皆の大好きなビールが、例年以上に喉を潤したことだろう。
アヒムは、しだいに人で埋まっていく中央広場を見つめていた。
彼が広場を見て、広場に集まっている人々を見ることがあっても、反対に人々がアヒムを見るということは、ほとんどなかった。見ることがあったとしても、顔をしかめてすぐに目をそらし、私はなにも見ていなかったのだと自分に言い聞かせて、自分にとってもっと重要な用事を思い出そうとしながら、足早に去るのだった。
彼はそういった扱いに慣れていたし、むしろ進んで、そういう境遇を選びとってきた部分もあった。身につけている貧相な衣類も、レオン・グラニエ=ドフェールに言えばもっと清潔で暖かいものに取り替えてくれるだろうし、実際にレオンはそれを何度も彼に勧めた。アヒムはそのたびに、少ない
いつもこの時間にはハトの餌を売っているアヒムであったが、今日は店をたたんでいた。人が集まっているかわりに、ハトはどこかへ飛んで逃げてしまった。なぜだかアヒムは、もうハトたちは二度とこの広場に戻ってこないのではないかという気がした。そうなると、これからはここでなにを売ればよいだろうと思った。
アヒムにはうまく思考ができない領域があり、虫食いができてしまったかのように頭が回らないこともいくつかあった。ただ、ハトがいないとハトの餌を売っても意味がないことは、彼にも理解できた。
まもなく、首相の演説が始まる。
アヒムはそれを心待ちにしていたわけでもなく、ただ、聞いておかなければと思っていた。そしてなにかあれば、レオンに知らせる必要もあった。彼は今、大切な用事でトルーシュヴィルへと向かっており、首都にいないのだ。
アヒムは少し目線を上げて、ケルニア大聖堂を見上げる。その正面には、色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれていた。女神がその裸体を少し傾けて、髪を
ふいに、アヒムはひとりの男を見つける。
大聖堂のすぐ隣。大きなホテルの三階の窓に、白いひげの老人を見つける。
おそらく、来ているだろうと思っていた。
アヒムにはそれがボニファティウス・レーマンだとすぐにわかる。ただ、向こうがこちらに気がついたとしても、レーマンは自分のことなどまったく気にもとめないだろう。
数秒だけ、アヒムはレーマンを睨みつけた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ひどい混みようだ」
デニス・リフタジークは悪態をついた。
「あと十五分で演説が始まるわ。相当数の憲兵も動員しているようだし、私たちの出る幕はなさそうね」と、フィルツ大尉は辺りを見回しながら言った。
司令部から通達があったため、デニスとフィルツ大尉も一応中央広場へと駆けつけた。二人とも腰には隠すようにして魔導銃を下げ、普段着に黒いコートを羽織っている。
「出る幕があっちゃ困る」
デニスは人混みを遠巻きに眺めながら、ふさふさした黒いひげをいじる。
例の女ジャーナリストの件は、まったく進展がないままだ。こうなると本当に首都に住んでいるのかどうかも、怪しくなってきた。
「報道関係者も多いようだし、念のため、目を凝らしていましょう」
広場の一角を陣取るようにして機材が置かれていた。どこの新聞社か、ラジオ局か、そばでは報道陣らしい人間が、なにやら興奮した面持ちで話している。ほとんど叫ぶように、大声で言い合っている者もいた。
「やかましい連中だ」
デニスは彼らを睨みつけて言う。
やがて、地味なスーツを身にまとった細身の男が登壇し、まもなく演説が始まることを告げる。広場では歓声と罵声が同時に沸き起こった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
演説の始まる直前。
アルトマン准尉とバルテル少尉も、中央広場へと到着する。
