第29話 星川輝夜はままならない①
……うん。
とりあえず一旦、考えるのはやめよう。
「うわぁ、びしょびしょ」
熱のせいか、衣服はかなり濡れていて気持ち悪い。そんな得も言われぬ不快感を拭うように全身を着替え、おでこの冷却シートを剥がしてゴミ箱へ投げ捨てる。気怠く重い体を引きずるように部屋を出て、ひとまず用を足してからは、喉が渇いたので水を飲みに台所へ向かう。幸い、軽く動く分には問題ないみたいだ。
さて、掃除と洗濯にエトセトラ。
ずっと寝ていたから仕事が溜まっているはず。それに昨日は、インスタントとかで済ましただろうし、今日は僕が料理を作ってあげないと……。
壁を伝いながらリビングへ向かうと、キッチンから物音と愉快そうな鼻歌が聞こえてくる。
「ふふ〜ん……ん? ……ぎゃああああ‼ お化けええええ‼」
驚きたいのはこっちだ。本来、いないはずの咲夜がエプロン姿で立っているんだから。
これは幻覚かもしれない。僕は前髪を横に流して視界を整える。
「なんだ、お兄か……起きてて平気なの?」
目を擦っても消えないので、どうやら本物っぽい。
「……咲夜? 台所で一体……いや学校は?」
「まあまあ、辛いでしょ? いいから、座って」
咲夜に支えられながら、むりやりダイニングテーブルの椅子へと誘導される。
「ちょっと待っててね〜」
なにか作っているのか、コトコトと煮える音がする。
「はい、どうぞ」
「これって」
目の前に出されたのは、お茶碗一杯分のドロッとした白い液状の物。
「お粥、作ってみたんだけど……もしかして、食欲なかった?」
「いや……そんなことより、どうして咲夜は家に?」
「待って、お兄」
テーブルを挟んで反対側に座る咲夜は、ストップと言わんばかりに両手の平を向けてくる。
「後で話すから。とりあえず、今は少しでも食べて」
「う、うん。いただきます」
戸惑いながら、僕はスプーンを受け取り一口頬張る。
正直、味はよくわからない。
「……美味しい」
「ほんと! よかった〜」
ホッとしたのか、咲夜の口元が綻んだ。
「家庭科で習っといてよかった。私、初めて家で料理したかも」
咲夜は机に両肘をついて、照れ笑いを浮かべる。
「……こんなときに言うのもあれだけど、お兄」
「なに? 急に改まって」
咲夜は姿勢を正し、
「いつも、本当にありがとう」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「どうしたの? いきなり……」
「いやぁ……昨日ね、お兄がダウンしている間、パパと色々協力しながら家事を頑張ってやったんだけど……お兄がやるみたいには、完璧にできなくて」
僕は持っていたスプーンを置いて口を開く。
「咲夜、今日は僕がやるからいいよ。だから……」
「それはダメ‼ こんな重労働、今のお兄にはさせない。てか、移さないように大人しくしててよ。料理とかもってのほかだからね」
「でもせめて、洗濯や掃除ぐらいは」
「……いつもそうだ。そうやって一人で背負おうとして、お兄は私を頼ろうとしない。どうせ私のこと、信用してないんでしょ?」
「し、信用してないわけじゃないよ。ただ僕は……これぐらいしかできないから」
「これぐらい⁉ なんでそんな風に言うの? 感謝してもしきれないほどに、お兄は私やパパの為に頑張ってくれてるじゃん‼」
「……ごめん」
「謝るくらいなら、ちゃんと教えよ! ……私のなにがダメなの?」
咲夜の瞳は、苦しみを訴えるように潤んでいた。
「昔から私が手伝いたいって言っても、お兄は『僕がやるから大丈夫』って遠ざけるように断るじゃん。私だってもう十五だよ、それでもまだ子供扱いするの? いい加減、甘えてばかりじゃ嫌なの‼ それに……お兄の時間を奪ってるみたいで、苦しいんだよ」
「ま、待って咲夜。別に僕、そんな風に思ったことなんて一度も……」
「嘘つかないで‼ お願いだから……もう、
自分だけ犠牲にするのは……やめてよぉ」
咲夜の目から涙の粒がボロボロと落ちていく。
「……なん……で」
僕はただ……咲夜を二度と悲しませない為に、母さんの代わりを努めてきたつもりだ。だからこのまま、僕が世話を続けていればいい。僕がママであり続けることが彼女の幸せになる。
そう信じていたのに……どうして、咲夜はまた泣いているのだろう。
腹立たしいことに、そんな妹の様子を見ても、僕の体はピクリとも動こうとしない。おまけに喉もギュッと締まり、その苦しさで呼吸すら怪しくなる。その代わり頭の中だけは、この状況をどうやって乗り切るのか、彼女の涙をいかにして止めるのか、意味のない無駄な思考だけがグルグルと巡りだして気分が悪い。
あの夜と……同じだ。僕は……なにも……できない。
「……咲夜‼」
鉛のような足に鞭を打って、何度か躓きながら咲夜の元に歩み寄る。
「お、お兄……ぃ?」
「……ごめんね」
ぐしょぐしょになった咲夜の泣き顔を見て、僕は彼女を思わず抱きしめた。
「僕は……僕は母さんじゃないから、こんなことしか……咲夜にできない」
「な、なにを言って……?」
「僕……なりたかったんだ。咲夜の為になにもできない。そんな弱くて価値の無い自分を変えたくて、咲夜のママに────」
咲夜の涙を止めるには、もう伝えるしかない。
隠しておきたかった本心を自分の口から吐き出すしか────
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