第十四話 -喪失-

じっさいのところ民主主義は、妬みを土台にして成り立っている。

「小さいながらも、いい店を構えたものだね。エイヴリング君」


 低く、そしてちょっとばかり神経質な声で、レオンは言う。

 彼のテーブルにはカップとソーサーのセットが二つと、片面に砂糖がまぶされたバームクーヘンがふた切れ置かれている。


「それはどうも。まあ、半分は成り行きで引き継いだようなものだがね」

 ユージーンはカウンターの内側で洗い物をしながら言った。


 あの植物の召喚獣が姿を消したときには、エウリュアレの気配もまた、きれいに消えてしまった。ただ念のため、子供たちやトルーシュヴィルの村民には、もうしばらく教会に避難しているように指示しておいた。シャントルイユ姉妹とゲイラーはそちらに向かわせ、状況の説明をさせている。


 ユージーンとレオンの二人は、テオの計算が正しければ、約七年ぶりに再会したことになる。しかし二人はお互いに、まるで興味関心がないかのような態度だった。あるいは、そう振る舞っていた。まるで交わることのないべつの高さの等高線のようだった。標高の違うところで、それぞれが会話をぽつぽつと投げる。いつのまにかそのボールは空中で消えて、見えなくなってしまう。


「元気そうで、なによりだよ」とレオンはボールを放っても、「貧乏暇なしなもので」と、ユージーンはまったくべつのボールを投げ返した。


 テオはそんな味気のない会話を聞きつつ、カウンター席でやっとチョリソーにありついている。香辛料が効いており、とてもうまかった。


 店にはもうひとり、レオンの連れてきた小柄な女性がいる。彼の向かいに座って、居心地が悪そうに店内を見回したり、カップからコーヒーをすすっている。


 あまり長くないその茶色の髪は、頭の後ろで小さくまとめてられている。その目は大きく、トパーズのような黄色だった。そしてなにか独特の深さがあった。彼女と目が合うと、テオはその瞳よりもさらに奥のほうから眺められているような気分になる。服装はぴったりとしたショート丈のジャケットに、動きやすそうなカーゴパンツを履いている。腰には短剣が二本、結わえられていた。


「さあレオン。もちろん、なにか話があってここに来たんだろうね?」

 テオは水を向ける。


 レオンはゆっくりと頷いた。

「ああ。二つある。ひとつは彼女、ヒルシュビーゲル少尉のこと。もうひとつは、不死身の魔女のことだ」


 彼は簡潔に主題を並べて、話の内容に踏み込んでいった。


 エルナ・ヒルシュビーゲル少尉は、第3召喚術大隊しょうかんじゅつだいたい所属の軍人だった。以前の巨人型魔族襲撃事件の際にはオシュトローに派兵されており、1個小隊を率いてオーガーを鎮圧した。


 もっとも、報告によると彼女の隊の戦力ではオーガー相手にかなり苦戦を強いられた。使役できる召喚獣はコボルトやリザードマンといった種族にほぼ限られており、それらはオーガーの厚い皮膚の前には火力不足だった。なんとか巨人を撃破したものの、近くに居合わせていた民間人に怪我を負わせてしまっている。


 テオにひとつ、疑問が浮かぶ。

 先ほどの「グレッジャー」という召喚獣を使役していれば、オーガー対して引けを取るどころか、全く部隊を損耗せずに鎮圧できたのではないか。正直あの化け物は、召喚術部隊が使役する召喚獣でも、トップクラスの戦力だ。少なくとも大佐か、将官以上が扱うような代物だろう。専門外のテオにも、それはわかった。


「ヒルシュビーゲル少尉。グレッジャーの召喚具を」

 レオンが彼女に促す。


 エルナは頷くと、腰に結わえていた二本の短剣のうち、ずいぶんくたびれたほうの一本を取り外し、鞘に収めたままテーブルの上に置いた。使い古されたダガーだった。革が巻き付けられているの部分は、真っ黒にくすんでいる。


「オーガー襲撃の後日、アーベントロート大佐から話があってね。彼女のこの召喚具を、少し分析してみた」レオンは言う。


「大佐には、私からお願いしたんです」

 エルナは口を開く。かなり疲れ果てたような声色だった。


 聞けば、彼女はあの魔族の襲撃事件で「自分がほとんど役に立てなかった」と、かなり落ち込んでいたのだという。そのときの彼女はまだグレッジャーの力を使いこなせておらず、オーガーを目の前にして、このダガーを抜くのに躊躇ちゅうちょした。


「これは私の父、ハンネス・ヒルシュビーゲルの形見です。父は魔導師でしたので、これを魔道具として使っていました。なので父は、これを召喚具として使ったことはなかったのだと思います。私はこれを持ち歩きこそすれど、その使い方を見出すには、至っていませんでした」


