第30話 星川輝夜はままならない②

恐怖が支配する暗い闇の中。

デジタル時計の心細く光る数字が頼りの部屋で、少女の泣き声だけが木霊する。


「わあああ……うわあああ~~~」

「大丈夫だから……お兄ちゃんが、今日も一緒に寝てあげるから」


背中を摩り続けても、咲夜が泣き止む気配はない。


「やだぁ、ママがいい〜。ママに会いたいよ~」

 

そんな我儘言うなよ。僕だって……僕だって寂しいのに……。


「……いい加減にしろ‼︎」


咲夜が夜泣きを始めて一か月を迎えた頃、ついに僕にも限界が来てしまった。


「咲夜ばかりいつまでも泣いて、もう母さんはいないんだから我慢しろよ!」

 

後にも先にも、これが唯一……咲夜を叱った記憶。


「……う、うわあああん、お兄が怒った~」

 

より一層、大きくなる泣き声で僕は我に戻った。


もう泣かないでほしいのに。

苦しんでほしくないのに。

幸せになってほしいのに……。


なんでこんな八つ当たりをしてしまったんだろう。怒鳴って傷つけたことに、僕は後悔しかできない。


「……ごめんね、咲夜」

 

これだけじゃない。僕はもっと謝らなくちゃいけない。


冷めたご飯ばかり食べさせて。

しわしわなお洋服を着させて。

物が散らかった部屋で過ごさせて。

寂しい夜に、頼りないお兄ちゃんしか隣にいてあげられなくて。


『────ずっと見守っているから』


ごめん……母さん。

あの願い、僕には叶えらそうにない。人の為どころか、蓋を開ければ妹の為にすらなにもできないダメ人間だった。こんな弱い僕では咲夜を不幸にしてしまう。


もう耐えられない。心の中が絶望で溢れそうになったときだ。暗闇になれた瞳に、飾ってあった母さんの写真が朧げに映った。


『────アナタは、私の代わりに……強く……生きて』


……僕が、母さんの代わり?


そうだ……咲夜に必要なのは、僕じゃなくて母さんだ。

ママがいいと咲夜が願うのなら、その願いを叶えてあげるしかない。そうすれば悲しみや苦しみ、そして恐怖や寂しさからだって妹を守ってあげられる。

咲夜の為に……なにもできない、そんな価値のない僕は必要ない。

なら答えは一つだ。

僕が……咲夜のママになってあげればいい。


「────大丈夫、ここにいるよ」


 ※※


抱きつくのをやめ、両膝をついて咲夜の顔を見上げる。


「その日から、僕は母さんになる努力をした。炊事洗濯とかの家事は、おばあちゃんに『自分でやるから』と無理を言って教えてもらったりしてね。最初は上手くできなくて、何度か挫けそうになったけれど、次第に咲夜の幸せそうな顔が増えたから……それが嬉しくて、僕は頑張れたんだ」

「私の幸せ……だから、お兄はずっと一人で家事を……」

「そう。僕は嫌々じゃなくて、自ら咲夜のママになることを選んだんだ。その選択が間違いだなんて思ったこともないし、咲夜の『ママがいい』という願いを叶えることもできた」

「……じゃあ、お兄がママみたいに髪を伸ばしてるのも?」

 

僕は軽く頷いて微笑んだ。


「運よく、僕の外見は母さんそっくりだったからさ。あとは髪を伸ばすだけ。それだけでも、母さんの代わりとして役目を果たせると思ったんだ。もちろん、辛いことはあったよ。見た目のせいでクラスの男子から仲間外れにされたり、女子からも『お前のせいで告白を断られた』とかいちゃもんつけられて、嫌がらせもよくされた。理解してくれる大人も少なかったしね。一番堪えたのは、中学生のときかな? 散々見た目を蔑んでおきながら、僕をレ……襲ってきた奴がいてさ。まあ、悠人が助けてくれたから、大事には至らなかったけどね。今となっては全部、笑い話だよ」

「なにそれ、笑えないんだけど」

「……ごめんね。でも、これも咲夜の為だって思ったら、不思議と全て乗り越えることができたんだ。咲夜の悲しい顔を見るくらいなら、価値のない僕の犠牲なんて安いもんだよ」

「……バカ」

「え?」

「お兄のバカ‼」

「ちょ、ちょっと、咲夜⁉」

 

