第八話 -悪魔-
赤ワインのボトルでも買って帰ろ。
至極下品で、
レナエラ・エスコフィエ大佐は唇を噛んだ。
ソルブデン帝国の首都において、近衛兵が一名殺害されるという事件が発生したのは、もう一週間も前のことだ。
被害に遭ったロラン・ミュール大尉は、エルフェ通りからほど近い路地で、急所を的確に突き刺されて死亡していた。刃渡り二十五センチほどのナイフでひと刺し。人間を殺すことに関して、じゅうぶんに心得のある人物による犯行であることに間違いはなかった。
レナエラはその報告書にある程度目を通したところで、一度デスクの隅に置く。
流れるような黒い髪を耳にかけて、ふうとため息をついた。
調査報告では、ミュール大尉を殺害したのは共和国のスパイである可能性が示唆されている。
大尉の遺体が発見されたのは早朝のことだった。
だがその前日の晩。あるレストランで彼がひとりの女性と食事をしていたという証言があった。そのレストランのウェイターが、その姿を目撃していた。
さらに、ミュール大尉の遺体のそばには、小さな紙袋が見つかる。
ブリオッシュが二つ入っていた。調査の結果、それはエルフェ通り沿いの小さなパン屋で売られていたものだと判明した。
「アメリー・ブラシェ。うーん、たしかになんとなく、偽名っぽいかも?」
レナエラは呟く。
そのパン屋にはアメリーという女性の売り子が働いていた。
そのことは、店主のエマールというひげをたくわえた男から事情聴取しわかった。店主は、その晩ミュール大尉とアメリーが二人で食事に出かけていったところも目撃している。
〈目尻が少し垂れ下がっており、客からはとても親しみを持たれている。銀色の長髪を頭のうしろで束ねて下ろしていることが多かった。ずっと田舎に住んでいたが、妹が難病を患い、治療費を稼ぐために首都に出てきたのだと、店主には話している〉
報告書にはそう記されていた。
しかし肝心のアメリーは、すでにその店からはいなくなっていた。
住まいにも憲兵が
「諜報部隊にしては、ずいぶんとお粗末な気もするなあ」
目撃者が数人いる状況を作り、しかも殺害までして逃げる。
正直、殺す必要はあまりないように思えた。単なる、恋愛関係のもつれという線もじゅうぶんあると、レナエラは勘ぐった。
彼女はため息をつく。
もうかなり遅い時間だった。隊長室の窓からは夜の闇に浮かぶ、首都グリエットの見慣れた街並みが見える。街灯や家の明かりが点々と輝き、それはビーズ玉を散らかしたように遠くまで広がっている。そのひとつひとつはよく見ると案外個性的で、今にも消え入りそうな弱々しい光もあれば、なにかを誇示するように強く、攻撃的な光もあった。
部屋の中はもちろん、外の廊下も人の気配がしない。
レナエラはここのところ帰宅が遅くなることが続いている。まわってくる書類が増え、事務処理に多くの時間がとられる。
その奇襲作戦は昨日実行された。
望んでいた結果は得られたという意味では成功だった。しかし予想に反して魔導師の損耗は激しく、今は共和国の反撃に備えて
前線からの情報では、数ではじゅうぶん押していたものの、敵魔導連隊にいた
「イレーネ・シャルクホルツ大佐――周囲半径約二キロメートルにわたって、天候が一変したかと見紛えるほどの水属性魔法――いやだなあ――私も前線に派兵されたらこんな化け物みたいなのと戦わなきゃならないのかなあ」
レナエラは先ほどより大きなため息をついた。
彼女は帝国の魔導銃軍を率いる連隊長の立場である。しかし、なにかと理由をつけて、部下にあたる士官に現場指揮を任せ、自身は本部の管理業務に従事することが多かった。自分はほかの軍人たちと比べてまあまあ
齢二十七。同期であった女軍人たちは次々と男を捕まえていき、気がつけば、軍部に残っているのはひとりだ。完全に婚期を逃したと、レナエラは毎日のように嘆くも、仕事仕事の日々に追い立てられ、ここまでずるずるときてしまった。
そんな彼女だったが、明日は旧イオニク公国へ向かう要人の護衛任務を控えていた。
もう五年も前だろうか。ソルブデンの上層部はイオニクと繋がり、しばしば要人同士が集い、政治的な交渉を繰り返している。
聞く限りによると、上はずいぶんえげつのないことをやっている。
ルーンクトブルグのいつくかの村へ魔族を送り込み、内政を混乱させている。一応のアリバイ作りのために、自国にも魔族を発生させてそれを自軍に討伐させるというマッチポンプもやってのけている。
そして、もはや政府の機関誌に成り下がっている一部の新聞社を使って、国民の不安を煽りつつ、犠牲者を出さずに魔族を討伐する軍部を賞賛していた。
シンプルな構図のプロパガンダだ。
今回の奇襲作戦でも、上級召喚術師を使って、イオニクの魔族をルーンクトブルグの町や村に放ち、敵の兵力を割かせている。いわば「おとり」に使ったのだ。
それも、旧イオニク公国と
イオニクって昔、戦争でなくなったんじゃなかったっけ? レナエラは思った。
「まあでも、人が生きてても変じゃないのかなあ」
あまり興味がなさそうに、彼女はぼやく。
明日はおじさんばかりで、出会いもなさそうだし。
長い時間立ってなきゃいけないし――嫌だなあ。
「赤ワインのボトルでも買って帰ろ」
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