人間はいずれ、自らの手で争いを大きくする。

「結婚を約束した女性がいた」


 ユージーンは話し始める。


「前の世界で、当時の僕の年齢ではまあまあよくあることだった。たいていの場合、両家にとって政略的に利点のある相手が、自動的に選ばれる。当人たちの気持ちなんて、二の次どころかまったく斟酌しんしゃくされることはない。べつにみんな、それについて文句は言わない。それが常識であり、普通のことだったからね。僕のもとには、幸運なことに、気立てのよい、心根こころねの穏やかな女性が連れてこられた。ほとんど不満はなかったし、僕が主観的に述べる限りにおいては、うまくやれていたと思う」


「それで、その女性が、先ほどの彼女にそっくりだった」

 テオは広場へと向かう、緩やかな坂道を下りながら言う。


「ああ。この村に来て、初めてユッテを見たとき、目を疑った。この世界は、なのかと思った。つまり、前の世界の人物が、あるひとつの演劇を構成する役者みたいに、この世界に配置しなおされているのではないかと。でも、ほかに彼女ほど役を再現している者はいなかった」


 いやおうなく、僕はユッテに惹かれた――彼ははっきりとした口調で言う。そして、少し寂しさのにじんだ顔をする。


「役割、という言葉を僕が使うのは、感情に適切な名前が思いつかないから、そう呼んでいるだけなんだよ。前の世界の婚約者へ対する、なんらかの償いにも似た感情にね」


「きみがユッテさんのそばにいるという選択肢も、あるのでは?」


 ユージーンは小さく笑う。

「あるいはね。僕がとても強い意志で、彼女を欲しがれば。でも、修道女のユッテは、生涯だれとも結ばれない。しゅに全てを捧げた身だから」


 テオは押し黙る。

 結局のところ、強い信仰心というものは、当人になにをもたらすのだろうか。テオはほんの少しのあいだだけ、思いにふける。

 

 それは二本の脚を正常に機能させる骨や筋肉のようなものかもしれない。人はなにかを信じることで、ふらつくことなく立っていられるのかもしれない。


 しかし一方で、テオは前の世界のことも思い出す。

 戦争は、信じる正義の違いによって引き起こされることが往々にしてあることを、思い出す。そしてそれは、どちらかの正義がぼろぼろになって、使い物にならなくなるまで続けられる。下手に切れ端を残してしまうと、それは時間をかけて自然治癒を行い、報復行動を起こすからだ。


 テオはそんなことを、広場で走り回って遊んでいる孤児たちの声を聞きながら、考える。ユッテという修道女が胸に抱えている、黒々とした感情のことを考える。現実的な判断を誤らないように。


「なにか変だな」ふいに、ユージーンが言う。


 ふざけあって遊んでいるもののように聞こえていた子供たちの声が、いつしか恐怖を帯びたものになった。

 マルタの声も聞こえる。なにかを叫んでいる。


「急ごう」

 二人は持っていた食器類を足元に放り出し、広場へと下っていく。


 大量の羽虫がぶんぶんと音を立てているのが聞こえた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「みんな、早く教会へ!」

 マルタが緊迫した声で叫んでいる。


 子供たちや広場にいた住人は、皆口々に叫びながら、教会へと駆けてゆく。テオとユージーンは、人々の群れと逆走するようにして、広場へとたどり着いた。


「あれは――少なくとも、人間じゃなさそうだね」

 ユージーンが言う。


 広場の入り口には、頭をフードですっぽりと覆っている、長身の人物がいる。その身体の周りには、無数の虫たちが渦を巻いて飛び回っている。不快な羽音が広場に響きわたる。


 テオは魔導銃を構えて、マルタの元へ駆け寄る。

 その人物と対峙するようにして、マルタとジル、そしてゲイラーが立っていた。姉妹はどちらも、大きな槍を手にしている。刃先がまるで風や波をかたちどったように、複雑な模様が施されていた。ゲイラーはマルチエレメンタル魔導銃「AP-49」を、しっかりと相手に向けている。


「少佐、こいつは――」

 マルタが羽虫の群れを睨む。


「エウリュアレ。魔族の中でも、最高位の種族だ。しかし、どうしてここに――」

 テオは銃をエウリュアレへと向けた。


「ずっとここまで、これとドライブしてしまったようです」ゲイラーが喉を唸らせて、苦々しい声を出す。「一匹の大きな蜘蛛くもが、車に乗り込んでおりました。おそらく、なにかの機会を狙っておったのでしょう」


 エウリュアレは、以前武器商人のコンラーディン・ガウスを討ったときと同じように、にたにたと笑っていた。避けんばかりに、口を広げている。


「また会ったな。エウリュアレ」テオは凄んだ。「おれたちはずいぶん好かれているようじゃないか。こんなところまで一緒に着いてくるなんて。目的はなんだ?」


 エウリュアレがまとっている黒いローブがわずかに揺れる。羽虫が逆巻く。

「責任が始まる。人間は皆、それを背負う」

 彼女は前と同じことを繰り返した。


「それは、お前たち魔族の、人間に対する『報復』ということか」


 エウリュアレは答えない。


 テオは魔導銃を握りなおす。

「推測しよう。きみや、きみの姉妹たちは、結局のところ人間に復讐をしたい。そのために、ソルブデンと結託し、イオニクの魔族を操り、この国を混乱に陥れようとしている。国家同士のバランスを崩して、戦争をさらに大規模なものにしようとしている。そういうことだろう?」


 羽虫がぶんぶんと、ひときわ大きな唸り声をあげる。

「ひとつ、きみに言おう」エウリュアレがうわずったような響きの声で言う。「我々が手を下さなくとも、人間はいずれ、自らの手で争いを大きくする。人間は、より多くの殺戮さつりくを望んでいるのだから。きみは、大きな思い違いをしている。人間に復讐したいのは、人間だ。我々はただ、それに力を貸すのみ。きみたちは、勝手に責任を引き寄せ、勝手に滅びていく」


「悟ったような言い方だ」テオは吐き捨てる。「力を貸した時点で、お前たち魔族も、殺戮に加担していることになる。そこにはまた、なんらかの責任が生まれるのではないのか」


「きみは、きみの倫理観で語っているね。人間の、至極一般的な道徳で、語っている」エウリュアレはひときわ大きく笑う。「滑稽こっけいだ」


 彼女が纏っている羽虫は、一箇所に収束し始める。

「またひとつ、魔族に村が襲われる。今のこの国にとっては、それはあまり好ましいことではない。さらに内政に混乱をきたし、にとっては、またひとつことが有利に運ぶ――は、そう言った」


 羽虫は少しずつ人のかたちをとり始める。まるで血液が体内を循環するように、内側へ、外側へ、虫たちがひとつの意志のもとにうごめく。頭ができ、手足が生え、盾と剣を構える。表面がなにかべつの材質に変化し、固まっていく。


 ものの数秒で、羽虫は甲冑かっちゅうを装備したひとりの戦士となった。

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