第2話 『あいつ』
全身がゾワリと総毛立った。俺を至近距離から見ているはずの目に、俺は最初から映っていなかったのだ。本人は『カナちゃん』を見ている。本気でそう認識している。
しかし本当のことを言ってしまえば、こいつは一体どうなるか。素人の俺ではまるで予想がつかない。パニックを起こしてしまうのではないか。そして自分のやったことを思い返し、なぜお前がいるのだ、と突き飛ばされるのではないか。
『カナちゃん』はどこにいる、なんて聞かれたら。どう答えるのが正しいか。馬鹿正直にこの場で教えてしまえば、せっかく身体が回復したのに生きる気力を失うのでは。
急に飛び退るように身体を離した俺を見つめている吉成は、怪訝な顔というよりも心から心配している、という表情を浮かべ黙っていた。全て『カナちゃん』に向けた感情だ。その温かいものを俺が代わりに受け取ったとしても、かつての彼女には渡してあげられない。
彼女の姿は覚えているが、口調や人となりまではよく知らない。それでもなんとか話を合わせる努力をした。笑える気分では一切なかったのだが笑顔を作り、お父さんが心配するからと嘘をつき、子どものように手を振りながら病室を出た。
帰り道は歩くだけで精一杯だった。一度涙腺を決壊させてしまえば、その場に蹲って立てなくなるのは明白だから。
道端で泣きわめく子どもになることもなく無事に帰宅し、夕食を食べ、風呂に浸かって脚を伸ばした。泣きたい気持ちはまだあるが、いざひとりの時間を手に入れてみると涙は不思議と出なかった。
温かい湯溜まりの中にいるはずなのに、いくら待っても気持ちは冷えたまま。そんな静かで暗い混沌の中に俺はいた。本来は俺が開けてはいけない他人宛てであるはずの、しかも秘密の贈り物を勝手に開け、身につけて使ってしまったような罪悪感が頭を洗えど身体を流せど、へばりついて落ちてくれない。
困ったことに贈り物の中身というのは、俺が一番切望していたものだった。頭では間違いだとわかっていても手放すにはあまりにも惜しい。このまま黙っていればバレないのでは、という悪魔の囁きの声を聞いた。
気持ちを返品するにしても、その理由としての適切な説明など俺にはできない。周りに相談するとしても、後で笑い話にできるようなことではないだろう。遺恨が残る可能性はある。かつての彼女へ贈る気持ちは全て、宛先不明で返ってきてしまう。受け取り先がないならば、俺が受け取ったって良いのでは。
受験を意識し始めて、自分のレベルと実力を再認識し、勉強時間を増やして増やして桜を咲かせた。しかしあの高校に入ることが真の目的というわけではなかった。単に家から距離があったから。費用を負担してくれる親への説得と、目下の現実逃避のためだけに設定した目標だった。
中学時代の連中を見ると嫌でも思い出してしまうからだ。あいつもこいつも嫌いだったわけじゃない。嫌なことを言われたりされたりした覚えもない。好きな奴ができるたびに己の性癖を隠して隠して隠し通して、孤独に陥り疲弊していた過去から逃げたかった。それだけだった。
入学式のとき見かけたあの瞬間から、あいつのそばに居るのが通う目的になった。俺はまた同じことを繰り返しているのではないか。相思相愛が確約されている道ではないのに。先は真っ暗闇なのに。嫌々でも繰り返して身につける努力の類は、単語や公式の暗記だけにしておきたかったのに。
——————
「もう夏休みかー。その前に退院できると思ったのに。明日やっと帰れるわ」
「頭のことだから仕方ないよ。後遺症がなかったのはラッキーだったね」
「でもさー、しばらくバスケ復帰しちゃダメだって。先生じゃなくて親に言われた。これからもっと暑くなるのに、あんな蒸し暑いとこで運動してたら血液ドロドロになって、まだ治りきってないとこに詰まるだろって。いや、治ったし!」
「心配なんだよ。察してあげよう。湊、しばらく意識なかったんだから」
あれを目の当たりにしておきながら、結局毎日のように病院へ通うことはやめられなかった。俺はまた誘われるがまま吉成のベッドに腰掛けて、回された腕から体温を分けてもらっている。
時折、俺の首筋に顔を埋めて話すものだから声の質感が届きすぎて、皮膚の下にある神経を音圧で刺激されたような感覚が走る。ビリビリとまではいかずとも、ジワリとゆっくり見えない手を制服の下に滑らせて、身体を弄られているような気がして正気を保つのが難しかった。
抱きしめている相手が緊急事態に陥っていることも知らずに話す吉成は、突然話題を俺のことへと変えてきた。ドキッとした。ここには『カナちゃん』しか存在しないはずで、演じているのは俺だから。
「——でさ、オレも一応大変な身だけどあいつも大変? らしくてさ。でも遺品整理ってそんな時間かかるもんなんかな。お父さんの実家がゴミ屋敷だったとか?」
「いや……そんなことは滅多にないでしょ」
「だよねー……なんかさ、気のせいかもしんないけどさ、ずっと避けられてる気がすんの。二年のクラスも別になっちゃったし、遊びに誘っても来てくんないし」
「人の彼女が一緒だと気を遣うから、行きたくなくなる人もいるんじゃない?」
