においを嗅ぐだけですから! 一瞬で終わりますから!

 女の子の名前はエミリアといった。

 今コーヒー豆を準備している店主の孫である。さらさらした健康な髪に、ふっくらした頬をしていた。大きめの耳は、祖父ゆずりのようだ。


 彼女の飼っていた雌猫めすねこの「ルーシー」が姿を見せなくなったのは、今年の初夏のころだという。

 もともと外飼いをしていた猫なので、ルーシーはいつも家の中と外を行き来していた。一週間程度外の世界を放浪し、いつの間にか帰ってきている、ということは、今ままでにも何度かあったらしい。


 しかし今回は、一ヶ月、二ヶ月と経っても戻ってこない。

 心配になって街を探し回ってみてはいるものの、なかなか見つからない。そこで今回エミリアは「猫探しの張り紙」を、店頭にも掲出しようと思い立ったわけである。


「ムーキッシュバンという品種の猫でね」店主が言う。「少し巻き毛になっていて、頭と尻尾に茶色の模様が入っている。この辺りじゃ珍しいから、見かけたらすぐわかると思うんだが」


「うーん、見てないですね」スズは言う。

 ニコルも首を横に振る。「でも、もう三ヶ月にもなるのよね。そうしたら、ルーシーはもう――」

「ちょっと大尉!」


 スズは慌ててニコルの口をふさいだ。 

 洋紙を貼り終えたエミリアはしょんぼりと顔を伏せて、唇を歪ませている。


「い、いや! そういう意味じゃなくて!」ニコルは慌てて手を振る。「うーんと――ほら、猫ちゃんにも長期間遠征しなくちゃならないときがあるのよ。例えばそうね、他国との合同演習とか」

「大尉は黙っててください」


 スズはエミリアの頭をぽんぽんと優しく叩いて、それから店主に提案をした。

 ルーシーを見つける手段――ないわけではない。


「店主殿、折り入ってご提案です。どうでしょう、私たちが今からルーシーを探して参ります。もし見つけられたなら、今日注文したコーヒー豆、少しまけていただくというのは」


 突然の話に、店主は目を丸くしていた。

「ほう――ええと、きみがかね?」


 ニコルが、スズの袖をひっ掴んでたぐり寄せる。

「ちょっと、ラングハイム中尉。なにいってるのよ?」

「だから大尉は黙っててくださいって」


「まあ」店主はにっこりと笑って言う。「少し安くさせてもらうぶんには構わんよ。ただ、もうずいぶん探したからのう。本当に見つかるかどうか」

「任せてください! こう見えても魔女ですからね!」

 三角帽子にローブ。古きよき魔女の衣装を、スズはふだんから身にまとっているのである。


「魔女のお姉ちゃん、ほんと? ルーシー見つけてくれるの?」

 エミリアが目を輝かせている。

「ええそうですとも。約束します。さあエミリア、フィルツ大尉、行きますよ」


「ええっ?! 中尉、そんな時間は――」

 ニコルの制止をあっけなく無視して、スズはエミリアの手を引いて出て行ってしまった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「しょうかんじゅつ?」

 エミリアには聞き慣れない言葉だろう。彼女は首を傾げて復唱した。


「そうですエミリア。私は魔女ですが、なんと召喚術も使うことができるんですよ。昔、母に教わったんです」スズは胸を張る。あまり大きくはない。

「すごいね! 魔女のお姉ちゃん」


 スズとエミリア、そして巻き添えをくらってしまったニコルは、比較的大きな芝生のある近くの公園まで来ていた。


「コーヒー豆を買いに来ただけのはずだったのに」

 ニコルはひたいに手を当てて、困り果てている。


 スズはローブの中から銀のシガーケースを取り出した。中にはいくつか指輪が入っていたが、そのうち黄色に輝く石が散りばめられた指輪を取り出し、左手の人差し指にはめ込んだ。

「少し、離れていてくださいね」


 しゃがみ込んでその左手を地面につける。

 するとその手が十センチほど地面にめり込んだ。芝生がえぐられているわけではなく、まるで水面に手を浸しているように、手首から先が隠れてしまった。


 直径二メートルほどの黄色に光る魔法陣がみるみるうちに地面に描かれていく。まるで透明な巨人が、光のボールペンを使ってサインでも走り書きしているみたいだった。

 完成した魔法陣は眩く輝く。そして、中心に向かって少しずつ光が収斂しゅうれんされていく。


 光は、ちょうどエミリアと同じくらいの年の、小さな男の子になった。


 ふわふわとした金髪に、同じ色の瞳をしている。その瞳は最初にスズを見て、安心したように笑顔になった。それからエミリア、ニコルの順に周りを見回す。ひくひくと、鼻が動いている。毛皮をそのまま着せたようなゆったりした服を着ており、同じく毛皮で覆われた尻尾が生えていた。


