


 レーマン准将は、立ち上がろうとした准尉を片手を上げて制する。そして、その白いひげを軽く触る。


「さて。わざわざ替え玉をこしらえておったが、敵のほうが一枚上手うわてだったようじゃ――我が旧来の友を、殺されてしもうた。まったく、無残なものじゃ」

 准将は淡々とした口ぶりで言う。


 あとを追ってきたバルテル少尉が部屋に入ってきた。

 アルトマン准尉を確認し、部屋の惨状を見る。レーマン准将を見つけ、ぎょっとした顔をする。


「きみらは、例の特殊部隊の所属じゃのう」准将は言う。「この場は任せる。その女は拘束し、操られるに至った経緯を全て吐かせ、メデューサの居所いどころを掴むのじゃ」


 魔導銃師の二人はきびきびと了解の意を示す。

 アルトマン准尉は彼女の黒い髪を顔から優しく剥がし、そのひたいに触れる。じっとりと汗で濡れているが、驚くほど冷たかった。


「ことは急ぎじゃのう」

 そう言ってレーマン准将は、ローブからオイルライターを取り出し、火をつける。オレンジ色の炎は大きく膨らんでいき、彼を飲み込んだかと思うと、次の瞬間にはその場から消えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る