「えー? そんな繊細な奴じゃないけどなー。ノリ良くて面白いからさ、カナちゃんにも紹介したいんだけど。多分友達になったのはさ、最初の数学の時間にさあ——」
入学式から間もなくして、数学の授業が始まった。若い教師がお決まりの挨拶を済ませたところに吉成が、ド定番の質問をぶん投げたのだ。
「せんせー! 彼女いますかー?」
にわかに教室内は沸き立った。そこそこ良い進学校とはいえど、俺たちが在籍しているのは本気で勉強に取りかかるための特進コースなどではなく、ごく普通の進学コースである。
苦しかった受験を終わらせ無事に入学し、みんな肩の力は抜けている。ドベの学校などではないので荒れる要素は少ないが、生徒が教師に対して発する軽口自体は時々見られていた。
その教師も若いとはいえど学校内の空気感は理解しているようで、特に嫌な顔もせず答えてくれた。
「いませーん。結婚してまーす」
「ええ!? そんな……!!」
「そっち!?」
教室内がドッと沸いた。吉成がかました絶望の演技に突っ込んだのは俺である。お前ソッチ系かよという意味と、ここで囃し立てるんじゃないんかいという意味と、女子かお前はという意味を全て詰め込んだ、自分で言うのもアレだと思うが会心の一言であった。
もちろん場を沸かせた手応えを感じていたので達成感は得られたが、吉成との繋がりがもっと欲しいという気持ちの方がより強く、その願いをひとつ叶えられたかもしれない、そんなことを考え悦に浸っていた。
なんというか、我ながらいじらしいと思う。アホだとも思う。勝手に抱いた希望の先へ行けたとしても、明るい未来なんて約束されていないのに。
「オレがボケたら拾ってくれんの。角度キツめな無理めのボケでも絶対拾ってくれるからすごい喋りやすい。いい奴でしょ。頭いいんだよ。理数系の成績とかもオレより若干上なのに、文系コースに行っちゃって。それ知ったときちょっと怒ったし。そんでそのあと、オレなんかしたかなーって考えた。……はずなんだけど、それも頭打って忘れたんかなー」
「……成績良くても、これ以上は無理だなとか、伸ばしても良いことなさそうとか思ったんでしょ。自分の実力は自分が一番わかってるから」
「えーでもさー、うーん……じゃあ怖いけど、聞いてみる。本人に。一回頭打ってんのを言い訳にして」
吉成はベッドの傍にある台の上に置かれたスマホを横目で見ながらそう言った。しまった、俺のスマホ。電源が入っている。マナーモードにはしているが、着信は全部わかってしまう。
それを知られてしまうと困るため、そろそろ帰ると伝えて身体の向きを変えようとした。すると回されていた腕の力が強くなり、無言で引き留められてしまった。
きつく叱るわけにもいかず、焦り始めた俺の気持ちなど知らない吉成は背中に顔を押し付けてきて『怖いなー』と、落とした声で呟いた。くぐもった声と、湿った息がくすぐったかった。
俺の両親は、階下にある店舗で飲食店を経営している。利便性の良い土地であり周囲に会社も多くあるため、基本的にはいつも忙しい。しかしどこかに所属し勤めているわけではないので、突発的なことへの調整が容易だという利点がある。
今回、父方の祖母が亡くなったことで発生した遺品整理や相続などをなるべく一気に済ませるため、しばらく店を閉めることになっていた。家に残された俺と妹は、普段できない店の清掃と家事を任され、まあまあ忙しい日々を送っていた。
しかしその状況がずっと続いていたわけではない。周囲の連中や吉成には言っていないだけで、そんなお家事情はとっくの昔に解決していた。何故か。俺が俺として、吉成の前に出られなかったからだ。
吉成は俺のことを『カナちゃん』だと思っている。記憶をほとんど取り戻した吉成の前にみんなと連れ立って行ってしまえば、当然ながら悲劇が起きる。もし完璧に間違った認識を正せたとして、ギリギリの線で面白黒歴史にはできるかもしれない。
でもそのオチをつけるからには『カナちゃん』にしていたような甘いやり取りはもう二度としてもらえない、という事実をしっかり腹に落とし込まねばならない。もしほんの少しでも未練を残してしまえば、関係性にヒビが入るどころではない。断絶する。中学のときに考えていた、最悪のシナリオを現実のものにしてしまう。
既読がつくと困るので、見ないようにしていたメッセージをようやく開けた。怖い、と言っていた様子は全く読み取れない、いつも通りの能天気な文書だった。
「オレお前に嫌なことしてたかも。でも頭打って忘れてるだろうから教えてー」
「別に嫌じゃない」
病院内でスマホを使えるのは限られた場所だけになっている。返信は翌日だろうと思っていたら、わりと早めに返ってきた。
「じゃあなんで一回も来てくんないのー。めっちゃ寂しー。もう夏休みだしうち来てよ」
「わかった」
喜びを示すスタンプが送られてきて、その日のやり取りは終了した。そういえば『カナちゃん』とのやり取りはどうしていたんだろう、既読すらつかないはずだが、と考えたのだがすぐやめた。
いまの吉成の認知は狂っている。俺も同じように狂っている。吉成の家族もクラスの同級生もみんな望んでいた完治なんて、俺にはどうでもいいからだ。
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