第5話 『カナたん』
「………………カナたん」
「カナたんやめろ」
「えー………………カナきゅん」
「きゅんもやめろ。なんだよ」
「カナちゃんに叱られた」
「え?」
散々ヤリ散らかしたあとの朝である。昼過ぎに親が町内会の旅行から帰ってくることを初めて聞かされた俺は、先にシャワーを浴びておこうかと誘われ汗を流してきた。吉成は、もう限界だからいらんことをするなという俺の言いつけをしっかりと守ってくれた。
しかしその後。階下から微かに聞こえてくる洗濯機の音をなんとなく聞き流しつつ、のんべんだらりと冷房の効いた部屋で涼んでいたら突然『カナちゃん』の名前が出てきたのだ。
まだ俺が彼女に見えるのか、と聞いたらそうではないという。昨日の夜、先に眠った俺の横で微睡んでいたときに見たのだと。何を。『カナちゃん』をだ。
「えっ…………怖い話?」
「いや? 全然怖くはない話。あー本物のカナちゃんだ、って感じだった。なんか見え方が陽炎っぽくて、うっすら透けてた気がする。ちょうどその辺に立っててさ」
「うわ!! マジか!!」
「いやいや、もういないから。ウケる」
……今日からお盆期間である。タイムリーすぎる話が思わぬ角度から飛び込んできて、俺は早くも鳥肌を立ててしまった。全く気づかなかった。吉成のせいで疲れに疲れ、泥のように眠っていたからだ。
「事故ったときに着てたからかな。制服だった。別に怪我とか全然してなくて。前とおんなじ綺麗な顔してた。で、脚上げたなーと思ったら、俺の腹んとこガッ、って思いっきり蹴ってきて——」
——ん? 腹を蹴っ……なんて??
初めて彼女を見かけたのは、部室にひとりでいたときの窓越しだった。テスト期間のために全部活動は休止していたが、俺は混雑しているバス停へ行く気にならず、部室で時間が過ぎるのを待っていた。
どこかでお喋りでもしていたのか、すこしまばらになってきた生徒たちの中に二人がいた。あれが噂の可愛い彼女か、と目で追った。吸い寄せられた。
色白の肌に映える黒髪は、風に靡いてはするりと肩に留まる。その真っ直ぐな髪の素直さは、彼女の性格を表しているように思えた。清楚でいかにも大人しそうで、吉成はああいうわかりやすい女の子が好きなのかなんて思いながら、二人の姿が見えなくなるまで声もかけずに見送った。
人気の少ない校内。時間が溶けてなくなる音が聞こえそうなほどに静かであったが、俺の心の中ではブクブク、グツグツと泡が沸いては弾け去る音がひっきりなしに立っていた。嫉妬と羨望を泥状に混ぜ込んだ、この世で一番汚い音が。
「おい!! お前なにやってんだよコノヤロー!! って」
「え? お前がキレたの?」
「ちげーよ。カナちゃんがだよ。……おいお前、友達にナニやってんだよ。責任取れよ!! わかってんのかコラァ!! ……って。クソほど巻き舌で」
「えー……っと、え? カナちゃんそんなキャラ? ……え? ……マジの話??」
吉成はベッドの上で涅槃ポーズを取りながら『マジマジ』と死んだ目をして呟いた。俺の記憶の中で微笑んでいる清楚で可愛い彼女と、吉成が語る昭和ヤンキーキャラの彼女のイメージがまるで合致しない。バラバラキャラ変事件である。
吉成はこれまでずっと彼女のことを自分からは語らなかった。俺は己の嫉妬と戦うのに忙しくしていたのでうろ覚えだが、他の奴が根掘り葉掘り聞いてもその応対は一貫していたと思う。絶対話さないわけではないが、とにかく詳細は濁していたのだ。
「最初はさー、よそのクラスに可愛い子いるなーって気にしてて。思い切って告白したけど誰あんた、ってすごい妥当な理由で断られて。そりゃそうか、みたいな。中学のノリ引きずってたわ」
「お前……うん、それで?」
「それでー、色々遊びに誘ったり、友達に断られたからーって嘘の理由つけて映画に誘ったりとかして、なんとかかんとか頑張った。ちなみにそのとき一緒に観たのはー」
……
「……やばかったなー。初っ端から首なし死体がごーろごろ。その辺にいたザリガニみたいなやつがその死体ムシャムシャ食ってて、しかも——」
「あっ、内容はいい。気持ち悪くなる。お前、それ知らないで誘ったの?」
「ううん。知ってたけど頑張った。カナちゃんがさあ、観たいっていうから……」
「そっか……」