広場はくまなく人で埋め尽くされ、騒然としている。鈍色の雲が空を覆っている。カラスが一羽、低い位置で翼を広げ、退屈そうに
コルネリウス首相がゆっくりと登壇するのが見えた。
大勢の国民たちの頭が、いっせいに同じ方向へと向けられる。ケルニア大聖堂はそれを正面から見下ろす。ステンドグラスに描かれた女神もまた、国民たちを凝視している。慈悲を
〈なにより、重要なことは〉
コルネリウス首相の重厚な声が、拡声器を通して響き渡る。
演説が始まった。
中央広場は、沸騰した湯に一滴の水を差したように、静かになる。
〈われわれルーンクトブルグ連邦共和国の国民が、皆ひとつの共同体の内側にいるのだということに、今一度気付くことである〉
国民が皆、その言葉を噛み砕くようにして、耳を傾ける。若い者も老いた者も、貧しき者も富める者も皆、耳を傾ける。
〈そこには、労働者、農民、中産階級、起業家、知識人といった階級が存在こそする。しかし、共同体では、公務員が農夫を見下すことはないし、頭を使う者が手作業を行う者を見下すことはしないし、旧教が新教を見下すこともない。互いが互いに見下し合うことを、とうの昔にやめている。本来あるべき、活力を取り戻した未来が、しっかりと逃げずに待ってくれている場所なのだ〉
拍手と歓声が沸き起こる。それをかき消そうと、わずかに罵声も混じる。
〈さて、今年は農業従事者の誠実な仕事ぶりによって、大麦をはじめとする作物が豊作であった。肉や野菜が皆の食卓を彩り、皆の大好きなビールが、例年以上に喉を潤したことだろう――〉
アルトマン准尉はざっと辺りを見回した。
目に入る限りの人々は、おおよそ礼儀正しく演説に聞き入っている。異変らしいものは、まったく見つからない。
〈そうした皆の生活を支え、この国家としての共同体、民族としての共同体を守っているのは、ほかならぬ兵士たちだ。彼らは、日々辛い訓練をこなし、恐怖に打ち勝つ勇気を養い、劣悪な環境の中でも、その持てる力を発揮する〉
今度は歓声よりも、罵声のほうが大きく響いた。
〈当然のごとく――〉首相は少し間をおく。〈その力は、命を奪うために使われるのではない。命を守るために、使われる――〉
そのあと演説はいくつかの国内の問題に触れる。財政の問題、社会保障制度の問題、地方の貧困、過疎化の問題、国家公務員の賃上げの問題。
各諸問題が話題に上がるたびに、広場は歓声に沸き、また罵声に埋もれた。ただ実際のところ、その声高な叫びは、決まりきった一角からそれぞれ発せられていることに、観衆はだんだんと気が付いていた。罵声を上げていた男のひとりが、ずっと前のほうで憲兵に腕ぐりを掴まれているのを、アルトマン准尉は見た。
演説が二十分を過ぎようかというところで、コルネリウス首相は
〈長きに渡り、我が国はソルブデン帝国との闘争を繰り広げてきた――〉
ちょうどそのとき、人混みを掻き分けていくひとりの女性が、アルトマン准尉の目にとまった。
黒い髪を伸ばしており、不健康そうな青白い顔をしている。先ほど聞き込みをしていたときに出会った旅行者の女性だった。中央広場は混み合うから来ないほうがよいと言ったのに。街を歩いているうちに、迷い込んでしまったのだろうか。
しかしアルトマン准尉は、彼女の異変に気がついた。
「おい、どうかしたか?」バルテル少尉が言う。
彼女は、人混みを掻き分けているというより、周りが人で埋まっていることなどまるで意に介していないように、突き進んでいる。肩がぶつかり、足を踏んでも、まっすぐどこか遠くを見て歩いている。
周囲の人々が彼女に向かって悪態をつき、睨みつける。しかし、彼女の耳にはまったく届いていない。虚ろな目で、なにかに引き寄せられるように、ただただ歩みを進める。
一緒にいたはずの金髪の少女は、連れていなかった。
「あの女性。様子が変だ」
そのとき、なにかが割れて砕ける、大きな音が響いた。
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