田舎に帰ってのんびり羊でも育てたいものだ。

「レナエラ、大丈夫ですか? ステンノーは心配です」

 ステンノーがコートの袖を掴んで言う。


 レナエラは、首都マルシュタットに入ってから、明確に身体の不調を感じていた。こめかみのあたりを襲う頭痛に始まり、大きな通りに入ってからは、若干の吐き気もした。


 大きな魔力を持った人間がひとり、この街のどこかで力を使っている。もしかしたら複数人かもしれなかった。その魔力は、度数の合わないレンズのようにぼんやりとかすんでいた。戦場でないこんな街中で、いったい誰が、なんの目的で、魔力を垂れ流しているのだろうか。もちろん、レナエラにはそれを知るすべはなかった。


「うん、大丈夫――もしかしたらあの人に、怪しまれちゃったかもしれないね」


 レナエラはさきほど声をかけてきた男のことを考える。背が高く、爽やかな顔立ちの青年だった。ダークブラウンの短い髪も、似合っていた。歳はまだ二十歳はたち前後だろうか。

 こんな状況でなく、本当にただの旅行だったなら、もう少し会話を楽しんだのになあ――レナエラはちょっぴり、悔しくなる。


「構いません」ステンノーはしっかりとした口調で言った。「お仕事を終わらせたら、寄り道しないでまっすぐに家に帰ります」


 中心部にほど近い「シナの木通り」というところで、人を探しているという青年に声をかけられたこと以外はいたって順調に、二人は中央広場へと向かっていた。通り沿いの店にかけられていた時計をちらりと見る。時刻は十二時四十五分。コルネリウス首相の演説は、あと一時間と少しで始まる。


 ティルピッツから首都へ向かう途中、ステンノーは「お仕事」の詳細について、レナエラに話した。その内容はたくさんの些細なこだわりの寄せ集めだったが、中には極めて重要なことも含まれていた。


「もうずいぶん人が集まっていると思う。私は、その観衆の中にいて、演説を聞いていれば、それでいいんだよね?」


「そうです。ステンノーがきちんと殺せたか、しっかり見ていてください。もしかしたらメデューサが確認するかもしれません」


 レナエラは頷いた。

 つまりメデューサは私に、証人として役割を割り振っている。それならばきちんと見届けておかなければならない。レナエラはそのことに使命感を感じていた。ルーンクトブルグの首相がちゃんと死んだかどうか、この目でしっかりと確認するべきだ。それは何よりも重要で、仮にもし「お仕事」に失敗したならば、それはステンノーと一緒に、私も恥じるべきことなのだ。


 


 よく考えてみれば、なにひとつ理由が見当たらない。どうしたって私は彼女に同行し、異国の地で列車を乗り継ぎ、新しい下着を調達し、ソーセージを食べて、一国の長のざまを拝みに来たのだろう。私じゃなくたって、まったく困ることはないのではないか。ソーセージをおまけしてくれたあの店主でもいいし、癇癪かんしゃくで料理をぶちまけるおいたちでもいいのではないか――


 しかし、いくら理屈で考えてみても、結論は変わらなかった。なにより重要なことは、アンゼルム・コルネリウスの死体をこの目で確認することだ。その帰着は、彼女の内臓の壁にまでしっかりとしみ込んで、揺らぐことはなかった。まるで黒色の絵の具のように、ほかにどんな鮮やかな色が加えられたとしても変化はみられなかった。


 中央広場は、予想した通り、すでに人だかりが出来上がっていた。


 石畳いしだたみの大きな円型の広場は、三分の二ほど埋まっている。高くそびえ立つケルニア大聖堂に向かって、人々は色めきだった顔を向けている。まるで入江に追い込まれた海水魚の群れのようだった。


 レナエラはステンノーの手を引いて、石畳を歩き、今も膨らみ続けている群れのいちばん後ろに合流する。すぐに後ろには観衆が押し寄せ、四方を人で塞がれてしまう。レナエラは、大勢の一部になる。


 見渡すと、さまざまな感情を秘めた顔が並んでいる。純然たる好奇心を浮かべた無知な顔。この日を待ちわびていたような、嬉々とした顔。まるでギロチン台に上がる死刑囚を待っているかのような、憎しみをたたえた顔。そのどれにも当てはまらない、通りすがりを装うような顔。


 彼ら、彼女ら個々人の日常においては、おそらく身を潜めている顔だった。それが今は、国の中心に集められ、ぎゅうぎゅうに押し込まれ、表皮がめくれ上がり、隠れていた表情がむき出しになっている。そしてそれを、ケルニア大聖堂が無表情で見下ろしている。