「無理もないことだった」レオンが話を引き継ぐ。「先ほども言ったが、これは召喚獣というより、悪魔のたぐいなんだ。この短剣で通常の召喚術を発動しようとしても、うまくいかない。それどころか、術者に悪影響を与える。悪魔は代償だいしょうを求めるからね」


「代償?」テオは目を細める。「なにかを奪う、というのか?」


 レオンはゆっくりと頷く。

「そう。悪魔は人間の『欲望』を奪う」


「欲望」テオは繰り返した。


 カウンターの中で、ユージーンが手を止めていた。あごに手を当てて、なにか考えている。


「私の場合、グレッジャーにときおり、『ねたみ』を食べさせていたんです」エルナは伏し目がちに言う。「だれかを羨ましいと思ったり、自分の境遇をだれかべつの人と比べて、なにか理不尽を感じたりすると、私は無意識にこのダガーに手を伸ばして、それを解消していました。私は他の感情と比べて、特に『妬み』が強かったんです」


「あまり、いいことではないんだ」レオンが言う。「感情は、いいものにせよ悪いものにせよ、自分自身でそれを確認し、向き合ったうえで、処理しなければならない。悪魔に処理させていると、ゆくゆく取り返しがつかなくなる。彼女はまだそれほどの状態ではなかったけど」


 テオはひと口だけグラスで水を飲む。

「なんとなくだけど、理解したよ。それで、その『グレッジャー』という悪魔を、ヒルシュビーゲル少尉は今はもう使役できている」


 レオンはカップを手に取り、コーヒーをすすり、またソーサーに戻す。その動作はまるでスローモーションでも見ているようだった。ソーサーが予想外に大きな音を立てて、テオはスロー再生の世界から戻される。


 そしてレオンは低い声で、しかしはっきりと言う。

「決断さえすれば、使役は簡単だ。悪魔というのは、対価さえ支払えば、とても真面目に働いてくれる」


「支払ったのか? 『妬み』を」言ったのはユージーンだった。「感情をひとつ、手放してしまったと?」


 唐突に沈黙が訪れる。エルナはカップを握り、じっとその中にある黒い液体を見つめている。壁掛け時計の規則的な音だけが、静寂の中を横切っていく。


 ハンネス・ヒルシュビーゲルのダガーを調べたレオンは、それを「召喚具」として使う方法を突き止めた。

 それはすなわち、欲望をひとつ支払うことだった。レオンはそれを彼女に告げた。欲望のひとつを失うというその意味も、彼女に説明した。


〈一見、欲が消えるのはべつに悪くないのではないかと思うだろう。むしろ負の感情がなくなるのだから、ずっと人生を楽に進められるように感じるかもしれない。


 実際は違う。


 例えば妬みは、多くの人間が強烈に抱えている感情のひとつだ。どんなに成功した人間でも、自分よりもほんのわずかに報酬が高かったり、些細な容姿の違いで、妬みは誘発され、皆それを抱え込む。

 きみの場合は――聞くかぎり母親の影響が多分にあると思うが――自分が置かれた境遇を心の中で再確認するたびに、漠然と他者を妬んだ。ほとんど、そうせずにはいられなかった。それは、つらいことだ。


 しかし、妬みは向上心と密接に関係している。


 ピンとこないかもしれないが、じっさいのところ民主主義は、妬みを土台にして成り立っている。数多くの著名人は、さらに過去の著名人たちに嫉妬心を抱きながら、それを石炭のように燃やすことで、偉業を成し遂げてきた。


 つまり、妬みは、人間にとって成長のひとつの原動力にもなる。それを、忘れてはいけない。妬みと付き合い、まるで友のように親しくなる道は本当にないのかどうか、その可能性についてくまなく考えてみなければならない――〉


 しかし、エルナは即決した。

 その時の彼女にとって、父の残してくれた力を使えるようになることが、なによりも重要なことだった。それが彼女の欲望であり、願いだった。


 ふわりと風を受けたように、エルナは顔を起こす。

「グレッジャーは私の妬みを食べ尽くしました。だから、グレッジャーは私の気持ちの向くままに働いてくれます。先ほどのように、魔族でもなんでも、好きなだけ食い殺してくれます。ただ、私は今、この力をいったいなんのために使いたいのか、よくわかりません。ドフェール卿がおっしゃったように、向上心と名前をつけられるような気持ちは、私の中には見つからないんです。私にはもう『なにかになりたい』という感情は湧きません」


 彼女は握っていたカップを静かに離す。そのてのひらを、舞い落ちる枯れ葉のように膝に乗せる。


「ヒルシュビーゲル少尉の力を、君の部隊で役立ててほしい」レオンはテオに向かって言う。「ザイフリート君への要件のひとつめはそれだ。正直なところグレッジャーは、召喚術部隊に置いていても持ち腐れてしまう。いち少尉の立場であの力は、いささか扱いにくい。それに彼女にとっても、この力がなにかに役立つということが大事なんだ」

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