咲夜は僕を押し倒し、馬乗りのようして跨っている。


「いててて……だ、大丈夫、咲夜?」

「大丈夫なわけないでしょ‼ こんな話聞かされて……」


咲夜は興奮気味に僕の服の襟を掴んで、力強く上半身を引っ張り上げた。


「いい、お兄? よく聞いて……私はね、別にママの代わりなんていらないの。お兄がそばにいてくれるだけで十分なの‼」

「僕が……いるだけで? でも、咲夜はママがいいって……会いたいって」

「否定はしない。ママがいない寂しさが、今も完全に拭えてないのも認める。でもね、私は救われたんだよ……お兄の存在が、ぽっかりと空いた心の穴を補ってくれたおかげで」

「僕のおかげ? そんな……僕はなにもしてないのに」

「なに言ってるの? さっきみたいに、お兄は私を抱きしめてくれたじゃん。まさか、忘れちゃった?」

「僕が、抱きしめた……」

 

思い出した衝撃で、はっと息を飲んだ。

そういえば、あの夜……決意を固めたあと、僕は咄嗟に咲夜を抱きしめたんだった。


「あれが本当に嬉しかったんだ。私には、お兄いるから大丈夫って思えたんだもん。だから今も朝、起きたら最初にハグするんだよ?」


あの儀式、まさか僕発信だったとはな。罪深いことを習慣付けてしまった。


「だからね、私は寂しくないの。だって世界で一番私を大切に想ってくれる、可愛くて優しいお兄がいるんだもん。それだけで心が幸福に満たされるんだ。なのに、自分に価値がないとか、なにもできないとか……ふざけたこと言わないで……私の大好きなお兄を、お兄自身が否定しないでよ‼ お願い、もっと自分を大切にして……私の為に、お兄も幸せになってよ」

 

咲夜は僕の胸に顔をうずめて、再び「うわあああん」と声を上げて泣き出す。

その熱い涙が行き場を失わないように、僕は彼女の頭に手を優しく添える。


「……そっか」

 

あれだけ咲夜の幸せを願っておきながら、僕は気づけなかった。

自分が妹にとって、これほどにも大切で必要とされる存在であったことに。

紛い物の母さんではなく、そばで寄り添い続けた僕の生きた温もり。それを伝えるだけで、咲夜を悲しみから救うことができたという事実……僕の鼓動が、ちゃんとそれを証明したというのに、なんで感じ取ることができなかったのだろう。


……いや、本当はもう……わかっている。

誰よりも母さんを求めていたのは……他ならぬ、僕自身だったのだ。


あの夜、僕はなにもできない己の弱さを痛感し、母さんの願いや咲夜と向き合うことから目を背けて逃げ出してしまった。自分自身が背負うべき責任を全て置き去りにして。


だから、許されるはずがない。


そんな罪の意識が、今日に至るまでの自己否定的な思考を根付かせたのだ。

そして僕は、絶望の中で『咲夜のママ』という偽りの拠り所に縋った。母の代わりを演じれば、こんな僕にでも存在意義が生まれる。その役目を全うすることで、咲夜を幸せにしてあげられると盲信して、母さんでいることを手放せなくなっていった。

 

実際、それが咲夜を苦しめる自己欺瞞とも知らずに。


「ごめんね。お兄ちゃん……咲夜の気持ちを蔑ろにして」

「ううん。私の方こそ……ごめんなさい。お兄が辛いときに私、なんとかしてあげたいって……気持ちが止められなくて……なのにまた、我儘を言って困らせて……」 

「いいんだよ。むしろ、ありがとう。ちゃんと話してくれて」

 

顔を泣き腫らして赤くするのは、あの頃となんら変わらない。けれど、涙を流す理由だけは違う。僕の為、人の為に流せる涙は紛うことなき咲夜の成長の証。

そんな咲夜の愛情を指で拭い、受け取った想いを噛み締めるように彼女を見つめる。


「……これから、色々教えるからさ」

「……え?」

 

僕もここから、咲夜の為……いや、自分の為に変わらなきゃいけない。


「まずは分担するところから、僕と一緒に頑張ってくれる?」

「……うん‼ ありがとう、お兄……私、頑張るよ!」


確かに今、僕の前で花が咲いた。それは蕾だった頃の面影を残しつつ、僕にだけ見せてくれた一輪の笑顔。そんな麗しい花に一つだけ、大事な誓いを立てるとしよう。


星川輝夜はママにはならない。


これにてあっけなく、僕のお飯事は終わりを迎えた。

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