「カナちゃんさあ、男兄弟ばっかの中に産まれた子らしくて。可愛がってはもらったけど躾とかは男のそれで、特別扱いとかはなかったって。だからあんなに勇ましく……」
「お淑やか清純系なのに……」
「中学のときまでは中身そのまんまのヤンチャな見た目で、高校でイメージ変えようと思ったんだって。最初は俺がリードしよー、とか思ってたときもありました」
概ね悪口になってしまうため言えなかった、という初めて聞く話を遠い目で滔々と語る吉成は、苦笑いを交えた複雑な表情を浮かべていた。こいつはマナー全般がなってない。最後の子だということで、猫可愛がりされた末の子どもである。
彼女は他の男兄弟たちと区別も差別もされず、ときに厳しくときに甘く、口の悪い家族に囲まれ大切に育てられてきた。特に食事のマナーを厳しく躾けられてきたという彼女。一緒に食事をする機会の多い恋人関係を吉成と結んだあとは、口だけでなく時々手や足も飛ばしてきたそうだ。それはお前が悪いと俺も思う。大いに反省するがよい。南無三。
「カナちゃんが交通事故に遭ったときさ。もうとっくに別れてたんだよね。やっぱ合わないって。オレが子どもすぎるって。オレもずっと叱られすぎててさ、全然踏ん張れなかったわ。事故のこと知ったときは落ち込んだけど。元彼なりに」
「そっか……」
「そんで……次はオレが頭打った事故。最初はさ、なぜかみんなのことがわかんなかった。顔の違いはわかるのに。前と同じ記憶がサッと出てきたのはカナちゃんだけ。もういないことは覚えてなかったのに。いつも来てくれてたから、しばらく思い出せなかったわ」
「まあ、それはお前が実際に付き合ってたカナちゃんのことじゃないけどな」
「いや、あれはカナちゃんだった。何回会ってもそう見えた。でも会えば会うほど……なんていうか、視界の端に映ってるのはお前なの。でも焦点を合わせるとカナちゃんがいる。声とか触った感じとか、いないはずなのになーっていうおぼろげな記憶は、違和感として感じてた」
「……そうなん? 不思議だな……」
「でしょ。でもさ、あの気性の激しいカナちゃんじゃなくってさ、付き合う前にオレが思い描いてたカナちゃんだった。優しくて、よく笑ってくれて、つまんない話もうんうんって最後まで聞いてくれる」
「ふーん。そんな風に見えてたのか」
「オレさー。これ言うの恥ずかしいけどさ、お前が彼女だったらいいのにって多分思ってたと思うんだよねー」
「へえー………………ん??」
吉成は目を盛大に泳がせながらも、辿々しい説明と仮説を唱え始めた。見た目の好みは『カナちゃん』であるが、中身の好みは俺らしい。とても。だから一年生の終わり頃に配布されたアンケートに、自分とは別の科目を俺が書いていたと知ったとき、実はかなり怒っていたらしい。そして同時に気に病んでもいたという。
「記憶ってさ。かなり個人差がある曖昧なもんなんだって。同時に同じものを見たはずなのに、あとで聞いたら証言が食い違うとかザラだって。大きさとか、色や形とか。ていうか脳みそってそもそも解明されてないことがほとんどらしい」
「え、でもさ、俺と元カノを間違うなんてさすがに……」
「いやいや。オレらより遥かに頭の良い大人たちが雁首揃えてわかんないって結論付けてんだもん。そういうこともあるかもよ、ってか実際あったんだから仕方なくね?」
「えー……うん……じゃあ百歩譲って……うーん……」
「そんで今回、事故の衝撃によってオレの記憶が引き出しごとガーッと抜き出され、床にバーっとぶちまけられたとする。とりま死なないために身体の回復を先にして、記憶はあとで整理した。あーあー、ってしぶしぶ片付け開始。あっ、好きなもんみっけ。これとこれがオレは好き。ドーン、みたいな」
「お前、そんな……ペンパイナポーアッポーペーン、みたいな……」
妙なはにかみ笑いをしながら視線を彷徨わせていたアホの吉成は、好きなものを見つけてウキウキする少年の顔へと表情を変化させていた。黙っていたことを語り尽くしてスッキリしたのか身体を起こし、なぜかドアの方へと向かっていった。
まあ、本人が楽しかったなら幸いだ。今回のことは二人だけの秘密にして、良いお友達に戻ればいいじゃないか。俺は自分からそう言って、オチをつけるつもりだった。……しかし。
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