終わらせるのじゃ。戦争を。そのための力じゃろうが。

 たくさんの灰色のハトが神経質そうに頭を動かして、餌をついばんでいる。

 

 ルーンクトブルグの首都、マルシュタット。

 中心部には大きな円型の広場があり、石材の地面には柔らかな日差しが降り注いでいる。今朝は放射冷却ほうしゃれいきゃくでいくらか気温が下がっていたが、太陽はゆっくりとこの世界を巡り、昼にはもうじゅうぶん暖かくなっていた。


 中央広場に面して、ケルニア大聖堂がそびえ立っている。

 彼は見上げるほどに背が高く、白い壁で覆われ、その教義と権力をこれ見よがしに誇示しているように見える。大聖堂はマルシュタットの象徴的な存在であったが、ここに住む人々にとっては日常的な風景の一部分に過ぎなかった。礼拝や行事でない限りは、皆その前をただ通り過ぎていくだけであった。


 オシュトローの村から首都に戻った、翌日の昼。スズはケルニア大聖堂の真正面にあるベンチに座り、ハトに向かって餌を投げていた。行き交う人々は大勢いたが、ハトを気にとめる者はひとりもいない。まるで別の世界を生きているように、すれ違っていく。


 休暇の日はこうして、なにも考えずに外へ出る。

 スズにとっては、習慣のようなものでもあった。


 朝起きるとシャワーを浴び、髪をタオルで拭きながらやかんにお湯を沸かす。飲むのは紅茶のときもあれば、ミルクココアのときもあった。パンを一枚トーストして、バターを塗って食べる。そのあと髪をとかし、よく歯を磨いて、薄めに化粧をする。

 グレーのワイドパンツに、白い薄手のセーターを着る。

 もうずいぶん使い込んだ紺色のトレンチコートをはおり、銀のシガーケースをしっかりと内ポケットに入れた。

 ほんの数秒、鏡の前に立つ。実に健康的で、まあまあしゃれた、十四歳の少女がそこに立っている。

 左手の小指につけている指輪が目に入り、眉根をひそめる。

 編み上げブーツを履いて官舎を出た。帽子は被らず、髪はまとめて頭のてっぺんにお団子を作っていた。


 マルシュタットの街を、スズは時間をかけてゆっくりと歩いてゆく。いつもの小道も、通り沿いの家々も、いつもとまったく変わらないことをたしかめながら、歩いていく。


 スズは、広場のすみにいるしわだらけの老人から、ハトの餌を買う。

 彼はうまく口が聞けない男だった。貧相な身なりで、まるで命そのものが小さくしぼんでしまったような体躯たいくをしている。売っている餌は、日によっていつも値段がばらばらだった。スズは気にせず、老人が欲しがった金額を払った。


 そもそも彼はまともに話せないので、売っているのは本当にハトの餌なのかどうか、確かめたことがなかった。ずっと若いころから、彼はほとんど話せない。歪んだ口を懸命にもごもごと動かして、やっと一言、二言、聞き取れるかどうかだった。


 しかし、彼は三十年も前からここで餌を売っている。昔は餌のほかに食器や雑貨なども売っていたが、最近はずっと餌しか並んでいない。薄汚い布を広げて、その上に品物を並べている。小さな茶色の紙に包まれた、種類のよくわからない豆だった。


「ありがとうございます」老人にお礼を言い、ベンチへ向かう。


 スズは、彼が何者か知らない。名前すら知らない。

 老人もまた、スズの名前を知らない。スズがまったく歳をとらず、三十年間ずっと同じ姿であることについて、彼はなんら疑問を持っていないようだった。あるいは彼にとって、今日のスズと、一ヶ月前のスズと、三十年前のスズは、まったくの別人なのかもしれない。

 スズにとっては、どちらでもよかった。餌を売ってくれさえすれば、それでじゅうぶんだった。


 スズはこの首都に住み始めてから、軍の関係者以外にも、たくさんの人間と出会った。その人々といくらか話をし、ときに食事を共にすることだってあった。

 しかしそれらの付き合いは、三年か四年くらいのサイクルで、きれいに入れ替わってしまう。民間人に、成長しないスズの容姿を勘ぐられてしまってはいけなかった。


 結果的に――実に奇妙なことだが――スズが三十年のものあいだ会い続けているのは、餌売りの老人のみだった。


 灰色のハトは餌を求めて、せわしなく広場を動き回っている。足元に餌をほうるとこちらへ群がり、遠くへ投げると散らばっていく。羊飼いでもしているような気分になる。


「長すぎる時間を、ずいぶんと持て余してしまっているようじゃの」


 ベンチのすぐ横に、白いひげの男が立っていた。

 禿げ上がった頭は、モスグリーンのニット帽で覆われている。赤いチェックのフランネルシャツに焦げ茶色のベストを着ている。


「時間について、たとえ長かろうと短かろうと、私は軍人として戦地に赴くこともあれば、ひとりのマルシュタット市民としてハトに餌を与えることもあります」

 スズは一定のペースを保ち、餌を投げ続ける。


 白いひげの男は笑う。

「人間は自らの永続的な未来を認めたその瞬間――言い換えれば、自分が死からもっとも遠い存在だとわかったその瞬間――かえって死に関心を持つ。そして死に取りかれた人間は、徹頭徹尾てっとうてつび、規則的な生活を送るようになる。はなはだ不思議じゃのう」


