筋金入りの下衆野郎ですね。

「ボニファティウス!」スズは慌てて、餌の入った袋を取り落とす。「よもや、忘れたわけではありませんよね? 彼女には、軍からいっさい手を出さないと――そう約束を交わしたはずです」


 懇願するような目で、スズはレーマンを凝視する。

 白ひげを揺らし、彼はゆっくりとしたリズムで笑った。軽く咳払いをして、晴れた空を見上げる。


「もちろんじゃ。かたときも忘れたことはありゃせんぞ」


 もはや採掘されなくなったエリクシルは、世界に二つだけ、残っている。

 しかし、それはすでに鉱石のかたちをしていない。


「前にもおぬしに伝えた通り――そうじゃな、あれ何年前だったかのう」

 レーマンは懐かしむような顔で言う。


「とにかく、当時の大召喚術師がしくじりおって、ことがあった。召喚獣のたぐいではない。それは、人間のかたちをしておったからな」


 レーマンはまだまだ話し足りないと言う具合に、いくらか饒舌に、昔聞かされたことのある話をした。

 実際これは、スズをじゅうぶん追い詰めることになったし、それを再度想起させるために、この話を繰り返したのかもしれない。

 スズは苦虫を噛み潰した。


「ところどころの骨や筋肉が、通常通り機能しなかったのじゃな。その転生者は」レーマンは童話でも読んでいるような口ぶりだ。「それで、召喚術研究所の連中はを『実験台』に使うことにした。おぬしと同じくらいの年の、黒い髪の少年じゃったな。まったく哀れな運命としか、形容けいようできん」


筋金すじがね入りの下衆野郎ですね」


 スズは吐き捨てた。

 下腹の奥の方に妙な痛みが走る。はっきりと、気分が悪かった。


「目下、得るべき結果は、魔鉱石の再抽出じゃ」彼はおかまいなしに続ける。「そして成功した。べつの魔鉱石を『召喚具』と同じ要領で働きかけて、引き合わせることで、それはうまくいったのじゃ。その少年を召喚する際に用いた水属性の魔鉱石『ナーキッド』を、無事に取り出せた」


「もう、聞きたくありません」スズはうつむいたまま言う。


 レーマンはなおも笑っている。

「少年は、実験前からかなり衰弱しておってな」

「聞きたくありません」


「再抽出のために、口と肛門に電極を差し込んだ」

「やめてください」


「ありとあらゆる体液が流れ出ておったような――」

「やめろと言っているのが聞こえないんですか?!」


 スズは跳ね上がるように立ち上がり、叫んだ。

 肩で呼吸しなければならないほど、苦しかった。

 広場のハトがいっせいに羽ばたいた。道ゆく人々が、怪訝な眼差しを向ける。


 レーマンは無表情で、じっとスズを凝視する。

「愉快な死に方を妄想して楽しむようなおぬしが、どうしてそんなふうに激昂げっこうする」


「まったくなにも、わかっていない」スズは切れぎれに言う。「死を望まない人間の死ほど、私が嫌悪するものはありません。しかも、そんな赤の他人のろくでもない都合で――」


 実験台にされた少年は、どんなに辛かっただろう。

 まさに地獄の苦しみだったはずだ。前の世界でどのように絶命ぜつめいしたのかはわからない。だが、転生者は例外なく「前世で生をまっとう」できなかった人間だ。そのうえ少年は、目を覚ますと得体の知れない異世界の人間に、およそ人道的でない強烈な苦しみを与えられながら、死んだのだ。

 その少年は、二度も死んだんだ。


「もう一度言う。エリクシルが予定より早く須要しゅようになりそうじゃ」レーマンは言う。「わしはどちらでもよい。おぬしのでも、あの難民なんみんのでも」


 スズは両手の拳を握りしめている。

「その方法でエリクシルも取り出せるとは、正直思えませんけどね」


 レーマンは笑う。

「ラングハイムよ。研究は挑戦と失敗じゃ。うまくいかなくても、何度でも試してみる。幸い、


「――鬼畜野郎」


「ラングハイムよ、年寄りはいたわってほしいのう。おぬしらとは違って、わしは老いるのじゃよ。エリクシルの劣化版ハイランダーでは、老いは止められん。身体も衰えてゆく。刻々とな――つまり、時間は有限じゃ。いかなる約束も、永久的な拘束力を持つことはできんよ」


「今――もう少しで別の方法も。魔導銃ノヴァにも、可能性があります」

 スズは青ざめたくちびるを動かして言う。


「ラングハイム。わしはじゅうぶん待った。とても我慢強くのう。ざっと十年、本来であれば国が拘束しなければならん種類の難民を、見逃し続けておる。喉から手が出るほどの力を、おぬしがなんとかするというから、温かい目で見守っておったのじゃ」


 目の前にのほほんと座ってハトを眺めている老人が、スズには悪魔のように見えた。

 それはたまたまではない。彼は実際に、。災いと不幸をもたらす、闇の使い魔だ。


 あらゆる意味で、スズにとってレーマンは、悪魔だ。

 そんなことは、彼に出会ったときからわかっていたことだった。


「今年中じゃ。これはおぬしがその難民なんみんと、最後のケルニオス生誕祭を過ごせるよう、わしからのこの上なきはからいじゃ。引き続き、監視させもらう。その指輪、はずすでないぞ」


 スズが左手の小指につけていた青い宝石の指輪のことだ。

 レーマンに魔法をかけられた特殊な指輪だった。もしなんらかの事由によりスズが死んだ場合、または指輪を外した場合、レーマンの息がかかった召喚獣が即応して、スズをするように仕込まれていた。そのときのスズが、人間のかたちをしていても、石のかたちをしていても。


「――リンには、絶対にそれまでは手を出さないと、約束してくれますね」


「おぬしが余計なことをしなければの」

 そう言ってレーマンは立ち上がり、休日の散歩を楽しむかのごとく広場を横切って、消えていった。


 スズはしばらくのあいだ、ベンチに座り放心していた。


 いつもならば、だいたい昼の二時ごろを過ぎたあたりで広場をあとにし、パンや野菜、肉、酒類を買い出しにいく。気分が乗れば、バルバラの店に行ってビールを飲む。でも今は、できるかぎりの時間をここで使いたかった。ただハトを眺めて、なんの感情も抱かずに過ごしたかった。時間を浪費したかった。


 ハトの寿命はおおよそ十年程度らしい。今、足元を何の警戒心もなく通り過ぎた一羽は、もうどのくらい生きてきたのだろうか。あと、どのくらいで死ぬのだろうか。

 たった十年程度で命を燃やしきることができるハトを、スズはとても羨ましく思った。どうして生きているんだろうとか、どう死ぬべきなんだろうとか、そんなことを考えている時間もなく、あっという間に終わってしまいそうだ。それは、とても心地よいのだろう。幸福なのだろう。そう思った。

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