エミリアちゃんもいっぱい泣いたら、そのあとは胸を張るのよ。

 そこには、小さな子猫が四匹、互いに身を寄せ合っていた。


「におい――あれ?」みりんは首を傾げる。

「やだ、子猫じゃない! 可愛いわね」

 ニコルが感嘆のため息を漏らした。


 子猫たちは皆、白と茶色が八対二くらいの毛色をしていた。みりんがここにたどり着いたことも踏まえると、ルーシーが産んだ子猫である可能性は高そうだ。

 しかし、母親がいない。


「みりん、においはどうですか?」スズが確認する。

「におい、わかんない」みりんは言う。

「ここで途切れてる?」

「うん」


「そんな」ニコルは口をおさえた。「この子たち、ここに置いてきぼりになっちゃったの?」

「いえ、どこかに行ってしまっただけなら、においが続いているはずです。それに、出産後の母猫は本来、めったに子供のそばを離れません」


 子猫はもうすっかり毛が乾いているし、目も開いている。

 ただ、まだ自力では数メートルも歩けない身体だ。生まれてから、そう時間は経っていないのだろう。そうなると、母猫も出産直後で、体力を消耗していた状態であった可能性が高い。


 みりんがこれ以上追えない。

 それはつまり、この場所でルーシーにはなにかがあった、ということだ。


 スズは、橋で影になっている川面を見つめた。

 橋梁きょうりょうは通常、川幅の狭いところを選んで造られるため、この辺りではいちばん幅が狭くなっていた。ホースを絞れば勢いを増すのと同じように、ここは流れが急だった。


 それに、昨日は大雨だった。


「大尉。ちょっと」

 スズはニコルにだけ聞こえるように、耳打ちする。

「ん?」

「川に流されてしまうと、においがかき消されてしまって、さすがにみりんでも追えません」

「――それって」

「しょうがないですよ」


 エミリアがスズのローブを掴んだ。

「ねえルーシーは? ルーシーどこ行っちゃったの?」


 スズはしゃがんで、エミリアと目線を合わせる。

「エミリア。ルーシーはそのうち必ず戻ってきますよ。それより見てください。ルーシーが長いあいだ出払っていたのは、お母さんになるためだったみたいです。でも、この場所は少し日当たりも悪いですから、子猫はおうちに連れて帰りましょう。ね? もうすぐ日も暮れてしまいますし――」


「ルーシー見つけるって言ったもん!」エミリアはスズを遮って叫んだ。「魔女のお姉ちゃん、ルーシー見つけられるって言ってたもん! ルーシーはどこ?!」


 エミリアは子猫のかたわらに突っ立ったまま、うつむいて泣き出してしまった。

「――ごめんなさい」スズはエミリアの肩を抱いた。「約束でしたもんね。エミリア。叶えられずに、本当に申し訳ないです」


「エミリアちゃん」

 ニコルがそばにしゃがみ込んだ。そして、エミリアの小さな頭を撫でた。


 肩にかかっていたスズの手を優しく離し、頬を濡らしている少女に言う。

「よく聞いて、エミリアちゃん」

「ちょっと、大尉――」ニコルの真剣な声に、スズはまごついた。


「ラングハイム中尉、大事なことよ」彼女はエミリアの肩を掴んで続ける。「ルーシーは、雨や風のしのげる場所をちゃんと選んで子猫を産んだのね。それも、四匹も。すごく立派なお母さんよね」


 エミリアは、うつむいたまま。


「ルーシーは、死んでしまった」ニコルは、しっかりエミリアを見て言う。「たぶん、川に流されて。とってもとっても、悲しい。すごく辛いよね――でも見て。子猫たちはちゃんと生きているし、元気に鳴いている。ルーシーは最期まで立派に子猫を守ったのよ。お母さん猫として、役目をきちんと果たしたの。素敵なお母さんだと思わない?」


 エミリアはこくりと頷いた。

 ニコルがやわらかに笑う。まるで母親のような笑顔だった。


「きっと、エミリアちゃんが大事に大事に育てた猫ちゃんだからだと思うな。だから、エミリアちゃんもいっぱい泣いたら、そのあとは胸を張るのよ。しっかり、元気に生きていかなきゃ」