 レナエラはもうひとつ、群衆を見下ろしている目に気がついた。

 大聖堂のすぐとなりの建物――富裕層向けの、高級ホテルのようだ――の三階の窓。


 白いひげをたくわえた老人がいる。

 彼もまた無表情で、中央広場を見渡している。


 レナエラは、ひときわ頭痛が強くなるのを感じた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ボニファティウス・レーマン准将は、広場に集まったおびただしい数の人間を、なんの感情も含まない顔で見下ろしている。しかし実際には、彼は強い嫌悪けんおを持ってそれを見ていた。少し赤みすらある健康な彼の顔の皮膚が、それをたくみに覆い隠している。


 ケルニア大聖堂の前には、今日のためにこしらえた木製の演壇えんだんが据えられ、その上にはすでに演台と国旗、拡声器、照明などが並べられ、そして周りを隙間なく憲兵が取り囲んでいる。レーマン准将がいるホテルも含めて、中央広場周辺の建物内はすべて憲兵が警備にあたっていた。


「さて、そろそろ首相はへ向かう時間かのう、アンゼルム」


 レーマン准将のすぐ後ろでは、ガマガエルのようなでっぷりとした男が、難しそうな顔をして原稿を眺めている。あごの右下に大きなほくろがある。彼とは長い付き合いであるそのほくろは、まるで太陽に表れた黒点のように、そこでじっとしている。大きな身体は黒いダブルスーツをまとっているが、腹のボタンは全開になっている。ポケットから赤いタータンチェックのハンカチを取り出し、ひたいの脂汗をぬぐった。


「こんな芸当ができるのはおまえのおかげだよ、ボニファティウス」

 コルネリウス首相は、水分を根こそぎ搾りとったような声で言う。


「たやすいことじゃ。そのたるんだほおも、突き出した腹も、とても特徴的がゆえに、のも楽じゃった」


「言ってくれる」

 首相は原稿を内ポケットにしまい込み、のっそりと立ち上がって笑う。


 二人は古くからの友人であった。

 南東の村ツェルザントに生まれ、ともに幼少期を過ごし、首都の大学で政治学を学んだ。人心掌握に長けていたコルネリウスは政界へ、召喚術の才があったレーマンは軍部へと足を踏み入れる。


西部戦線リオベルグが片付いたら、田舎に帰ってのんびり羊でも育てたいものだ」とコルネリウス首相はぼやいた。


「そのころには、どうせまたべつの、より厄介やっかいな問題が生じておる。政治家も、軍も、国民も、皆問題を解決しようとするふりをしておるが、実際のところ、いつも問題とねんごろなのじゃ」


「いやな含蓄だ」首相は苦虫を噛んだような顔をする。「死ぬ前に一度は、目の前の面倒ごとがきれいさっぱり、遠く地平線の果てまで片付いているのを、見てみたいものだよ」


 コルネリウス首相は部屋のとびらを開けて、出てゆく。


 廊下の外で首相と誰かの短いやりとりがあり、すぐ隣の305号室のドアが開く音が聞こえる。そこには放送用の機材が極秘で搬入されている。実際の首相は、


 レーマン准将はローブの内ポケットから、小さな銀色のオイルライターを取り出す。彼は葉巻を吸わないが、必要なとき、ライターの火をつける。そして今、親指でホイールを回し、発火石を擦る。オレンジ色の火が灯り、彼の顔をちらちらと照らす。数秒、レーマン准将はその火を見つめる。


 いつしかその炎は勢いを増し、青白く燃え上がる。准将が火に向かって強めに息を吹きかけると、炎はライターから離れ、ヘリウムで満たされた風船のように、空中に浮かんだ。

 みるみるうちにそれは人のかたちを成してゆく。胴体から首が生え、腕が伸び、脚が地面へ向かってかたち作られる。炎は一瞬風を受けたように震え、の造形を思い出したように、各部分をひとまわり、ふたまわりと大きく太らせる。


 ぷすぷすと音を立て、炎が消える。

 部屋には、黒いダブルスーツを着たアンゼルム・コルネリウスが立っている。


「本人より、少し凛々りりしくなってしもうたのう」

 レーマン准将は眉をひそめてその顔を点検する。垂れ下がった頬も、大きなほくろも、よく再現されていた。偽物の彼は無表情で、目はどこか遠くを見ているようだった。


「まあよい。さっそく準備を始めようかの」

 准将が言うと、彼は先ほどと同じように、部屋のとびらを開けて、外へと出ていった。


 レーマン准将はもう一度窓から広場を眺める。

 先ほどよりさらに観衆が増え、まもなく中央広場が完全に埋まりそうだった。


 そのとき、ひとりの男が彼の目にとまる。

 薄汚れた服を着ており、ひと目で貧しい人間だとわかる。演壇とは反対の隅で立ちつくし、呆然と群衆を見つめている。


 一瞬、その男と目があったように感じた。レーマン准将は顔をしかめる。そしてすぐに表情を消す。なぜあんな身なりの、乞食こじきのような男が目にとまったのだろうか。そのときの准将には、まったくの疑問だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る