「紹介します。『みりん』です」スズは言う。「今は人の姿をしていますが、どこかの世界の、どこかに住んでいた犬です。『ゴールデンレトリバー』という犬種だそうで」


「スズ!」みりんは無邪気な声でそう呼び、スズの腰の辺りに抱きついて、ぶんぶんと尻尾を振った。

 スズはわしゃわしゃとみりんの頭を撫で回す。

「よーしよーし、みりんはいつも元気ですねー」


「――たしかに、犬みたいね。うん」ニコルはみりんを見つめて言う。

 エミリアはといえば、スズのかたわらで、突然現れた尻尾付きの少年を不審がるように目を向けていた。


「怖がることはありませんよ、エミリア。みりんは人を襲ったりしません。しかも、においをたどってルーシーを見つけることができる、とっても役に立つ子なんですよ」

「ほんと?」

「もちろんです。さて、それにはルーシーのにおいがわかるものが必要なんですが――言うの忘れてましたね。エミリアはいつもルーシーと遊んでましたか?」

「うん。遊んでたよ」


 よし、とスズは手を打った。

「それなら、エミリアの服にルーシーのにおいが残っているはずですよ。みりん、捜索開始です!」

「えっ」エミリアがぎょっとしてあとずさりをする。


「ちょっとそれは、あんまり――絵としてどうかしら――」ニコルが苦笑いを浮かべる。

 忠犬みりんは、スズの指示どおり、エミリアの白いワンピースに狙いを定めた。


「におい!」みりんがひと吠えした。


 エミリアは悲鳴をあげて、全速力で走り出した。

 みりんもそのあとを全速力で追いかける。


「安心してください! においを嗅ぐだけですから! 一瞬で終わりますから! ちょっと、エミリア――あー」

「ねえ、馬鹿なの中尉! そんなの恥ずかしいに決まってるじゃない!」

 スズを叱咤してから、ニコルはさらにみりんのうしろを追いかける。


「もう――みんな仲が良いですね」


 数分後、みりんを取り押さえたニコルが、「エミリアが恥ずかしがらず、かつみりんがルーシーのにおいを認識できるギリギリの距離」を注意深く計り、なんとか事なきを得た。エミリアはぜいぜいと肩で息をしていた。


 ルーシーのにおいがわかったみりんは、公園の西側へと駆け出した。

「ほら二人とも、行きますよ!」スズがあとを追う。

「また走るの?」残された二人はきれいにユニゾンした。


 みりんを追って、三人は街を走った。

 大きな通りをひとつ渡り、雑貨屋の脇の路地に入る。右に左に五回ほど折れ曲がり、石造りのアーチ橋を渡り、住宅地に出る。家々の隙間を抜い、さらに走る。


 すれ違う人々は、いったい何事だろうと、スズたちを振り返った。なにせ、尻尾の生えた男の子に、魔導師衣装の少女、軍服の女性、白いワンピースの小さな女の子という、めっぽうわけのわからない組み合わせなのだ。


 十五分ほど走ったあと、みりんの動きが止まった。

 そこは街の西にある、カルラ川だった。護岸工事のされていない五メートルほどの小さな川で、川辺は砂利になっている。ところどころに樹木が生い茂っており、川面かわもにせり出して日陰を作っていた。


「ずいぶん来たわね――ここにルーシーがいるのかしら?」

 ニコルは息を切らしている。

「おそらく――」

 スズは膝に両手をついて、今にも戻しそうな顔をしていた。


 あんまりみりんが疾走するので、途中からエミリアには追いつけなくなってしまい、ニコルがおぶって走っていた。

「お姉ちゃん、ありがとう」

 エミリアは背中から降り、大尉にお礼を言う。

 

 みりんは鼻をひくひく動かしながら、ゆっくりと川辺を歩いていく。

 流れ着いたたくさんのいびつな石の中から、できるだけ丸く、かたちの整ったものを見つけ出そうとしているように、慎重に歩いていく。


「におい!」

 みりんはまた駆け出した。三人はあとを追う。

 向かっているのは、カルラ川にかかる橋の下だった。

 川べりと橋のつけ根のわずかな隙間。


 ――か細い鳴き声が聞こえた。

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