 しとしとと涙を流したまま、エミリアはニコルに抱きついた。少女の柔らかな髪を、大尉の手が包み込んだ。


 スズは抱き合う二人を、ただ静かに見ていた。

 死に向き合っている、二人の生きた人間を、スズはただ見ていた。


 ふと思う。

 二人が、少し羨ましい。


 日が傾いてきた。

 川の流れに、太陽の光が反射している。

 子猫たちの元気な鳴き声と、川のせせらぎと、虫の声が聞こえる。


「あ! におい!」

 突然、みりんが声をあげた。興奮して、一点を指し示している。


「おや、あれは――」スズが目を凝らす。


 最初は夕日が逆光になり、よく見えなかった。でも、その影はこちらに近づいてくる。

 それは、猫のかたちをしている。


「ルーシー!」エミリアは叫んで駆け出した。


 白と茶色の毛をした、少し小ぶりの雌猫がいた。

 口には、どうやら彼女が仕留めたらしい小動物の死骸が咥えられている。


 その猫は、四匹の子猫たちの母親だった。


「ルーシー、生きてたんですね。よかった。でもどうして――みりんがもうにおいが途切れていると」


 スズが川辺を見渡した。

 ルーシーが来た方向へ少し歩いてみると、一見すると何の変哲もなさそうな、葉が密集して植わっているところがあった。スズはその葉のかたちに見覚えがあった。かがんで鼻を近づけてみると、独特の香りがする。


「セージですね。なるほど、このにおいのせいで、ここから先のルーシーのにおいが途切れたように感じたみたいです――あれ、フィルツ大尉?」


 なにやら、ニコルの顔が浮かない。

「――なによ。川に流されたって」

「このセージのせいですよ。シソ科の植物は、みりんも苦手なんです。においが強くて」

「そう。そうですか。あーもう、なんかすっごく恥ずかしくなってきた!」

 ニコルは顔を覆ってしまった。スズはにんまりする。


「『ルーシーは最期まで立派に子猫を守ったのよ!』いやー大尉。名台詞めいぜりふでしたよ」

 絶妙な声真似をして、スズはニコルをからかった。

「あんた――嫌い」


「でも大尉」スズは声色を戻して続ける。「本当に、大切なことだと思います。この国は、戦争をしていますから。猫だけじゃなく、実の両親や子供だって、突然なんの前ぶれもなく、いなくなってしまうこともありますから。それは悲しいことですけど、当事者はいやでも向き合わなければいけません。だから、大尉は大切なことをしたんだと思います」


「なによ、あんたもいきなり」

 ニコルは眉間を歪ませたままだった。


「さあ、今度こそ帰りますよ! エミリア、ルーシー」


 ルーシーを撫でているエミリアの涙は、夕日でぴかぴかと光っていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「たった十キロのコーヒー豆に、ほとんど丸一日かけるとは、なんて効率のいい仕事だ。なかなかできるものではない。そう思わないか? ラングハイム中尉」


 テオは無表情で行った。

 士官室のテオのデスクの前で、ラングハイム中尉とフィルツ大尉は直立している。


「――少佐、こうなったのもわけが」

「なんだ大尉。二人でコーヒー農園にでも行って収穫から手伝っていたのか? なるほどこれで我が士官室のコーヒーは完全自家製だ」

 フィルツ大尉が弁解しようとするも、遮られた。しょんぼりして、大尉が顔を伏せる。周りの士官たちは必死で笑いをこらえていた。


「そうです少佐!」ラングハイム中尉が突然叫び出す。「この士官室の皆さんに最高のコーヒーを提供するために、農園まで行ってみようと提案したのはこの私です。しかし今考えるとまことに浅はかでした。ええ浅はかでしたとも。そんなことをしようものなら必要以上に時間がかかってしまうのはもはや自明。あのときあの瞬間の自分に会えたなら、まず真っ先にこう言いたい。『コーヒー農園はそもそも大陸が違うぞ』と。しかしそんなことはもう不可能です。そこで考えたのですが、私は少佐に撃ち殺されて絶命してしまうのが明快かつ正しい処分かと」


「中尉!」テオが激昂げっこうする。

「はい!」

「貴様にはで罰を受けてもらうから覚悟しろ」

「はい! えっ――ちょっと少佐。えー」


 士官室は大爆笑だ。バルテル少尉など、腹を抱えて何かを吐き出しそうなほど、身体を揺らしている。笑顔の絶えない職場でなによりである。もっとも、そうでないと軍人など務まらないのかもしれない。


 テオもつられて笑う。

 ラングハイム中尉と、フィルツ大尉は、心なしか打ち解けた様子で戻ってきたような気がした。

 まあ、今日のところは「特殊任務成功」としておこうか。

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