「不思議などではありません。人間にとって、絶対的事象の最たるものが死です。その死そのものが失われた人間が、自身の日常的な営みの細部に確実性を求めようとするのは、ごくごく自然なことかと」


「それは裏を返せば、死をあきらめるという行為にほかならないのではないかのう」

「そこに因果関係はありません。少なくとも、私の中では。それで、なんの用ですか? ボニファティウス」


 ボニファティウス・レーマン准将はスズの隣に腰をかける。のんびりとあくびをし、ふうと息を吐く。


「なあに、散歩じゃよ。もっともラングハイム、おぬしと違って目的がある。健康維持じゃ。なにせ、老体じゃからな」


 スズはレーマンの言葉を無視するように、うんと遠くへ餌を投げた。ハトたちがばたばたと羽をばたつかせて、餌を奪い合う。


「エリクシルが予定より早く須要しゅようになりそうじゃ」

 白いひげを触りながら、レーマンは言う。


 スズは目を丸くした。

「――どういう、ことですか」

 指で掴んだ餌を取り落とす。足元に散らばり、ハトが二、三羽寄ってくる。


「西で勢力を拡大しつつあるあの忌々しい白銀の党も、国民に甘い夢を見せるのだけは得意なようでな。愚かなものじゃ。わしらはソルブデンだけでなく、大国エウロニや東のムーバムに接しておる。それにサンドロワグスタンも、コボルグラントの戦いではなはだ恨みを買っておるのに。あのやからときたら、武器を捨てれば誰からも撃たれないと勘違いしておる。なんともかぐわしい花畑な脳みそじゃろうて」


 スズは黙りこくって、レーマンの話を聞いていた。


「戦力の増強が急務じゃ。力じゃよ、最後にものを言うのは。あればあるだけよい。強大すぎて困ることなどない。エリクシルにもっと効率のよい利用方法があるということは、贋物ハイランダーで実験済みじゃ」


 大きく口を横に開いて笑う白ひげの老人の声に、スズは身震いする。

 手が震えた。彼女の顔から、にわかに血の気が引いていく。


 エリクシルは、スズがこの世界に転生させられたとき、大召喚術師ユニス・ラングハイム卿が用いた魔鉱石だ。その鉱石の力によって、スズは不死身の身体となった。


 ハイランダーも、魔鉱石の一種だ。エリクシルとはまったく比べ物にならない、いわば「劣化版」だが、人の生命力に働きかけ、その力を正しく引き出せば、通常より長く生きることができる。過去にはイオニク公国にある鉱山で豊富に採掘され、ルーンクトブルグにも少量ではあるが流通した。


「ボニファティウス。言っている意味が」


「わからんはずはないじゃろう? ラングハイム」レーマンは語気を強めた。「西部戦線リオベルグ。あれが続いていることをだしに、白銀の党は不安を煽っておる。終わらせるのじゃ。戦争を。そのための力じゃろうが。なにか、間違っておるかのう?」


 スズは大きく息を吸い込んだ。

 胸の中の空気を入れ替えないと、毒に侵されそうな気分だった。


「――もちろん。だからそのために魔導連合大隊の創隊を提言したのではありませんか。さらに今回の巨人襲撃を受けて、より最適化された部隊編成を進めることを、クンツェンドルフ中将も承認しています。必ず、大きな戦力になるかと」


「ああ、当然あれにも期待しておる。機動性に優れた、少数精鋭部隊。大いに活躍してもらううもりじゃ。だがの、繰り返すが、


 スズは唖然とし、ぽかんと口を開けたままになってしまった。


「エリクシルは今やもう、神話か伝承のたぐいと思われておるほど希少。幻の魔鉱石とも言えよう。我が国でも長年かけてあらゆる場所を掘り起こしてきたが、鉱脈を見つけるには至っておらん」


「ええ、そうでしょう。それはユニスの功績です」

「しかしじゃ、わしはそのありかを知っておる」


 レーマンはゆっくりと片手を上げて、スズをの心臓を指差した。

 彼女は唾を飲み込む。


「ここじゃ」


 そのしわだけで折れ曲がった人差し指に、スズは縛られたような感覚になった。


「それと」准将はのほほんと続ける。


「南東の村ラインハーフェンにも、、おるのう」

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